第五十八話 森に食われる
◇ 【三野之荒鹿】視点 ◇
なぜ、倒れた敵の姿がない。
なぜ、槍を交えた跡がない。
「止まれ」
なぜ、前を進んだ二十の背だけが、
俺の前から消えている。
「声を立てるな……道を、外れるな……」
息を呑む気配が、背後に広がる。
森は静かだった。
いや、静かすぎる――
怒声も、悲鳴も。
どこか遠くへ、
沈んでしまったように感じる。
ただ、風が葉を揺らす音だけがある。
それから――
ひゅう、と。
細い笛の音が鳴った。
右からか、左からか。
分からない。
だが、その音に合わせるように、
横合いの茂みが揺れた。
「そこだ!」
後詰めの五人が動いた。
槍を構えて、茂みへ向かう。
「馬鹿、うかつに――」
俺は、言葉を飲み込んだ。
横に敵がいるなら、放ってはおけない。
側面に敵を残したまま進めば、それこそ挟まれる。
「……深く入るな、声を出し、すぐに戻れ」
「はっ!」
五人が茂みに入る。
草を踏む音、枝を折る音。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
それから、短い怒声。
次に、何かが倒れるような音。
そして静かになった。
「おい」
俺は呼んだ。
「どうした。返事をしろ」
返事がない。
風が吹き、葉が揺れる。
茂みは、何事もなかったように、ただそこにある。
「……茂みに入るな」
俺は、残りの兵に命じた。
「敵が潜んでいる。道の上に固まれ。盾を構えろ」
残った男たちが、慌てて盾を寄せる。
その瞬間、
ひゅっと音が走った。
横の茂みから矢が飛んだ。
「ぐっ!」
一人が肩を押さえて膝をついた。
命を取る矢ではない。
だが、槍を振るう力を奪う矢だった。
「くそ、あそこだ!」
怒った男たちが矢の飛んだ方へ走る。
「待て、行くな!」
俺の制止る声より、足が早かった。
五人が茂みに踏み込む。
だが、そこには誰もいない。
揺れる草。
折れた枝。
それだけだった。
「ぐあっ」
次の瞬間、反対側から矢が飛んでいた。
三人が崩れる。
「なんだ……」
俺は、思わず呟いた。
こちらは、二十で入った。
五人が茂みに消えた。
二人が倒れた。
五人が走り、三人が膝をついた。
今、俺の周りには、
何人が残っているのだ――
徐々に身を削られ、声は減っていた。
それが、何より気味悪かった。
「なんだ、これは……」
右から、犬が吠えた。
「ひいっ」
兵の震える声が響きわたる。
それから、すぐに左からも吠えた。
近い。
いや、遠い――
どちらだ。
何匹いるのだ――
犬の声が、ぴたりと止む。
次の瞬間に、また笛が鳴る。
ぴい、ぴい、と。
「ひい、まただ……また、この声だ……」
今度は、四方の森に音がこだまする。
名張の兵は、十人ほどだったはず。
タケの周りにいたのは、たかがその程度。
いくらかの伏兵と合流したとて、
たかが知れている。
なのに。
今、右にもいる。
左にもいる。
前にも、後ろにも、何かがいる。
「戻るぞ、負傷した者を抱えろ」
まわりに残っている兵に伝える。
これは逃げではない。
立て直しだ。
いったんクロイと合流し、ナトリと兵を合わせる。
それから、もう一度、この丘を押し潰す。
それでいい。
そう思った。
そう思わなければ、
この場で、足を止めてしまいそうだった。
――――――――――
引き返そうとした時、
ポオォ、と低く硬い笛の音が鳴った。
それまでの細い音とは違う。
腹の底に響く音だった。
「ぎゃっ」
直後、茂みが裂けた。
槍の柄が飛び出し、足を払われた兵が倒れる。
「ぐぁ」
さらに、倒れた兵に鍬が突き立てられて、
草の茂みに引きずり込まれていく。
「助け――」
声は、そこで途切れた。
瞬間、俺は――
俺達は駆けだしていた。
ただ、この山から逃げるように。
「なんだ、これは」
息が荒くなる。
「なんなのだ、これは」
こんなものは、戦ではない。
槍を合わせ、盾をぶつけ、
男と男が正面から力を競うものではない。
これでは狩りだ。
山で、獣を追い詰めるやり方だ。
その瞬間、肝が冷える――
俺は名張を笑った。
山で、獣を相手にしてばかりで、
戦を知らぬのだと。
だが、今。
その、山のやり方で、
追い詰められているのは誰だ。
獣のように逃げ道を見失い。
獣のように音へ怯え。
獣のように、茂みの奥へ、
追い込まれているのは誰だ。
「ふざけるな……」
ひゅんっと、肩に熱が走る。
肩口の衣が赤くにじむ。
ただ、足を止めない。
「俺は、三野の爪だぞ……」
ドスっと、背へ強い衝撃が走る。
一瞬、息が詰まる。
さらに太腿に痛みが走り、
一瞬、足が、もつれそうになる。
俺は、歯を食いしばる。
この程度で足を止めてなるものか。
俺は、三野の、武の爪だ。
こんな森の中で、
折れてよい男ではないのだ。
――――――――――
「走れ!」
俺は叫んだ。
「道を抜けろ!」
俺は、声を上げながら、走り続ける。
誰が残っているのか。
何人いるのか。
もう分からない。
ただ、
背後で声がした。
すぐ近くで、草が揺れ。
また、犬が吠えた。
わずかに聞こえてた足音が遠ざかる。
誰かの声が、途切れた。
死んだのか、捕られたのか。
もう、俺には、なにも分からない。
ただ、今は、前へ。
前へ。
「開けた場所へ出るぞ!」
木々の間から明るい光が見えた。
森が切れる。
開けた場所だ。
俺は、もつれる足を、
叱りつけるように踏み出した。
草を抜ける、影が薄くなる。
一気に視界が開ける。
その先に、男が立っていた。
タケだった。
――――――――――
タケは、槍を担いで、
ただ立っていた。
息ひとつ乱していない。
その後ろには名張の山が見える。
そのさらに上で、
二本の黒い煙が立っていた。
あれほど近くに見えた煙が、
今は、ひどく遠い。
「よう、若鹿」
タケが言った。
その声は、低く、落ち着いていた。
瞬間。
俺の中で、何かが切れた。
「ふざけるな」
足は痛む。
肩の動きも鈍い。
息も荒い。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!」
それでも、槍は、この手にある。
「タケェッ!」
俺は叫び、踏み込んだ。
最後の力を振り絞り、槍を突き出す。
だが、遅い。
絶望するほどに身体が重かった。
「…………」
タケは、
半歩だけ身体をずらし。
次の瞬間、
タケの槍が喉元へ届いた。
声が、途切れる。
「ご、んな……の……」
言葉にならない。
膝から力が抜ける。
槍が、手から滑り落ちる。
空が傾いた。
土が近づく。
頬に、冷たい草が触れる。
こんなもの、認めるものか。
俺は、三野の武の爪だ。
父上に、示さねばならぬ。
三野の者どもに、示さねばならぬのだ。
俺は。
俺は、まだ――
何も、示していない。
遠くで笛が鳴る。
それが、誰の笛なのか。
何を告げる音なのか。
最後まで、俺には分からなかった。
身体が冷えていく。
音が遠ざかる。
そして、世界が閉じた。




