第八十一話 未来に残す穂
「にぃに、わたし、置いてった……」
イミコは、拗ねていた。
小さな唇を尖らせ、稲穂を手にしながら。
ちらちらと俺に視線をむけてくる。
「いや、夜も遅かったし、
危ない話でもあったからさ……」
昨夜のこと。
ナトリからの使者たちが来て、
深夜、シラガの竪穴へ呼び出されたとき。
俺は、イミコを起こさず、
寝かせたままにして行ってしまった。
「夜、目を覚ましたら、一人だった……」
「ごめん、ほんとに、ごめん」
「……ん」
返事はしてくれる。
だが、まだ少し頬が膨らんでいた。
倉の中にいる女衆たちが、
そんな俺たちのやり取りを眺めている。
口元を袖で隠して、笑っている者までいた。
「はいはい、皆さん、手が止まってますよ」
ぱん、とアサメが手を打つ。
「春へ残す穂は、
勝手には分かれてくれませんよ」
その声で、女衆たちが手を動かし始めた。
名張は冬支度の最中である。
――――――――――
今日は、稲穂の選別をしている。
収穫した稲の中から、
特によい穂を選び、春まで残す。
よく実っているからこそ、次に残すのだ。
「この束は、食べるほうへ」
アサメが、黒ずみの混じった穂を、
別の籠へ入れる。
「こちらは、春へ残すほうですね」
ユラが、粒の揃った穂を籠に入れる。
単純な作業に見えても、
その実、目を凝らすべき点が多い。
粒が揃っているか、黒く傷んでいないか。
穂首がしっかりしているか。
そういう穂だけを選んで残すのだ。
「それにしても、本当に、こんなことで、
実が良くなるのですか?」
アサメが、俺に視線をむけてくる。
「はい、生きている物は、
皆、そうやって祖を継いでいくのです」
「祖を継いでいく、なるほど、
とても大事なことなのですね……」
隣で、ユラが小さく呟いて頷く。
三輪連として血筋を継ぐ者として、
思う所もあるのだろう。
ユラの言葉を聞いた女衆たちの手が、
ほんの少しだけ慎重になる。
自分たちの役割に対する自覚。
その責に気付いてくれたのだろうか。
「春へ残す穂を選び終えたあと、
巫女の火の前で、印を刻んだ紐で結びましょう」
そう言いながら、
俺は「隠」と書いた紐を取りだした。
合理を、儀式を通して作法にする。
それによって、村は前に進んでいくのだろう。
「ねぇ、にぃに。これ……すっごい……」
イミコの小さな手には、
一本の稲穂が握られていた。
他の穂よりも、明らかに実が大きい。
太った粒が綺麗に揃っている。
「おお、すごいな、イミコ」
粒は揃っており、黒ずみもない。
穂首も折れていない。
これは確かに、春へ残すにふさわしい。
それに、火の巫女が見つけた穂。
それだけで、この一本には、
より深い意味が宿ることになるだろう。
――――――――――
穂を分ける作業は、夜まで続いていた。
倉の外では、
すでに、冬の風が鳴っている。
この間にも。
三野では、誰を残し、誰を切るかで、
多くの血が流れているだろう。
高彦、黒犬、鳴鳥。
厳しい冬の寒さは、
人の間に、さらなる軋轢を生む。
その一方、我らが名張は、
次の春へ送る穂を選んでいる。
両者、ともに同じ、未来を選んでいる。
だが、どちらか一方には血が流れ、
どちらか一方では実りを膨らませていた。
この平和を、できるだけ長く、
続くように守っていきたいと深く思った。
「昨日はごめんな、イミコ」
俺は、手を止めずに小さく言った。
「べつに、怒ってないよ……」
「本当に?」
「……ちょっとだけ」
「正直でよろしい」
「なにそれ……」
そう言うと、
イミコは、小さく頬を膨らませた。
だが、すぐに、
その表情はほどける。
「ただ……」
イミコの小さな手が、すっと伸びて。
俺の袖を、きゅっと握った。
「無理は、しないでね……」
イミコは、拗ねていたのではなかった。
夜中に俺が呼び出され、
イミコの知らないところで大人の話をする。
そして、朝になるまで俺の帰りを待っていた。
俺を心配していたのだ。
「……ああ、無理はしないよ」
そう、俺は、無理をしてはいけない。
イミコを悲しませることになるからだ。
その反面、俺の胸の奥深くで、
もうひとつの感情が静かに芽生えていた。
イミコを守るためなら、
俺は、なんでもしてみせる。
誰かの血を流すことも。
誰かに血を流させることも。
必要ならば、この手で選ぶ。
だが、そんな言葉を、
イミコに聞かせる必要はない。
イミコに必要なのは、
穏やかな春に向けた話だけでいい。
――――――――――
穂の選別が終わるころ、
名張の倉には、多くの稲穂が積まれていた。
ただ積まれた、皆で食べるための稲の束。
そして、「隠」の印を刻んだ紐に括られた、
来年に残すための稲の束。
最後に倉を閉じるとき。
「……春まで、ねむっててね」
イミコは、胸元の勾玉に手を添えながら、
倉のなかの穂を見つめていた。
そんな、小さな祈りの声が、
名張の倉の中に静かに染みていく気がした。
■【185年:秋】八章「実りの名張」 ~完~
次からは「九章「三野の大乱」編が始まります。
多種多様な人間の思惑が入り乱れる戦となります。
さまざまな視点から描かれる戦模様、お楽しみください。




