第八十四話 ★高彦:親子の決裂
◇【三野臣高彦】視点◇
人は、恐れを捨てられない。
だからこそ、いつも、
なにかに縋ろうとするのだ。
ナトリが情けを請えば、
波多の倉を守れるのではないか――
コダカが頭を下げれば、
見逃してもらえるのではないか――
そんなありもしないことに、
人は、すぐに縋ってしまうのだ。
――――――――――
「父上……」
ナトリが顔を上げる。
「波多の倉は、名張攻めで多くを出し、
冬の取り立てもございました」
「これ以上、さらに倉を開くとなれば……」
そこで声が止まった。
「これ以上、開けば、なんだ?」
ナトリは答えない。
言えぬか――
言えば、我への反抗になる。
言わねば、波多の者は飢える。
その狭間で、
愚かな息子は言葉を失っていた。
「波多の倉を開けて、運び出せ」
ナトリの言葉を無視して、
我は、兵に号令を出す。
三野の兵が橋を超える時、
波多の護衛が、一瞬だけ身じろぎした。
双方の兵の槍先が動き、一瞬の緊張が走る。
「動くな」
我が、低く告げる。
波多の護衛どもは歯を食いしばり、
その動きを止めた。
どうやら、まだ、分は弁えているようだ。
――――――――――
我らは、波多の環濠に踏み込み。
環濠の倉の前に立つ。
土と、藁と、古い穀の匂いがした。
「長きにわたり作られた、よい倉だ」
それは悔しいほどに。
だからこそ三野に必要なのだ。
力なき者に持たせておくには、あまりに惜しい。
「開けよ、三野臣の命であるぞ」
波多の倉番が震えながら、
倉の戸へ手をかけた。
軋む音とともに、倉の口が開かれる。
穀の束、干した豆、細く割った薪。
そして、倉の隅に寄せられた小さな籠。
「これが、名張から持ち込まれた糧か、
たしかに数は少ない……」
だが、この小さな籠に、
波多の者どもは希望を見たのだろう。
敵であった名張が、
自分たちを見捨てなかった。
そんな、くだらぬ希望を。
そのせいで、これほど飢えながらも、
三野に縋ることをしなかった。
実に腹正しいものだ。
「すべて運び出せ」
三野の兵が、名張の籠を持ち上げる。
「あっ」
その瞬間、ナトリの声が漏れる。
「父上、それを取られれば……波多は……」
いまだに諦めずに懇願をしてくる。
「それなら、この波多の環濠、
三野の直轄してやろうではないか。
食うに困ることはないぞ」
「くっ……う、ううっ……」
ナトリは膝をつき、土に額をつけた。
その肩を、わずかに震わせる。
波多としての最後の誇りが崩れたのか。
だが、名張に頭を下げた時点で、
波多の誇りなど地に落ちているというのに。
今さら震えたところで、何になる。
「倉の中も数えよ」
我は、兵へ号令を出す。
波多の倉は、三野の手に落ちた。
今、この波多の環濠にいる誰もが、
それを受け入れたことだろう。
我ら、三野の庇護を受けなければ、
もう生きてはいけないと。
――――――――――
その時。
環濠の外から、
慌ただしい足音が近寄ってきた。
「三野臣様……っ」
息を切らした兵が、慌てて膝をつく。
「クロイ様の兵が動きました。
東の道より、こちらへ……数は、およそ五十」
ナトリが顔を上げた。
波多の者たちの目に光が戻る。
環濠の空気が変わった。
分かりやすい者どもだ。
「ついに動いたか、馬鹿息子め……」
我は、喉の奥で笑った。
クロイが来ることなど初めから見えている。
奴は、波多を助けに来たわけではない。
「取り立ての手を止めよ」
三野を止めるためには兵を出すしかない。
クロイ自身、もはや、退く道を失っているのだ。
「兵を出せ、環濠の外で迎え討つ」
「野で受けるのですか?」
フクロウが声を上げた。
「橋で守れば、折角の数の優位を失うからな」
環濠の橋で守りを固めるのは定石だが、
それは、防衛側の兵が劣っている時の話だ。
此度は三野の兵の数のほうが勝っている。
「それに、内に不穏を抱えては戦もできぬ」
ちらりと、ナトリに視線を向ける。
環濠の橋で、クロイを相手にしている所に、
波多の民に内から立ち上がられたら。
我らは挟みうちにされる。
クロイなら、それを狙うやもしれぬ。
だが、そうはさせん。
「北の小高い丘にて、陣を整えよ」
「はっ」
フクロウが動くと、
三野の兵が流れるように動き始めた。
「波多の倉は戦のあとに改める」
我は、ナトリに振り返った。
「この戦の間、妙な動きを見せれば、
そこに反意ありと見るぞ」
「……承知」
先ほどまでの穏やかな声ではない。
おそらく、クロイに加担するのだろう。
だが、それで構わぬ。
我が欲しいのは倉と、この豊穣な土地。
そして、そこで土を耕す者どもだ。
我を裏切るなら、それでいい。
クロイの兵、共々、まとめて押しつぶし、
両者の環濠を奪い取るだけだ。
――――――――――
「ゆくぞ」
我の言葉に護衛が歩き出す。
槍が揺れ、その足音が土を揺らす。
波多の環濠に残っていた静けさが、
戦のざわめきに呑まれていく。
見せてやろう。
父に爪を向けるとは、どういうことかを。




