第八十八話 ★高彦:失われた帰る場所
◇ 【三野臣高彦】視点 ◇
「なぜだ」
思わず、声が漏れる。
日が傾き始めていた。
丘には長い影が落ちている。
その丘の下では、クロイたちの兵が、
静かな動きを見せていた。
「なぜ、貴様らが、兵を退くのだ」
まだ、勝負はついていない。
兵が崩れたのではない。
恐れをなして逃げるのでもない。
盾を構えたまま、槍を乱さず。
整然と前線を下げていく。
まるで、そのすべてが、
はじめから予定されてたように。
――――――――――
「タカヒコ様、これは……」
フクロウが、不安げな声を漏らした。
この男と、長く行動を共にしてきたが、
かような声を出すのは珍しい。
「わからぬ……」
丘の麓では。
次々に、波多の兵が橋を渡っていき、
環濠の門をくぐり、内へ戻る。
そして、波多の環濠の門は、閉ざされた。
一方、クロイの兵は、
環濠よりも南の小高い丘へ向かう。
波多の環濠からの援護の矢が届くよう、
寄り添うように陣を構えた。
「環濠を攻めれば、我らを橋で足止めし、
その間にクロイの兵が横から突き……」
「南の丘を攻めれば、環濠から、
ナトリの兵が横腹を突くわけか……」
つまり。
攻められた側が固く守り、
もう片方が、こちらの側面を突く構え。
もう、むこうには、
攻める意思がないということでもある。
数刻前までは、
我らが、丘の上で受ける側だった。
我らは、クロイが上がってくるのを待ち、
それを受けていればよかった。
それが、あの黒煙の上がった瞬間。
すべてが一変した。
この我らが。
三野臣高彦の率いる兵が。
時間に追われる側へと、
その立場を、入れ替えられたのだ。
――――――――――
「追いますか」
フクロウが聞いてくる。
まだ、クロイの殿の兵たちは、
丘を下っている途中である。
「今、この瞬間にでも丘を駆けおりて、
奴らに槍を突き立てれば、
手傷を負わせることはできよう」
退く兵は弱い。
背を見せる兵は脆い。
「だが、それが、何になるというのだ」
我らが失ったものは、
丘の下における勝ち負けではない。
三野の環濠だ。
我らの帰る場所であり、
兵の腹を満たす倉、そのものだ。
クロイの兵を散らしたところで、
三野の環濠は戻らない。
「波多の環濠まで奪い切れるならば、
まだ、道はあるが……」
それは、クロイも承知の上だろう。
だからこその守りの構え。
勝つことを目的とせず、
クロイに、守りに徹されたならば。
今から波多の環濠を奪い取るのは、
さすがに厳しい。
「せめて、一刻前に我が動いていれば……」
この丘で、クロイの兵を叩き潰しておけば。
自軍の被害を恐れずに全力で攻めれば、
今頃、我は勝っていたのだ。
だが、揺るぎない勝利の中で、
被害を最小限に抑えようとしてしまった。
そこに、余裕を持ってしまった。
その間に、
この戦の意味が――
何者かの手によって塗り替えられた。
もう、この野戦の勝ち負けでは、
この盤上は動かぬだろう。
――――――――――
「三野の環濠に戻りますか?」
「馬鹿を言うな」
我は、黒煙の上がる方角を見た。
「事態はもう変わった。
この盤は、我の負けだ……」
口にした瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
だが、認めねばならぬ。
認めぬ者から死んでいくのだ。
三野の環濠が敵の手に落ちた。
そこに誰がいるのか。
門がどうなっているのか。
橋は、倉は、どうなっているのか。
何も分からぬ。
容易に奪い返せるかもしれない。
だが、その先に予想を超える者がいた場合。
最悪、我らが百の兵が挟まれる。
それは最悪の手だ。
何も分からぬ場所へ、
迂闊に飛び込むことはできぬ。
「では、この丘に留まりますか」
「それもできぬ」
百の兵は力だ。
だが、百の腹は重い。
持たせてきた糧は数日分にすぎない。
環濠を失った以上、
そこから先の腹が満たせない。
そして、最大の問題は、
我らの兵が目にしていることだ。
我らが環濠の方角に立ち昇る。
あの黒煙を――
これ以上、
ここに留まれば兵の心が腐る。
敗色が濃くなれば、
兵は自然と瓦解していく。
その前になんとかせねば。
――――――――――
「北へ退く」
我は告げた。
「殿を決めておけ……急ぐが、乱すな。
崩れればクロイに食われるぞ」
「北、となると……阿閉臣を頼るのですか」
「しかたあるまい」
その名、口にするだけで、腹正しい。
阿閉――
北の山を越えた先に、村を構える者たち。
阿閉に、伊賀。
我ら三野と、
祖を同じくする者たち。
「百の兵を引き連れていくのならば、
受け入れてもくれよう」
阿閉に着く頃には、
もう、百は残っていないかもしれぬが。
敗戦となれば兵の統率は崩れる。
勝手に家へ戻ろうとする者。
敵に寝返ろうとする者。
兵は、あっという間に散り散りとなる。
そのような惨状を幾度も見てきた。
そうなる前に動かねばならぬ。
我は、黒煙を睨む。
どこだ。
どこで、我の盤は狂ったのだ。
波多の環濠を囲んだ時か。
クロイと対峙した時か。
いや――
あの、白く立ちのぼる謎の煙か。
我は、いつから。
敵の盤上で踊らされていたのだ。
いくら考えても答えは出ない。
ただ、黒い煙だけが、
夕暮れに染まる空へと伸びていた。




