第二十四話 那婆理の狩り
名張の山の空気は、
村より、ひときわ冷たかった。
俺は、山の裾の開けた沢の際で、
小さな火を起こして皆の帰りを待っていた。
名張の山を見上げる。
枯れ枝の向こうに、ちらりと動く影。
遠くで揺れる藪、鳥が驚いたように飛び立つ気配。
実際に、山の中で獣を追うのは、タケたちの仕事だ。
俺の小さな身体にできることは少ない。
せいぜい、狩りの前に口を出すことくらいだった。
* * *
那婆理の主のタケ。
弓と、槍を持った屈強な七人の男たち
猟犬を主に従える若者、ハヤト。
それに従う二匹の猟犬である、シロとクロ。
狩猟の手順としては、
まず初めに、タケが弓で最初の一矢を入れ。
シロと、クロが獲物を攪乱し、
前槍が進路を切り、留め槍が横から入れる算段だ。
* * *
獲物を止める者と、仕留める者を分けよう――
昨夜、焚き火のそばで、そう伝えてある。
那婆理の民は、最後まで話を聞いてくれた。
どこまでも彼らは貪欲である。
子どもの戯れ言であったとしても、
そこに、試す価値を感じるならば利用する。
その答えは、もうじき出るだろう。
――――――――――
そのとき。
遠くで、猟犬のシロの甲高い吠えが響いた。
間を置かず、クロの低い声が続く。
「始まったか……」
自分の呟きが驚くほど小さかった。
皆の帰りを待つだけの俺の手は、震えていた。
深い山中の緊張感は想像を絶するものだった。
藪が大きく揺れる。
男の怒号がひとつ、短く飛ぶ。
枝の折れる音、土を蹴る重い響き、犬の吠え声。
やがて、そのすべてが、ひとつに重なった。
短い叫び――
獣の喉の底から絞り出すような、濁った音。
どん、と、重いものが倒れる気配。
森が、しんと静まった。
――――――――――
最初に沢へ姿を見せたのは、
猟犬のクロだった。
黒い毛並みを土で汚し、
舌を垂らしながら、それでも足取りは軽い。
その後ろから、
シロが現れ、甲高く二度だけ吠えた。
「無事でなによりです……」
そんな、二匹の戦士に自然と声をかけていた。
「おう、イミナ殿も無事か」
続いて、ハヤトと男たちが姿を現す。
肩で息をしながらも、足は乱れていない。
最後に、タケが出てきた。
「今日は大収穫だ」
男たちが力を合わせて曳いてきたのは、大きな猪だった。
黒褐色の毛には血がこびりつき、
肩に矢が立ち、脇腹には槍傷が深く入っている。
近づくにつれ、血と獣脂の匂いが濃くなる。
土と、汗と、犬の臭いが混じり合い、
山の生々しさが、そのまま、鼻を打った。
「ずいぶんと大きいですね」
「ヌシの言うとおりに、
止める者と、仕留める者とで分けてみたが……」
タケが、猪の死骸へ視線を落とす。
それ以上の言葉はいらない。
誰の目にも見てわかる大収穫だった。
「正直、最初は半信半疑だったけど、
今日は獣の走る向きまで、手に取るようでした」
二匹の猟犬を従える、ハヤトが言う。
狩猟における一番の危険を背負うのが、
最初に獲物を抑えにはいる二匹の猟犬たちだ。
その危険性が低下するのは喜ばしいことだろう。
「俺はなにも……山の中で、獣を見つけて、
槍を入れたのは皆さんですから……」
「見えておらんくせに、よう言う」
ハヤトは、人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「だが、誰よりも、山中のことが見えておるわけだ、
こんなに動きやすい狩り、初めてじゃ……」
年嵩の男も、ぽつりと続けた。
「今回の一番の手柄は、イミナ殿であるな」
那婆理の民に笑いが起こる。
これまで見せたことのない屈託のない皆の笑顔だった。
――――――――――
「さて」
タケが、猪の脚を蹴って向きを直す。
その一声で、空気が切り替わった。
「ぼさっとしてないで、吊るすぞ」
すぐに皆が動き出す。
血抜きは、時間との勝負だ。
「はいはいっと……」
沢の際に猪が吊るし上げられ、
石包丁で、腹が縦に引き裂かれた。
一気に血の匂いが強くなる。
「今宵は宴だな」
男たちの疲れた顔に、確かな喜びがあった。
「一部は、干して保存しましょう」
だが、俺は、その肉を前に、
別のことを考えていた。
これだけの肉だ、
一度に食い尽くすことはできない。
ならば、保たせなければならない。
「塩につけて干し肉にでもするか?」
「俺ぁ、焼いて食べたいよ」
パチパチと音を上げる焚火を見ながら、
ハヤトは呟いていた。
この時代にも、塩に、肉を付けて、
干し肉にする方法がある。
だが、その先、
燻製なんかにも挑戦してみたい。
そんなことを考えながら、
俺は、猪の解体に視線を向けた。




