第二百十五話 近親に繋がる血
「どこにも行かないよ」
俺は身をかがめ、イミコと目を合わせる。
「にぃに、ほんとに……?」
「イミコを置いて、どこかへ行ったりしないよ」
俺の袖を握る、イミコの小さな手に、
そっと自分の手を重ねる。
「うん」
それで、ようやく、
イミコの肩から力が抜けた。
まだ、少し不安そうではあるが、
小さく頷いてくれた。
俺は立ち上がり、阿倍臣へ向き直る。
「阿倍臣、せっかくですが、
いまの自分に嫁の話は早いかなと……」
「ふむ」
相手は葛城王の一門。
軽々しく断ってよい話ではないのだろうが、
今は、それしか言えなかった。
阿倍臣は怒るでもなく、
俺と、イミコを交互に眺める。
「なるほど、すでに、
心に決めたお相手がおられるのですな」
「……はい?」
「ふふ、それならば仕方ありますまい」
いや、待て。
「そんな相手はおりませんが」
「火の巫女さまが、おられるのではないか?」
「……イミコ?」
思わず、隣の妹を見る。
「……ん?」
イミコも、何の話か分からないように、
ちいさく首を傾げていた。
「イミコは妹ですよ?」
「ええ、存じておりますとも」
いや、知っているなら、
なおさら、おかしいだろ。
「兄妹が結ばれることなど、
さして、珍しいことではないでしょう」
「え、そうなんですか」
そうか。
この時代の常識は、
俺が、知っているものとは違うのだ。
すると、シラガも口を挟んだ。
「兄妹だけではないぞ。
いとこ同士や、同じ一門の者同士でも、
縁を結ぶことはある」
「でも、それでは……、
血が濃くなりすぎませんか?」
「確かに、同じ筋ばかりでの交わいは、
村に災いが呼び込むが……」
遺伝だ、なんだのと説明する前に、
この時代ならではの経験則はあるらしい。
「だから、環濠の外にも、
相手を探してまわるのじゃ」
「外から迎えるのですか?」
「近しい環濠と物をやりとりするうちに、
縁談の話が持ち上がることもある」
「嫁を迎えることもあれば、
こちらから送り出すこともあるのじゃ」
「ですが、家を離れて困ることもあるのでは?」
「無論じゃ、残された家には田畑も仕事もある」
「じゃから、迎える側も、
送り出す側も、よく話すのじゃよ」
「なるほど……」
一人の縁談で、家の働き手も、
環濠全体の暮らしも変わってくる。
どうやら、俺が思っていた以上に、
婚姻とは大きな意味を持つものらしい。
「普段、そういう縁談は、
環濠の長同士で決めるのですか?」
「それもあるが、そればかりでもない」
シラガが、すぐ脇の市庭へ目を向ける。
行商の男が、荷を下ろした若者と笑い合っている。
「行き来するうちに、互いを見初める者もおる。
荷を運んで来た者が、そのまま、土地に残ることもある」
「なるほど……」
「一度、縁ができれば、
むこうの土地も他人ではなくなる」
こちらから嫁いだ娘がいれば、
向こうの環濠には娘の家族ができる。
そこに、子が生まれれば、
両方の環濠に親族が根付くことになる。
それはつまり。
環濠全体が困ったとき、頼る先の環濠も増える。
今まで、道を通るのは「荷」と「商人」だと思っていた。
けれど、その道を通って来るのは、
これから家族になるかもしれない人々でもある。
そう思うと市庭の喧騒が、
すこしだけ、違って聞こえてきた。
――――――――――
「にぃに……」
袖を、また小さく引かれた。
「ん?」
「わたしも、どこかにいくの?」
「いや、そんな話はしてないよ」
イミコは俺の顔を見上げて、
しばらく考えるように唇を結んだ。
「わたし、にぃにと、いっしょがいい」
「俺もだよ」
そう答えると、
イミコは、ようやく笑った。
いつもなら、
俺もただ笑い返すだけだった。
だが、今日は。
その小さな手を握り返しながら、
先ほど聞いた話を思い出してしまう。
俺たちは、兄妹だ――
そのことは何ひとつ変わらない。
なのに、その言葉の意味が、
不思議とすこしだけ違って聞こえた。




