第七十三話 手を清める習慣
名張の男たちが、
黒い土を入れた籠を担いで歩く。
肥え場から、畑へと――
たっぷりと栄養を含んだ黒い土。
その重みが、ずっしりと背にのしかかる。
この地味で、過酷な作業が、
名張の畑に必要なのだ。
――――――――――
「よし、着いたぞ」
イワホコの声があたりに響く。
土運びの第一陣が、畑に到着した。
「これは、なかなか……大変だな……」
俺も、畑のそばに籠を下ろした。
子どもの身体に合わせた小振りの籠。
それでも、じんわりと肩が痛む。
「おぉ、籠を下ろしたら身体が軽いぞ」
籠を背負ってきた子たちは、
飛び跳ねて、楽しそうに笑い合っていた。
同じ年頃の子らと比べて、
俺の身体は、丈夫ではないようだ。
「みなさん、ご苦労さま」
畑に土をまくのは、
アサメの率いる、女衆たち。
男衆の運んできた籠を傾けては、
黒い土を、畑の端に小さく積んでいった。
「黒い土は、薄く広げるように。
一か所に盛り過ぎてはいけません」
必要な分だけを土器に移してから、
畑に足を踏み入れる。
土器ですくった黒い土を、
俺は、畑の一角へ落としてみせた。
「最後に、黒い土を馴染ませるよう、
土全体を鋤でかき混ぜます」
俺は木鋤をふりかざし。
ざく、ざくっと何度か土を掘りかえす。
だが、俺の細腕では、
たいした量の土を起こせない。
「いつもの土起こしの要領だな……ふんっ」
隣で、イワホコが木鋤を振りかざす。
その剛腕からくる一撃は、
一度毎に、多くの土を混ぜていった。
――――――――――
土戻しの作業が一巡し。
皆が、流れを覚え始めたころ。
「あ、コイシ、待って――」
俺は、コイシを呼び止めた。
「えっ」
いきなりの声に、
コイシは目を丸くしていた。
腰に下げた「干し栗」へ、
その、黒く汚れた手を伸ばしていた。
間に合ってよかった――
「皆さんも聞いてください」
その場にいる者たちへ、声をかける。
「黒い土を触った手で、
食べ物に、触れないように」
「えっ? でも、これ……ただの土だよね?」
コイシが、不思議そうに首をかしげる。
* * *
この時代の感覚であれば、
それが、普通だろう。
農作業の合間、休憩がてら、
手を洗わずに握り飯を食べる。
そんな光景も、よく見かけていた。
* * *
「この黒い土は、畑に良いものだけど……」
コイシの黒く汚れた手を、
俺は、ゆっくりと掴んでみせた。
「人の腹には害をなすこともあるんだ」
「え、うそっ……わ、わわっ……」
コイシは、その汚れた手を、
干し栗から遠ざけた。
「もとは糞や、腐った草……、
言われてみれば、たしかにそうか」
イワホコが、納得したように頷いていた。
本当は、黒い土に限らない――
普通の土に手が汚れた場合でも、
そのまま、食べ物に触れるべきではない。
だけど、今まで、当たり前のように、
土に汚れた手で飯を食べてきた。
その常識を変えるのは難しい。
その点、黒い土は、丁度いい――
汚れが目に見えてわかる。
臭いも残っている。
誰の目にも、その不浄は明らかだ。
「みなさん、こちらへ」
ならば、ここから始めればいい。
――――――――――
俺は、皆を引き連れて、
巫女の沢の下流へ、やって来た。
飲み水に使う上流ではない。
汚れを落とすために使う、下の水場だ。
「食べ物に触る前、村に戻る前には、
この水で身を清めてください」
俺は、沢の水で、軽く手を洗い流した。
そして自分の手を皆に見せる。
「水で洗い流しても、指の間、爪の際にも、
黒い土が入り込んでいますよね」
「それは、まあ……そうだな……」
イワホコが、小さく頷く。
農作業で手が汚れるのは、当たり前である。
これくらいの汚れで日常を過ごすのは、
この時代、ごく普通のことだった。
「それでは、見ててください」
俺は、事前に用意した灰をひとつまみ。
手のひらに擦り込んでいく。
ざらりとした灰が、
黒い汚れを、浮かせていく。
本当なら、獣脂も加えて、
もっと汚れを落とせる物を作りたい。
だが、今は贅沢を言っていられない。
「皆さん、こちらへ。
灰を少しずつ取ってください」
アサメが、灰を入れた袋を配る。
見よう見真似で、
皆が、手を洗い始めていた。
「つめたっ……こんなの、
いちいち、やってられないよ~」
おもわず、コイシが顔をしかめる。
イミコが、コイシの隣に、
ちょこんと静かに座り込んだ。
「お手て、きれいにしないと、
ごはんを食べちゃだめなんだって」
イミコは、コイシの手を取る。
その細く小さな手の指先を、
コイシの、黒く汚れた手指に絡めていく。
指の間を、ゆっくりと揉むこんでいく。
大切なものを清めるように。
「え、あっ……み、巫女様……」
顔を真っ赤にして、
コイシは、固まっていた。
そんな光景をまえにして、
周りの大人たちは微笑ましそうに眺める。
なんだあれ。
ちょっと羨ましいぞ。
――――――――――
だが、この光景は、
ただ微笑ましいという話に終わらない。
火の巫女が手を清めている――
汚れた手で、食べ物に触れてはならないと、
そう、火の巫女が示した。
子どもたちは、
もう、嫌とは言えない。
大人たちも、また、
面倒だとは言いづらくなる。
この、手洗いは、
これから名張の作法となるだろう。




