第八十六話 ★高彦:狼煙の影
◇【三野臣高彦】視点◇
「三野之黒犬よ、
アラカの死に乗じて三野を奪いにきたか」
我の声が、丘に響きわたる。
眼下の兵がわずかに怯むが、
当の、クロイは目を逸らさなかった。
――――――――――
「我は、三野を滅びの道へ向かわせる、
父上を止めに来たのだ」
クロイの声が返ってくる。
思ったよりも、よく通る声だった。
戦場では声の通る者が強い。
兵に命を聞かせるにも。
乱れた場を押さえるにも。
声が通るということは、
それだけで人の上に立つ資質といえる。
思えば、アラカの声も、よく通った。
あれは、腹の底から兵を湧かせ、
自然と前へ出させる筋のある声だった。
一方、クロイの声は、
人を圧さず、ただ理を押し込んでくる。
なるほど。
やはり、こやつにも、
人を率いるだけの器が見てとれる。
ナトリは……まあ、無理だろうな。
あれは、穂や、豆の数を数えているほうが似合う。
「我が、三野を滅びの道にむける、か……、
それを、おぬしが言うか」
笑わせる。
「父の呼び出しにも応じず、兵を集め、
いま、まさに爪を向けておる、おぬしが」
まわりの兵たちに声を聞かせる。
これは我らの言葉でありながら、
同時に、兵へ聞かせる言葉でもあった。
戦の前に、互いの理を立てる。
おたがいの大義を示してみせる。
それが、古くからの習わしのひとつ。
これをするだけで、
戦の後の治まりが大きく変わってくる。
「自らの政の誤りを一部に被せて、
力で奪い上げるなど……」
「それが、上に立つ者のすることかっ」
クロイの兵が、力強く頷いていた。
「おぬしは、父に牙を向けたのではない。
三野に牙を向けたのだぞ」
「我は、三野に背いたのではありませぬ。
三野を生かすために、父上を止めるのです」
頭がまわり、口もまわる。
さすが「知の爪」と呼ばれるだけはある。
――――――――――
「……よかろう」
我は、手を上げる。
「おぬしの三野と、我の三野……、
どちらが残るべきかを兵で示すとしよう」
「承知」
クロイが頭を下げる。
その姿に隙はない。
護衛の位置、足の運び。
背を見せぬ退き方。
どれも、よく測られていた。
隙あらば、
射させてやろうと思っていた。
だが、そのような隙はなかった。
そして、クロイも、
同じことを考えていたのだろう。
まったく……。
嫌なところばかり、我に似ておる。
――――――――――
クロイが、丘を、
下りていくのを見届けてから。
我も、丘の縁から退いた。
「会戦ですな」
フクロウが近づいてくる。
「当然だ」
丘の下を見渡す。
クロイの兵は五十。
腹を減らして弱っている、
波多の兵を合わせて、八十だ。
我が率いるは、百。
数でも、地形でも、我が陣営が勝る。
「正面から手堅く受ければ、
負けようはないが……」
ふと遠くに細い煙が見えた。
まっすぐ、空へ立つ、一本の白い筋。
「あれは……名張の……いや、違うな。
もっと近い、どこだ」
名張の丘に作られたという、
物見の小屋ではない。
波多の環濠でもない。
その、すこし外れた場所からだ。
「名張の手の者、でしょうか」
フクロウが低く言う。
「あそこの童は、油断ならぬと聞きます」
我は鼻で笑った。
「この進軍は、今日、我が決めたことだ」
そうだ。
この動きは、事前に兵に触れまわったものではない。
今日、我が決め、我が動かした。
波多の者が知らせを走らせたとして、
名張へ届くまでに時がかかる。
「兵を集め、支度を整え、
ここまで上がる頃には、日は落ちておる」
夜に兵を進めるなど愚行。
道を誤り、足を痛め、
味方同士で声を探す羽目になる。
「名張が動くとしても明日だ。
そして、明日には、この戦は終わっている」
この戦に関しては、どうあがこうが、
名張が手を出すことはできぬ。
「さようで」
フクロウは頭を下げた。
ただ、その目はもう一度だけ、
遠くの煙を見ていた。
用心深い男だ。
だが、今、見るべきは煙ではない。
眼下だ。
――――――――――
波多の環濠から、
ゆっくりと兵が出ている。
迷いなくクロイの陣と合流していく。
「波多は、クロイ様につくようですな」
「まあ、そうだろう」
我に従ったところで、波多に残る道は、
搾り取られるだけのものだ。
ならば、槍を持つのは当然のこと。
それでよい。
このほうが分かりやすい。
反意ある者どもが、
ひとところに集まった。
それだけのことだ。
波多と、クロイ。
これらを正面から制し、
兵に見せ、周りの環濠に見せつける。
三野を束ねる者は、三野臣高彦であると。
そのことを、
もう一度、この地に刻み直す。
「さあ、三野臣高彦の物語の始まりである」
丘の下を見据えながら、我は呟いた。
その間にも遠くの煙が、
風に乗って、ひと際濃くなった気がした。
あれが何を告げる煙なのか、
我は、まだ知らない。
だが、すでに戦の場は整った。




