第四十七話 名張を見守る狼煙
「彼れを知り、己を知れば、百戦殆うからず」
名張の北にある小高い丘から。
その絶景を見下ろしながら、俺は呟いた。
「なんだそれは?」
後ろで作業をしていた、タケが声をあげる。
「戦う場合、敵と味方の情報を、
よく知る必要があるという言葉ですよ」
「それでこれか」
「はい、それでこれです」
名張川を境にする名張村の支配地域の最北端。
そこに、小さな番屋を建てた。
あたりを一望するための小屋である。
丘が小高いだけではなく、
そこは川裾に沿って、よく視線が通っていた。
北の三野に、西の三輪。
そのどちらでも名張の村に向かう時、
ここからなら確実に見えるのだ。
――――――――――
「で、情報を知り得たあとは、これか」
タケが、小屋の左右に分けて設置された、
二つの火床に視線を向けた。
それは、石で囲っただけの粗末なものだった。
その片方の火床が大きく燃え盛り、
青空に、一本の白煙を青空に伸ばしていた。
「ハヤトさん、二の煙を」
俺の言葉を受けて、ハヤトが振り返る。
後方に控える若衆へ命じる。
「火を起こすぞ、湿り草を寄こせ」
「おう!」
灰の底を掘ると、
すでに赤い火が用意されていた。
枯れ枝を差し込み、ゆっくり風を送る。
ふっ、ふっと息を吹き込むたび、
奥の赤が濃くなる。
やがて、二つの火床が同時に燃え上がり、
白い煙が太く湧き上がった。
「よし」
そこへ、乾かした獣の糞を少し混ぜる。
匂いが変わった。
草の青臭さと、獣の臭いが混ざる。
鼻の奥を刺すような煙になる。
「うっ、臭っ……」
「山の臭いだ、嫌なら山に入るな」
「へ、へい」
若衆は姿勢を正した。
名張の青空に、煙が昇っていく。
一筋。
そして、もう一筋。
二つの白い煙が、名張の丘の高みから、
さらに遙か高くへと昇っていく。
「煙は、問題なさそうですね」
煙の形は悪くない。
風があっても流されていない。
これなら、村からも見えるはずだ。
あとは、皆が上手く動けるかだ。
――――――――――
「……様子はどうだ?」
タケが、村の方を見下ろす。
丘の上は静かだ。
煙の匂い、犬の息づかい。
遠くで鳥が一羽、枝を揺らして飛び立つ。
もう一度、俺は、眼下に視線を向ける。
家々の屋根に、広場の火。
病の底から立ち上がった名張の村。
そして。
ぴい、と――
遠くで笛が鳴った。
一度ではなく、何度も続けて。
村の静けさを切り裂くように、
けたたましい笛の音が、丘の上にも届いた。
「やった」
その音に若衆たちが顔を上げる。
「まて」
足元で、シロと、クロが吠えかける。
ハヤトが素早く制すると、二匹は唸りを喉の奥へ押し込めた。
そこから、さらに笛の音が村を駆け巡る。
村の広場で人影が動きまわる。
畑の脇にいた者が道具を置いて駆け出し、
子を抱えた女が、家の陰から広場へ駆けていく。
年寄りの手を引く者もいた。
ばらばらに逃げ惑っているわけではない。
笛の音を受けて、村があらかじめ決めた通りに動き出していた。
――――――――――
要は、避難訓練である。
この名張の丘、
その番屋に見張りを詰めさせて。
緊急事態が発生したら二本目の煙をあげる。
すると、村へ即座に伝わるのだ。
「なぜ、煙が二本なのだ?」
そう、緊急事態を知らせるだけなら、
煙は一本で事足りるのだ。
「緊急事態の他、大きな狩りの獲物などを、
平野に見つけた時には一本の煙をあげるのです」
緊急事態だけに上げる煙になると、
その機会は、あまりに少ない。
すると、誰も煙を気にしなくなり、
万が一の際に見落としてしまう可能性も高い。
だから、平時の狩りに利用することで、
日常の生活から煙を見る習慣を付けるのだ。
「こんな煙が、人を動かすとはな」
「人を動かすのは規範ですよ」
「規範、なんだそれは……」
タケが訝しげな表情を浮かべる。
「事前に行動が決めてあるから、
あとは、それに従い、皆が動けるのです」
「煙と、笛は、そのための道具に過ぎぬと」
「皆さんの狩猟で、獲物を追い込み、抑え、
仕留める役割を事前に決めたのと同じことです」
「……なるほどな」
そう言って、タケを見上げながら。
「敵を知り、己を知れば百戦だったか……」
タケは静かに呟いた。
「知った上でなら、お前とだけは戦いたくねぇな」
「ありがたい言葉です」
眼下に広がる名張の平野を、
俺は、見渡した。
さらに北には、
まだ見ぬ、三野の土地。
慌てるな――
いつか来る、
その時のために。
今は、備えを進める時だ。




