第九十二話 ★高彦:阿閉の門
◇ 【三野臣高彦】視点 ◇
夜の山道を、兵たちの松明が揺れていた。
誰も、声を張らない。
その足取りは重い。
三野の本環濠を失った。
波多を得られず、三野之黒犬も討てず、
帰るべき火床すら背後にはない。
まだ兵は残っている。
だが、その糧も尽きる頃だった。
――――――――――
「阿閉まで、間もなくにございます」
我の横から、フクロウの声があがる。
「わかっておる」
向かう先。
木々の隙間から、環濠の火が見えていた。
阿閉の環濠。
このあたりで最大規模を誇る環濠。
我と祖を同じくする筋のなかで、
最も大きな力を持つ臣。
そして、我がもっとも、
頼りたくなかった者でもある。
「阿閉臣饗守か……」
その名を、口にするだけで腹の奥が重くなる。
「このあたりは懐かしいか、フクロウよ」
「昔のことにございます」
「そうだな……」
* * *
はるか昔。
我らが若かりし頃。
そして、フクロウが阿閉の筋として、
ひとつの環濠を率いていた頃。
我らが三野に対して、
阿閉が、ある失態を犯した。
そして、その責を負わされ、
阿閉で生き場を失った男がいた。
ならば、その者を、
我が好きにしても構わぬな。
その時、我は、そう言ったのだ。
アエモリは笑って頷いた。
阿閉を継ぎ得る対立者を一人、
根から断つことができるのだから。
* * *
そうして、阿閉を追い出された男は、
今では梟と名を変えて、三野で兵を率いている。
誰よりも頼りになる優秀な右腕として。
それだけは、少しばかり愉快だった。
――――――――――
我らが阿閉の環濠に着いたとき。
すでに門は開かれていた。
我らを迎えるように門で並ぶ兵ども。
その表情は、どれもわずかに緩んでいる。
環濠の上から、野犬でも眺めるような目。
腹立たしいにも程がある。
「おお、これは三野臣高彦殿」
門の内側から、ひとりの小柄な男が姿を現した。
阿閉臣饗守――
白い髭を整え、衣を乱さず。
まるで、祭りの客でも迎えるように、
両手をゆるやかに広げている。
「よくぞ、険しい山道を越えて来られた」
その顔に憐れみはない。
すべてを知った上で、
何も知らぬふりをする歪んだ笑みである。
「迎えが早いな、アエモリ」
「祖を同じくする筋の者が、
夜に山道を越えて来られると聞けば、
火を用意して迎えるは、当然にございます」
よく言う。
我が三野の本環濠を失ったこと、
息子のクロイと、ナトリが反意を示したこと。
そして、行き場を失ったこと。
それらのすべてを、先触れで知らせている。
「タカヒコ殿ほどの御方が、
このまま、終わるなど思ってはおりませぬ」
アエモリは、柔らかく笑う。
「ですが、三野を取り戻すには、
まず兵の腹を満たさねばなりますまい」
丁寧な声だが、その腹の内では、
手を叩いて大笑いをしていることだろう。
兵を出さず、槍も折らず、血も流さず。
火と、粥を出すだけで、
我が兵に手綱をかけられるのだ。
安い糧で、強い兵を買い叩くようなものだ。
――――――――――
「タカヒコ殿、そちらの者は、
はて、どこかで見た顔であるが……」
アエモリの視線が、我の横へ向けられる。
フクロウが、一歩前に出ると、
その地に膝をついた。
「三野之梟にございます」
「おお、そうであった、そうであった」
いかにも、今思い出したという顔で嘲笑う。
「そうか、今は、フクロウと名乗るか。
たしか今は、三野の者であったのだな……」
「はっ」
「ひさしぶりに目にする阿閉の火は、
そなたには少し眩しかろう」
嫌らしい言いまわしだ。
阿閉の筋から外された者に対して、
その環濠の、大きな火を見せつける。
だが、フクロウは、
わずかにも表情を崩さなかった。
「三野の闇にてこそ、
梟は、その目が利きますゆえ」
途端に、アエモリは目を細めた。
ほんのわずかだが、
確かに、その笑みの奥が冷えていた。
「ふっ」
我は、喉の奥で笑いそうになった。
よい。
それでこそ、我が拾った男だ。
「なるほど、良き名を得たようですな……」
あからさまに、アエモリの声が低くなった。
「三野臣高彦様より賜った名にございます」
「タカヒコ殿は、昔から、
人を見る目がおありのようで……」
「誰かには不要なものでも、
我に使えることもあるというだけである」
「さようか、それは耳が痛い……」
事もなげな顔で、
アエモリは、柔らかく笑ってみせた。
――――――――――
「積もる話は後にして、
それでは、まず、環濠の中へ」
言葉だけ聞いていれば、
礼を尽くしているようにも見える。
「偉大な三野臣を、門の外に、
立たせておくわけにはまいりませんからな」
だが、この環濠の門をくぐれば、
阿閉の恩にすがったことになるのだ。
「…………」
我は、ゆっくりと背後をみわたす。
百近くいる兵たちの、その疲れきった顔。
阿閉の環濠から漂う、粥の匂いに、
十分に食を取れていない兵の腹が鳴る。
ここで意地を張れば、
兵の心は、さらに痩せる。
我に残された答えは、ひとつしかなかった。
「しばらくの間、世話になる」
我は、短く告げる。
兵たちの間に安堵の空気が広がった。
腹立たしいが、
今は、呑むしかない。
「おお、それは何より」
アエモリは、深く頭を下げた。
その頭の下で、笑っている。
見えずともわかる。
こいつは、そういう男だ。
――――――――――
阿閉の門をくぐると。
すぐに、粥をすする兵の音が聞こえ始めた。
傷を負った者が、湯のある方へと連れていかれた。
何もかも、用意がよすぎる。
この場に足を踏み入れた時点で、
我らは、阿閉の筋書きに引きずり込まれた。
そして、このまま、恩を重ねられたならば、
いずれ我らは、我らでいられなくなる。
過去に、そうして、
阿閉臣に喰われていった筋の者がいる。
その者らの名は、伊賀――
「我は、そうはならぬ……」
誰にも聞こえぬほど低く、我は呟いた。




