第二百十九話 名張の川を知るために
ごつん――
舟の縁が岸に触れて、その鈍い音を立てる。
船頭の男は、綱を引き寄せ、
慣れた手つきで岸の杭に結びつけた。
「ふねのおじちゃん!」
「おや、火の巫女さまじゃないか」
荷を降ろしていた男が顔を上げる。
年嵩ではあるが、舟を操る腕は太く、
その身体は大きく逞しい。
「にぃにがね、かわのこと、ききたいんだって!」
「ふむ、川のこと……?」
そう言って、船頭はイミコから、
俺のほうに視線を移す。
「すみません、お仕事中に」
船頭と、まわりの者たちに向けて、
俺は頭を下げた。
ここで時間を取らせれば、
舟を待つ人々にも迷惑がかかるからだ。
「実は、この名張の川に、
橋を架けられないかと考えてまして」
「橋だぁ?」
声が上がったのは背後。
まわりの行商人たちから驚きの声があがる。
「それまた、ずいぶんと大きな話だな……」
船頭は、名張の川のむこう岸を見た。
「実際に橋を架けられるか分かりませんが、
それで、川について教えてほしくて」
「ふむ」
船頭の翁は岸に並ぶ荷へ目をむけて、
その数を確認していく。
「まあ、次の荷が積み終わるまでなら、
べつに問題ありませぬが……」
「ありがとうございます」
「おじちゃん、ありがと!」
「……巫女様に頼まれちゃ、断れねえしな」
――――――――――
「そうは言っても、わしに教えれることなんて、
特になにもないとは思うのだが」
「どんな些細なことでも構わないので、
いつも、船を渡してる時の話を聞かせてください」
「ふむ……」
「まず、この辺りは、
まあ舟を寄せやすいんだが……」
船頭が水面を指さしてみせる。
「岸の近くは浅いが、少し出ると急に深くなる。
あそこに波が立ってるだろ?」
「はい」
「あの下には、でかい石があって流れも速い。
舟を寄せる時には気をつけてるな」
「水面を見るだけでは、
川底の様子までは分からないってことですね」
「うむ、そういうことだな」
「そして、むこうのように川幅が狭いところは、
水の流れが強くなるのでな……」
ひとつ、ひとつ噛み締めるように。
その、船頭の声からは、
長い経験の蓄積からの重さを感じさせる。
「舟で近づかないようにしているが、
橋を架けるなら、短くて済むかもしれねえな」
船頭が岸辺の木を指さす。
「最後に、あれを見てみろ、大事なことだ」
船頭の指さした先。
川辺の小高いところに、
枯れ草や、小枝が引っかかっていた。
「ありゃ、大雨のあとに流れ着いたもんだ」
「あそこまで水面が上がるんですか?」
「雨が続きゃ、川ってやつは、
まるで別の顔を見せてくるからなぁ」
その言葉には、まわりの行商たちも頷いていた。
雨による川の氾濫は、田畑を荒らし、
最悪の場合には住む場所まで押し寄せてくる。
その猛威は、この場の誰もが知ることなのだろう。
「大雨の時の水位か、なるほど……」
俺は、川辺の小高いところに残された草木と、
目の前の水面を見比べる。
確かに、あそこまで水位が上がるとなれば。
橋の高さや、その支えも、
慎重に考えなければならないだろう。
そんな時。
「荷は積み終わったぞ」
後ろで荷運びをしていた男の声があがる。
「おっと、そろそろ舟を出さねえとな」
そう言うと、船頭が綱を解き始める。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「川のことなら、まだまだ、
いくらでも話すことは残っているぞ」
「それでは、また、
お時間のある時に聞かせてください」
「陽の落ちる頃には名張へ戻ってるからな、
夕餉の時にでも、また聞いてくれや」
「おじちゃん、またね!」
船頭は櫂を手に取り、
舟が、名張の岸から離れていく。
だが。
次の舟を待つ行商人たちが、
まわりには数多く残されていた。
――――――――――
「舟が足りねえのには困ったもんだな……」
タケが、渡し場に並ぶ人々を見やった。
「橋を架けるにしても、
まだ、時間はかかるのだろう?」
「そうですね」
そもそも、実際に橋を架けられるか、
どうかも分かっていない。
「それなら、筏でも用意するか?」
「筏ですか?」
「舟を増やすよりは早いんじゃないか?
筏なら、すぐに作れる」
タケは手の動きで筏を伝えてくる。
「丸太を何本か並べて、縄で結べばいい。
舟を造るほどの手間はかからねえ」
「なるほど」
いうほど筏を作るのも大変なのだが。
だが、タケたちにしてみれば、
手慣れたものなのだろう。
そして。
筏でも広く組めば、
人も、それなりに乗せられるだろう。
ただ――
「手軽さはありますが、
荷を運ぶには、少し心配ですね」
「心配? 何がだ?」
「人なら、乗る場所で重さの偏りを直せますが、
荷は、大きさも重さも違いますから」
穀の詰まった籠もあれば、重い木の道具もある。
「積み方によっては傾きますし、
穀を水に濡らすわけにもいきません」
「まあ、そうだな」
タケが静かに頷いた。
「筏には、舟みてえな縁がねえからな……」
タケは、名張の川を渡っていく舟を眺める。
あれこれと思考を巡らせているようだ。
「それに、この流れを横切って、
何度も往復させるのは、さすがに骨が折れるか」
タケが、諦めたように顎を撫でた。
「そうなると、やっぱり、
用意するべきは橋なんですが……」
「川に橋を架けるなら、問題は丸太だな。
かなりの数が必要になるぞ」
タケは、川の対岸へ目を向ける。
「たしかに……」
環濠集落にかける橋を作るのですら、
かなりの丸太を必要とする。
それを、この名張の川に橋を渡すなら、
その数は想像もつかない。
大量の丸太を用意する方法。
木材の伐採、加工に、輸送の方法か――
「名張の川の上流のほうを、
ちょっと見てまわりたいですね」
「上流、となると……山の方だな……」
そう言って、タケは、
名張の山へ顎をしゃくってみせた。
夏の緑に覆われた名張の山々。
その奥には、いったい、
どれほどの木々が眠っているのだろうか。




