第二百十二話 阿倍臣許事の来訪
阿倍臣――
その黒く整えられた髪。
鼻の下には、短く揃えられた黒い髭。
歳は、四十を少し過ぎた頃だろうか。
穏やかな笑みを浮かべながら。
三輪の環濠で、
幾度となく顔を合わせた人物である。
「これは阿倍臣……」
俺は、慌てて頭を下げる。
「名張のイミナ殿ではないか」
阿倍臣は、柔らかな笑みを浮かべた。
「おひさしゅうございます。
まさか、名張へお越しになるとは……」
「ふふ、驚かせましたかな」
「お、おお……阿倍臣殿!」
隣にいたシラガも、慌てて頭を下げる。
それも無理はない。
阿倍臣といえば、三輪君の右腕とされる傑物。
三輪の正堂でも、君に次ぐ席に座り、
このあたりの祭事に深く関わっているという。
三輪之真人よりも、
立場としては、はるか上にあたる人物なのだ。
それが数人の護衛だけで、
山を越えて名張にやってくるなど。
普通に考えられることではない。
「そういえば、イミナ殿には、
まだ、名をお伝えしておりませんでしたな」
「名前、ですか?」
そういえば聞いてないかもしれない。
「阿倍臣許事と申す。
以後、お見知りおきを……」
「名張のイミナです、こちらこそ」
俺は、改めて頭を下げた。
「名を明かすに相応しい格を備えられた。
そういうことですな……」
阿倍臣は、そういうと静かに微笑んだ。
おだやかに見える外見とは裏腹に、
一体、なにを企んでいるのやら。
「阿倍臣、このたびはどうして……」
シラガが声をあげる。
「なに、近頃は名張のことを、
よく耳にしましてな」
「名張をですか?」
「うむ。随分と変わった土地になったと聞く。
一度、この目で見ておこうかと思いましてな」
阿倍臣は、楽しそうに笑う。
「まあ、歩きながら話そうではないか」
――――――――――
「なんでも、市庭というものがあるとか」
阿倍臣が歩き始めると、
その背後から、三人の男が付き従って動く。
いずれも、背には大きな籠。
旅に必要な荷を、
あれこれと詰めてあるのだろう。
身の回りの世話をする付き人のようだが。
「…………」
その足運び――
荷を背負いながらも姿勢を崩さない。
足を置く場所に迷いがなく、
重心の移り方は実に滑らかである。
そして、三人の立ち位置。
互いに離れて歩いているようで、
阿倍臣との距離を、一定に保っている。
道を行く人々を避けながらも、
その位置、大きく崩れることはない。
それは一種の結界ともいえよう。
さすが、阿倍臣のお供をする者たち。
三人共に相当な手練れのようだ。
「やはり、面妖な童よのう」
阿倍臣の瞳が向けられていた。
「……え?」
今は、特になにも、
変なことをしてないはずだが。
「イミナ殿は、自然と足音を殺しておる」
阿倍臣は、少しばかり目を細める。
「私の周りにいる者たちと、よく似てる」
「はぁ……」
言われてみれば。
まるで癖のように自然と取っていた、
その歩くという動作。
変わっているのかもしれない。
「その若さで、なぜ、
そのような身のこなしを
心得ておられるのですかな?」
「え、いや……その……はは……」
自分でもわからないので、
もう、笑ってごまかすしかなかった。
確かに――
今、阿部臣の身を守る三人を見ていたことを、
そのまま、自分の動きに置き換えてみる。
それは、普段から、
俺が意識せずにやっていることだった。
* * *
足さばき、重心の運び――
俺には知識がある。
戦い方や、身体の使い方についても、
知識としての理解がある。
だが――
知っていることと、
実際に、それができることは違う。
それは、これまでに何度も、
十分な程に思い知らされてきたことだ。
そもそも、丈夫とは言えない、この身体。
長い道を歩けば疲れるし、
力仕事では、大人たちの足元にも及ばない。
コイシなど、同じ年頃の子らと比べても、
極めて虚弱なほうだろう。
まともに身体を鍛えようにも、
そう、簡単にはいかない現実がある。
それなのに――
今も、足元の石を避けるために、
無意識に歩幅を変えていた。
足音を殺して歩いてる。
わざわざ考えて、
そう動かしているわけではない。
おかしいな。
知識だけでは、説明がつかない。
こうした身体の動きは、
はじめから自然と身についている。
いったいどうして――
* * *
「にぃに?」
隣から、イミコが顔を覗かせた。
「つらい顔、どうしたの?」
「あ、いや……なんでもないよ」
「ほんと?」
「うん、大丈夫」
イミコは首を傾げると、
俺の手を、ぎゅっと握ってきた。
その小さな手を、握り返す。
まあ、いいか――
今、考えても、
答えの出る話ではないのだろう。
――――――――――
「にぃに、いちば!」
イミコの声に顔を上げると、
名張の市庭が見えてきた。
行き交う人々。
荷を背負う行商人たち。
あちらこちらから、賑やかな声が聞こえてくる。
市庭の中央には、大きな日時計。
その傍らの巫女の火から、
絶えることなく細い煙が立ち昇っていた。
「こちらが名張の市庭にございます」
シラガが、阿倍臣へ向きなおる。
「ほう、これが……」
阿倍臣は、足を止めた。
そして。
ゆっくりと名張の市庭を見渡した。




