第八十九話 ◇黒犬:三野を守るもの
◇ 【三野之黒犬】視点 ◇
「本当に、名張の言うとおりになった」
日は暮れ始めていた。
薄闇に沈みかけた三野の丘。
三野臣の軍が、ゆっくりと北へ退いていく。
私は、それを見つめながら、ようやく息を吐いた。
勝った。
いや、違う。
ただ、潰されなかっただけだ。
「皆……」
まわりの兵は、
その誰もが傷を負っている。
「よく耐えてくれた」
丘を取られた時点で、
戦に勝つ道は断たれていた。
それからの丘の下にいた私たちは、
ただの囮でしかなかったのだ。
――――――――――
「兄上……」
波多の環濠の門が開かれて、
ナトリが姿を現した。
歩くたびに木造の橋が軋み、
その音が、夕暮れの空に響きわたる。
「父上は、退かれましたな」
北の方角を見上げる。
三野臣の松明の火が、
ゆっくりと、北へ移動していた。
「名張が、動いてくれました」
ナトリは、三野の環濠へ視線を向けた。
あの黒煙はもう見えない。
だが、あの煙が、
私たちの命を救ってくれた。
それは間違いなかった。
「まずは、皆様を波多の環濠の中へ。
傷の手当てをいたしましょう」
ナトリに促されて、
私たちは、波多の環濠に向かった。
――――――――――
波多の環濠では、
いくつもの火が起こされていた。
広場では湯が沸かされて、
洗われた布と、薬草の束が並ぶ。
波多の者たちの手によって、
負傷した兵へ、手当てが施されていく。
「戦で、名張に捕らわれた兵の、
三野へ戻ることを望んだ者たちを、
波多で預かったのですが……」
「それは初耳だな」
おそらく、父上にも、
知らされていないのだろう。
その時点で、すでにナトリは、
波多を守るための備えを始めていたのか。
「名張で受けた手当ての術を、
かの者たちから伝え聞いているのです」
「さようか」
捕らえた兵を返したりするなど。
大事な村の技術が
外部に流れるだけではないか。
いったい、名張は、なにを考えて――
「とても凄いものですよ……」
ナトリは、湯を運ぶ、
女衆を見つめながら言った。
「火の巫女様の加護というものは」
「ナトリ……?」
私は、ナトリの横顔を見た。
それは初めて目にする、
弟の表情だった。
――――――――――
「そして……」
ナトリが、さらに続ける。
「兄上が時間を稼いでくれなければ、
名張も動けなかった、
すべては、兄上のおかげです……」
「そうではない」
私は首を振った。
「お前の使いが寄越された時、
むしろ、助けられたのは我らのほうだ」
この波多で、父上と対峙したとき。
そこに勝ち筋は無かった。
「時間を稼げば三野臣は崩壊する、
三野のために命を貸してほしいと」
そんな、ナトリからの言葉が届き。
絶望の淵にる私は、
なんとか正気を保つことができたのだ。
「その言葉の意味は、
最初は、まったく分からなかったがな」
ふいに笑いがこみ上げた。
「あの時は、必死でしたので」
ナトリが頭を下げる。
「本当に……。
兄上が兵を出してくれなければ、
あのまま、波多は倉を奪われてました」
「礼など言うな」
私は、息を吐く。
「三野を割ったのだぞ、我らは」
この三野の地に続く伝統を。
その、多くの筋の者たちを、
敵にまわすことになる。
「はい」
ナトリは頷いた。
その顔に、怯えはなかった。
弟は、こんなに、
肝の据わった男だっただろうか。
いや、そうではない。
名張の村、その童が、
こうも、弟を変えてしまったということか。
――――――――――
「もう夜は深い……」
南の空へ目を向けた。
「三野に向かうのは明日になるな」
三野の本拠となる環濠。
そこに、名張の者たちがいる。
謎に包まれた、物の怪のような童が……。




