第五十七話 十本の矢
◇ 【三野之荒鹿】視点 ◇
名張の川の水は浅かった。
俺も、まわりの者たちも、
このあたりの川には幼い頃から慣れている。
視界の先では、先に川へ入った二十の兵が、
水飛沫を立てながら淀みなく進む。
右手には槍。
左手には木盾。
川の流れは膝ほどにも届かぬ。
この程度なら、足を取られることもなかった。
「行くぞっ」
俺は、後詰めの二十を率いて、
前衛の背を見ながら、川へ足を踏み入れる。
水が脛を打つ。
冷たさが、皮膚を刺す。
だが、それだけだ。
川底のぬめりに足を滑らせないよう。
尖った石を踏んで、足を切らないよう。
そんなことは慣れたものだ。
――――――――――
「矢が来るぞ」
前方から声がした。
次の瞬間、川向こうから矢が放たれた。
十本ほど。
青空に弧を描き、空を裂いて落ちてくる。
「盾を上げろ!」
前衛の先頭の男が叫ぶ。
他の兵たちは、すぐに木盾を頭上に掲げた。
乾いた音が連なる。
かん、かん、かん、と。
矢は盾に弾かれ、川へ落ち、
あるいは、浅く盾に刺さっていた。
その一本たりとも、俺たちの肉には届かない。
誰も倒れない。
誰も悲鳴を上げない。
ただ、川面に矢が落ち、
小さな波紋を広げるだけだった。
「なんだ、これだけか!」
前衛の男たちが笑う。
俺の口元も、自然と緩んでいた。
たかが十本の矢。
山で獣を囲んで射かける時でさえ、
もっと、近くから多くの矢を射る必要がある。
それが、この遠く離れた場所から、
盾を構える俺たちに正面から射かけて、
効果があるはずもない。
タケは、そんなことすらわかってない。
山で、獣ばかりを相手に、
戦というものを知らないのだろう。
那婆理の民も、所詮は、
時代に取り残された獣に過ぎないのだ。
「進め!」
俺が声を張ると、前衛の二十が、
一気に岸へと向かった。
水を蹴り、泥を踏み、
盾を構えたまま、駆け上がる。
名張の者どもは、二射目を放たない。
いや、放てないのだろう。
射手も、矢も足りていない。
先程より近づいたところで二射目を射れば、
こちらに多少の被害は出るだろう。
だが、そこで終わりだ。
――――――――――
俺たちの前衛が岸へ上がると、
タケは柵の守りを捨てて、身を翻した。
那婆理の民どもが、林に逃げ込んでいく。
その先は木の生い茂る丘。
二本の狼煙が立ち昇る、あの名張の丘だ。
「敵が逃げたぞ!」
「追え!」
兵たちが勢いづく。
俺は、川から上がり、
濡れた足で土を踏みしめる。
後ろを見れば、クロイの率いる三十の兵たちも、
岸へ上がってくるところだった。
「俺はタケを追う、
おまえは、ナトリと一緒に村を攻めろ」
クロイが三十、ナトリも三十の兵を率いている。
名張の村を攻めるのに十分過ぎる。
「兄上だけで、タケを……大丈夫ですか?」
「先ほどのタケの兵たちを見ただろう、
たかが、十人ほどだ……」
それに比べて、俺の率いる兵は、
前衛二十、後詰二十を合わせて四十となる。
「俺の隊だけでも、多すぎるくらいだ」
名張の出せる兵は、せいぜい二十。
多く見積もっても、
三十に届かぬ程度だろう。
それを向こうは、村を守る者と、
タケに従う者に分けている。
ならば、なおのこと御しやすい。
村に残った名張の者たちは、
クロイと、ナトリで押し潰せるだろう。
丘へ逃げ込んだ奴らを、俺の手で折る。
ひとつずつ潰せばよい。
それだけの話だ。
「たしかに、それはそうですが……」
クロイは、まだ、何かを言いたげだったが。
なにも、これらは、
俺の勝手で言っているわけではない。
「この丘に、タケどもを残して進めば、
前後から挟み撃ちにされる」
それはよくない。
「この丘で、タケに時間を稼がれたら、
それだけ三輪の兵が近くなる」
それは最悪だ。
「おっしゃる通りではあります」
クロイは、小さく頷いてみせる。
「ならば、後は任せたぞ。
タケを仕留めたら、すぐに俺も後を追う」
「……承知」
クロイの返事を聞いてから、
俺は、槍を握り直して丘に足をむける。
「皆、行くぞ! 目指すは那婆理のタケだ」
前衛の二十は、すでに、
丘へ向かって走り始めている。
俺は、後詰めの二十を連れて、
後を追うように名張の丘を目指した。
名張の丘の上では、
二筋の黒い煙が、青空高く昇っている。
名張の者どもが、
三輪へ助けを求めているのか。
それとも、村へ、脅威を知らせているのか。
どちらでもよい。
相手が、いかに足掻こうとも、
俺たちの勝ちは揺るぎようもないのだ。
陽が沈むまでに、すべてを終わらせる。
タケの牙を折り、村を押さえ、
名張の村の倉を開かせる。
それで、この戦は終わりだ。
――――――――――
名張の丘、その林の中に足を踏み入れると、
わずかに空気が張りつめた。
木々の影が、顔へ落ちた。
湿った土の匂いが足元から上がってくる。
前を行く二十の姿が、
枝葉の向こうでちらついている。
「あそこにいるぞ」
さらに先、タケたちの背が見えた。
「逃がすな!」
前衛の誰かが叫ぶ。
その声に重なるように、山がざわめいた。
枝の折れる音。
草を踏み荒らす音。
怒声。
そして、遠い悲鳴。
「ふっ、あとは時間の問題だな」
俺は勝利を確信する。
名張の者どもは、もう音を上げていた。
やはり、弱い。
川での矢も、ただの虚勢。
丘へ逃げたのも、ただの悪あがき。
すぐにタケは追い詰められ、
槍を構え、俺と向き合うしかなくなるだろう。
そこで、俺の武を示して、終わりだ。
「遅れるな!」
気付けば、前衛の二十の姿が、
見えなくなっていた。
思ったより山道が険しい。
足元には根が張り、斜面はぬかるんでいる。
俺は、後詰めの男たちを急がせた。
山の奥から声は聞こえる。
怒声に、悲鳴。
槍が何かを叩く音も。
だが、不思議と、その場所が分からない。
右から音が聞こえたと思えば、
左に気配がある。
上から音が聞こえたと思えば、
足元の藪が揺れる。
「なにか、妙だな……」
ふと、その場に俺は立ち止まる。
その時、茂みから、
バサバサと一斉に鳥が飛び立った。
その羽音に混じって、細い笛の音が聞こえる。
ひゅう、と。
どこか遠くから。
ポオォ、と。
いや、近くからか。
生い茂る樹木に隠れて道の先が見えない、
名張の山を、俺は見上げる。
前を進むはずの二十の背が、
いくら足を速めても見えてこない。
見上げる樹木の隙間から覗く青空には、
今も、二本の黒い煙が見えている。
そこに目印があるのだ。
山に迷うことはない。
山頂が近いはずだ。
すぐそこに見えていたはずだ。
なのに、森は深く、草は絡み、
何者かの声だけが木々の間を跳ねている。
「なぜ、誰の死体も転がってないのだ……」
そう呟いた時。
また、どこか遠くから笛が鳴った。




