第六話 忌み子の山、人の里
「……にぃに……こわぃ……」
俺の貫頭衣を、
イミコは、ちぎれんばかりに掴んでいた。
山道は想像を絶するほど険しい。
まだ発育の追いつかない幼い身体で、しかも裸足だ。
鋭い石や、冷たい泥が容赦なく足の裏を削り、
枯れ葉を踏むたびに土の匂いが立つ。
木の根が行く手を遮るたびに、
イミコが、小さく息を呑む音が聞こえた。
そして、彼女にとって、
麓の村は自分を捨てた「絶望」の象徴である。
怖いのは、山道だけではないのだろう。
「大丈夫、俺がついてる」
痛む足を叱咤しながら、
俺は、イミコの前を歩いた。
――――――――――
森を抜けると視界が開けた。
頭上には澄んだ青空。
見渡す限りの地平線に緑が広がっている。
その手前に、村が見えた。
幾棟もの草屋根が密集した集落。
深い溝で囲われ、外側には木柵が巡らされている。
そして、昼時ならば、煮炊きの煙が空へ細く伸び、
犬の声や子供たちの歓声が届くはずだ。
だが――
煙が見えない。
声が聞こえてこない。
風の音だけが、草屋根をかすかに揺らしていた。
そして、
鼻を突いたのは。
饐えた泥と腐敗の入り混じった、
逃げ場のない死の臭いだった。
――――――――――
集落の入り口。
内部へ続く唯一の橋を塞ぐように、
一人の男が、うずくまっていた。
手には頼りなく石斧が握られ、
俺たちを睨みつけている。
頬はこけ、肌は土気色に淀んでいた。
顔に掘られた刺青が脂汗で不気味に沈んでいる。
村の入り口を守る最後の砦、
だが、村よりも先に男が倒れてしまいそうだった。
「……なんだ……山の、忌み子か……」
男の喉は、乾いた木を擦り合わせたように掠れていた。
その額には大粒の汗が浮かび上がっている。
「……食いもんなら、ねぇぞ……さっさと、山へ帰れ……」
威嚇する声にも、力はこもっていない。
男の視線は、俺たちではなく、
村の脇を流れる小さな川へ向いていた。
俺は、その視線を静かに追い、川の上流を観察する。
そこに、先程から感じる異臭の元凶が見えた。
捨てられた汚物。
日々の暮らしから出る穢れ。
それらの澱みが川の流れに混じり、
ゆっくりと村へ流れ込んでいる。
この村の者たちは、その水を、
疑いもせずに飲んでいるのだろう。
呪いでも、祟りでもない。
水を通じて、病が村に回っている可能性が高い。
「おじさん……えーっと」
「……イワホコだ」
忌み子である俺が問いかけたというのに、
男は、反射的に名を返していた。
上手く、思考がまわっていないのだろう。
「イワホコのおじさん……、
村のみんな、お腹を下して……熱も出てますよね……」
「……なんで知ってる」
男の目が、かすかに見開き警戒の色を示した。
「天からのお告げが、届いたのです……、
ほら、忌み子ですから……」
「……ああ、水の神様が……怒っておられるんだ……。
……もう、村はおしまいだ……」
イワホコは、力なく項垂れた。
(……水の神様、か……)
村の誰もが川辺の現状を目にしているはずなのに、
汚れに淀む水を、疑っていない。
あらゆる現象を、天の差配としか受け入れてしまう。
(……思ったより厄介そうだな)
俺や、イミコにも、病が感染する可能性もある。
ここまで、穢れに飲まれた村に近づくのは、
賢明ではないかもしれない。
橋に踏み込みかけた足を引く。
「……にぃに……かわいそう……だょ」
震える声には、深い悲しみと、慈しみが宿っていた。
イミコが、その手を伸ばすと言うのなら――
俺はその先を作るだけだ。
それは、たぶん、
この身体の願いでもあるはずだ。
俺は、一歩、イワホコの前へ踏み出した。
懐から取り出したのは、
山の小屋から持ち出してきた一片の炭。
「俺たちが、水の神様の怒り、鎮めてみせようか?」
できるだけ大きく声を振り絞り、圧をかける。
「なにを馬鹿な……」
そう吐き捨てながらも、
イワホコの視線は、炭を握る俺の手から離れなかった。
「そんなこと……」
じっと、俺は、
イワホコの目を見据える。
「本当に、おまえ……あの、山の忌み子か……?」
イワホコの目は揺れていた。
追い払う側だったはずの男が、
いまは逆に、こちらを見定めようとしている。
「神様からお告げがありました、
まずは、俺達を、村の中にいれてください……」
忌み嫌われている俺たちが、
村と対話をするには繋がりが必要だ。
そのために、まず、この男の心を動かす。
すべては、そこからだ。




