第四十一話 大物主神を祀る神社
「この先は、大物主を崇める場所になります」
マヒトが静かな声で言った。
大物主――
大国主神と共に「国造り」を行ったと、後に記される。
この「倭」の祖となる神の一人といえるだろう。
俺は鳥居を見上げた。
「つまり、ここが大神神社か……」
三輪君の神殿は、政と祭りの中心だった。
だが、この鳥居の向こうは、さらに上位。
人が治める領域の外か。
「……なんか……へんな、かんじ……」
イミコが、ヒスイの勾玉を握ったまま、
ぽつりと呟いた。
「軽々しく訪れるような場所ではないですが、
必要なら手配しますけど……」
マヒトが、こちらの顔を伺ってきた。
「……にぃに……」
俺の袖を握るイミコの手に、ぎゅっと、力がこめられる。
俺にはわからない、なにかを、
イミコは感じ取っているのかもしれない。
「今日は遠慮しておきましょう。
まだ、その時じゃないようです……」
イミコの感覚に従おう。
――――――――――
「よい心掛けにございますな」
鳥居のむこう、神域のむこうから。
木々の影を割るようにして、
ひとりの男が、こちらに歩いてきた。
黒髪に、口の上には短く整えた髭。
三輪の正堂で見た顔だった。
「阿部臣……」
「覚えておられましたか、光栄ですな」
声音から、物腰までやわらかい。
その目も優しく笑っている。
だが、目の奥の瞳が、どこか冷たい。
「こちらへ、おいででしたか」
マヒトが、阿部臣へ礼をする。
「務めがありましてな」
阿部臣は、背後の鳥居に視線をむける。
「我ら、祭りごとに関わる阿部として、
この神域の手入れを怠ることはできませんからな」
それから、俺と、イミコへ向きなおる。
「巫女殿も、何かを感じられますか」
「……ぅん……むねの石、あつぃ……」
イミコは胸元の勾玉を握っていた。
阿部臣が目を細める。
ヒスイの勾玉を目にした瞬間、その表情が固まる。
「その石を、知る者は他に……」
阿部臣が静かに言う。
「名張の、限られた者たちのみとなりますが……」
実際には村中の誰もが知っている。
だが、阿部臣の意図がわからない。
そのため、俺は、はぐらかした。
「阿部臣は、この石のことを、ご存じで?」
「ふむ……」
俺の問いに阿部臣は険しい表情を浮かべた。
「確かなことはわかりませぬが……、
それは……あるいは……」
ゆっくりと何かを深く考えながら。
「いえ、今の私から、
申し上げることはできませんな……」
歯切れの悪い言葉だった。
イミコのヒスイの首飾りには、
一体、なにが隠されているというのだろう。
「いずれ、知るときが来るでしょう……」
「その時まで、くれぐれも、
その石を手放すことだけは無きよう」
「……心得ました」
つまらない嘘を言うような相手には見えない。
なにか意味があるのだろう。
「火の巫女と、その兄君か……、
名張のような小さき里から、斯様なものが現れるとは」
「阿部臣は……」
俺は、少しだけ言葉を選ぶ。
「大彦命の筋、でしたよね」
男の眉が、わずかに動いた。
「ほう」
「名張もまた、同じ祖を分かつと聞きました。
ならば、もっと北や、東へ、広く連なる筋では……」
「……にぃに?」
横で、イミコが俺を見上げる。
「あ……」
しまった、少し話に踏み込みすぎた。
ヒスイの石の話で、知らないうちに、
俺の中の探求心が煽られていたのかもしれない。
「つくづく、不思議な童だ」
その声音は穏やかだった。
だが、やはり、目だけは笑っていない。
「そのような系譜まで心得ておられるか、
実に、面妖なものよ……」
「聞きかじりです」
俺は、わずかに頭を下げる。
「聞きかじりで、そこまで繋げるものでもありますまい」
阿部臣は鳥居の前に立つ。
「阿倍、阿閉、伊賀――
名張もまた、その流れの近くにおる。
祖を同じくすることは、たしかに語れましょう」
「では……」
「ですが、祖を同じくする事と、
今、どこに座するかは別にございます」
「別……?」
「人は流れ、時を経れば、同じ根から伸びた枝も、
それぞれ別の方へ向かうことでしょう」
なるほど。
それは、たしかにそうだ。
同じ祖を掲げても、時を経れば、地縁も利害も変わる。
それを一本の線で結ぶことはできない。
「名張もまた、そうではありませぬか」
阿部臣の目が、こちらを射抜いた。
「那婆理之稲置の根付く土地に、
名張臣の火種を抱えながら、
今は、火の巫女が立とうとしている」
胸の奥がざわつく。
「そなたの里が、これから、
どこへ根を張るのか見させてもらいますぞ」
柔らかい言い方だった。
脅しではない。
だからこそ、かえって重い。
その時だった。
「……にぃに……このひと、こわぃ」
あまりに率直な言葉に、マヒトは目を瞬かせた。
「これは手厳しい、巫女殿には、
好かれておりませぬか」
阿部臣は、わずかに肩を揺らした。
「……わらってるけど、わらってなぃ……」
イミコは、俺の背へ、
なかば隠れるようにして言った。
「巫女殿の目は、実に澄んでおられるようだ」
阿部臣は否定しなかった。
ただ、男は鳥居の奥、神域のむこうに視線を向けた。
「人の表と裏、それらを見分けられぬ者が、
神の御心を宿しても、いずれは己が心を壊しましょう」
「ゆめゆめ、気を付けなされ」
阿部臣は、やわらかく言った。
俺たちは、なにかに誘われるように、ここへ来た。
大主神を祀る、その鳥居の前に立った。
だが、今はまだ、
その先に踏み込む時ではないようだ。
「行こう、イミコ」
「……ぅん」
小さく頷き、イミコは、
ようやく胸元の勾玉から手を離した。
そう、立ち去りかけた時、
阿部臣が一言だけ落とした。
「名張の兄君……」
「不可思議ほど、己を隠したつもりになりやすい、
その点だけは、お忘れなきよう……」
ぞくり、とした。
「……肝に銘じます」
俺は、そう返すのが精いっぱいだった。
阿部臣は、それ以上は何も言わず、
ゆるやかに微笑みながら俺達を見送った。
その笑み、奥の冷たい瞳を――
俺は、忘れることがないだろう。
――――――――――
鳥居を離れてもしばらく、イミコは静かだった。
マヒトもまた、あまり口を開かない。
山の空気だけが、三人のあいだを通り抜けていった。
人の理と、神域。
その両方を抱えた土地。
それらを繋げることができれば。
繋がりとなれる存在が、もし、いれば――
いずれ、その答えに、
辿りつくことができるのだろうか。




