第九十話 ◇黒犬:戦なき環濠
◇ 【三野之黒犬】視点 ◇
翌朝、三野の環濠へ向かう道は、
静まり返っていた。
「名張の兵は、三十と言ったな……」
ナトリと並んで獣道を歩く。
私たちの後ろには、三十名の兵が連なる。
その他の者たちは、
負傷者や、環濠の守り手を優先して、
それぞれの環濠に帰すことにした。
名張の三十の兵に、我らの三十の兵で、
環濠を制するのに足りるだろう。
「父上の環濠は大きく、
名張だけでは手に負えないでしょうから」
「うむ、先を急がねば……」
歩調は、自然と早まった。
――――――――――
森が開けると、
三野の本環濠が見えてきた。
朝日のした、大きな環濠を囲むように、
雄々しい木の柵が並んでいる。
「なにかおかしい……」
環濠から、火の手が上がっていない。
門を打ち破った様子もなければ。
橋のまわりに死体の跡もなく、
血肉の匂いまでしない。
戦の匂いが、薄すぎる――
「……あ、橋の先に居るのが、イミナ殿です」
ナトリが、環濠の橋に指を向けた。
そこには小柄な童が、
橋の脇に、ちょこんと腰を下ろしていた。
「あれが、名張の童……イミナ殿……」
幼い。
噂には聞いていたが、
成人前の男子を示すボサボサの髪の毛。
その背丈は小さく、手足も短い。
その小さな手に、燻製肉らしきものを握り、
今も呑気に齧っている。
どう見ても、ただの童だ……。
「イミナ、殿……何をしているのだ……」
「あ、お待ちしておりました」
顔を上げた童は、
こちらを見上げて、にこりと笑った。
家に客人を招き入れるような声だった。
「おう、三野からの兵も到着か」
三野の橋の手前には、
他にも、名張の者らしき男たちの姿。
我らに槍を突きつけるわけでもなく、
ただ、橋を守るように立っていた。
そして、橋の向こう。
環濠の内側では、
三野の人々が普通の日常を過ごしている。
「なぜ、戦になっていない」
挨拶も忘れて。
私は、思わず聞いてしまった。
「えっと、それは……、
戦にならないように入りましたので」
名張の童は、不思議そうに首を傾げた。
「環濠の内にいる者たちは、
おおむね、我らを仲間だと思っておりますよ」
さらに童は言葉を続けた。
「こちらの頭がおかしくなりそうだ……」
おもわず額に手を当てる。
目のまえの童は、
一体、なにを言っているのだ。
三野の者たちが、
名張を、仲間だと思っているだと。
すこし前には、槍を交わした相手だぞ。
――――――――――
「あ、すみません、その際に、
ナトリ様のお名前を、お借りしました」
「私の、名前ですか……」
後ろから、ナトリの声が聞こえた。
「三野臣が、ナトリ様と波多で合流し、
そこにクロイ殿が兵を挙げて戦になった」
「そういう、嘘をつきましたので……」
しれっと、とんでもないことを言う。
「我が悪者か……」
父上に抵抗して兵を挙げたこと自体は、
事実なので、別に構わぬが……。
「こちらの環濠の守りを助けてほしい、
……そう、ナトリ様からの命を受けたと」
「話の筋は通っているが、
なぜ、三野の民が、それを信じる」
普通に考えて疑うだろう。
「信じさせる者を、
先に、環濠へ向かわせましたから」
「あ、まさか」
その時、ナトリが呟いた。
「以前の名張攻めで、手当をされた後、
名張に残った者たちですね」
「さあ、それはどうでしょうね」
イミナは答えなかった。
ただ、笑みだけを浮かべている。
それが、答えだった。
「これが名張の童、か……」
背筋に冷たいものが過る。
名張は、以前の戦を終えた時から、
今回の事態に備えていたとでもいうのか。
捕らえた兵の顔を借り、言葉を借り。
三野の環濠へ忍び込ませる者に、
仕立て上げたと……。
――――――――――
「ならば、我らが見た、
あの黒い煙はどこにあるのだ」
「ああ、それなら、むこうですよ」
童は手元の燻製肉を見てから、
環濠の、すこし離れたところを指差した。
いくつかの焚火が設けらていた。
今も、数匹の獣が吊るされて焼かれている。
「肉を、焼いているのか……」
たしかに、ここまで肉の香りが漂ってくる。
「焼いた肉は、三野の環濠の皆さんにも、
美味しく食べてもらってます」
「なぜ、敵に糧をまわすような真似を……」
「そりゃ、人を騙すには、
食事を共にするのが一番ですから」
「そ、そうか……」
とんでもないことを平然と口にする。
だが、確かに、その通りだ。
「あ、それで、あの焚火なんですが、
特に、遠くから黒い煙が見えるように、
獣の糞尿や、皮なども混ぜて燃やしてですね……」
それからも、童は楽しげに語っていた。
だが、本当に恐ろしいのは、
その煙の知識ではない。
この童は、父上に黒煙を見せるために、
三野の環濠の前で火を起こしたという。
帰る場所を失ったと、
そう、父上に思い込ませるために。
だが、その時に三野の環濠は、
まだ存在していたのだ。
こんな年端もいかない童が、父上を欺いた。
この、三野の環濠を、
名張の兵だけで抑えることが難しい。
それなら、すべてを偽って、
我らと合流するまで待つことにしたのだろう。
この童は、そんな不可能を、
あっさりと現実に塗り替えてしまったのだ。
――――――――――
「それでは、中へ向かいますか」
名張の童が、我々を環濠へ促してきた。
「まだ、三野の環濠の皆さんが、
我らを味方だと思っているうちに……」
屈託のない笑顔を浮かべる、この童は。
槍を一合も交わすことなく、
この、三野の環濠を落としていた。
「これが名張の童か……」
そんな、私の声を聞き流しながら。
ただ、静かに、童は微笑んでいた。




