第十六話 ふたりのナバリの王
「またか、シラガ」
斜面から巨体が下りてくる。
後ろには数人の男たちが、無言で従っていた。
タケの手には石槍が握られ、
肩には解体した動物の足を背負っている。
どうやら、狩りの帰りのようだ。
その日にやけた肌には濃い刺青が沈み、
顎は岩のように張っていた。
「村の者を集めて、
火を焚き、水を煮立て、
今度は、水場まで勝手に分けるつもりか」
その声には怒りがあった。
だが、それはただの「忌み」への嫌悪感ではない。
本来、村の者しか教えない水場に、俺達が踏み込んでいる。
その事実に対する憤りだろう。
――――――――――
「タケか……」
シラガが眉をひそめる。
「村に火を焚かせ、水を煮立てる……そこまではいい……。
助かった者たちも見た、そこは否定しない」
タケの声は硬く、石斧の刃で削ったように容赦がなかった。
「だからといって、忌み子の言葉のままに、
村の習わしを次々に変えていくことを、我は認めん」
タケは、さらに一歩前へ出た。
「あまつさえ、今度は、水場を分けるだと……」
タケの言葉は止まらない。
「そんなことを始めれば、次は何だ。
村の古い決まりまで都合よく塗り替えるつもりか」
「すべては病を戻さぬためじゃ」
シラガは、あくまで穏やかに言葉を返す。
「この地を古くから守ってきたのは、
我ら那婆理であるっ」
タケの声が沢中に響きわたった。
ナバリ――
シラガの口にする名張と、タケの那婆理。
同じ音でありながら、どこか重みが違って聞こえる。
「ふん、忌みの子か……」
タケが刺青の刻まれた顎を上げる。
そこで、初めて俺たちと視線が重なった。
「我は、那婆理之稲置武、
この土地を古くから守り預かる者の一人だ」
村の内政を担う名張のシラガに対し、
狩猟や、外からの脅威を払う那婆理之のタケ。
ふたりの、ナバリの長と言ったところか――
「シラガ、おまえ一人の考えで好きにされては、
さすがにこれ以上は看過できぬぞ」
それから、タケの視線はイミコへ向いた。
俺の背中に隠れていたイミコは、
その鋭い視線に、さらに肩をすくめてしまう。
だが、逃げようとしなかった。
恐る恐るでも、その視線を見返していた。
「我らは、この子らを認めておらん」
はっきりと言う。
「村の民の命を拾ったのは認めよう、
だが、それで、忌みでなくなるわけではなかろう」
その言葉に、イミコの指が俺の袖をきゅっと掴んだ。
俺は一歩、前へ出る。
「タケ殿、なにも昔ながらのものを、
すべて壊そうという話ではありませんよ」
「その気が無かろうと壊れるに決まっている」
「いいえ」
できるだけ、声を静かに保つ。
「守りたいのは、村、そのものです。
水は、上から下へ流れる……ただそれだけのこと……」
「飲む場所と、洗う場所と、
汚れを流す場所を分けなければ、また病が戻ります」
「それを、なぜ、おまえが決める」
「私どもは必要なことを伝えるだけです、
それを村の掟にするかは、この村が決めるでしょう」
次に、俺は沢の流れを指した。
「目に見えぬ穢れは、祈りだけでは止まりません。
けれど、祈りの形にしなければ、村の皆は守れない……」
「そこで、火の巫女の名を借りるのです」
タケの眉がわずかに動いた。
「その子に、村の業を背負わせるつもりか」
棘の強い声だった。
けれど、そこには、わずかなためらいが滲んでいる。
幼い子を祭り上げることへの、割り切れぬ想いだろうか。
「背負わせたいわけじゃない」
俺は、イミコの小さな肩へ、そっと手を置いた。
「けれど、この子の名で皆が水を汚さずに済む。
それで助かる命があるなら、俺は……」
「俺たちは、そうします」
背後で、イミコも小さく頷いた。
「ふむ、口のまわる子よ……」
タケは黙った。
沢の水が、石に触れながら絶えず音を立てている。
山から下りる風は若葉を揺らし、湿った土の匂いを運んでくる。
そんな、長い沈黙の末、タケは鼻を鳴らした。
「……気に食わん」
それは拒絶の言葉だった。
だが、先程までとは重さが違っていた。
「シラガよ、おまえが村の長として口をきくことは、我も認めている」
「この忌み子どもの言うことも、理が無いとは言わん」
そのまま、タケの低い声が続く。
「だが、我は加わらぬ……那婆理の守りとして、
そんな掟に手を貸すつもりはない」
シラガが、静かに息を吐く。
「……では、邪魔はせぬのじゃな」
「うむ、邪魔はせん。だが、失敗したら許さぬ」
タケはきっぱりと言った。
「巫女の名まで使って村を乱すようなら、
その時は、我が止める」
その言葉は脅しではない。
土地を守る者としての最後通牒だ。
そして、タケは踵を返した。
「行くぞ」
背後に控える男たちに声をかけ、
その去り際、タケは、一度だけ振り返る。
「シラガ、おまえは名張の長である」
「だが、この土地の底に流れているのは、
今も我らが那婆理だ、それを忘れるな」
そう言い残し、男たちは斜面を上って去っていった。
あとには、張りつめた空気だけが残された。
――――――――――
「……見苦しいところを見せましたな」
シラガが深く息を吐く。
その目には疲れと苦みが宿っていた。
「彼の言うことにも理はあります」
「うむ……」
シラガは沢に視線を落とし、しわがれた声で言った。
「那婆理と呼ばれる家筋が、
この地に、古くからありましてな……」
「元来、山も、川も、道も、あの者らが守ってきたのです」
そして、自分の胸へ手を当てる。
「一方、わしらはこの地に訪れて根を下ろした名張の家で……」
「もう、長く村を預かってきましたが、
それでも、土の古さまでは覆せぬものでして……」
「なるほど」
名張は、今の村を動かす名だ。
だが、那婆理は、さらにその下。
地の底からを支える、もっとも古い土地の名か――
「だから、タケには、わしを長とは認めても、
自分たちこそが土地の守り人だという自負が強く……」
そこで、シラガが言い淀んだ。
「忌み子に至っては、まだ認める気もないと……」
俺は、シラガの言葉を補足した。
「もうしわけない……」
シラガは頭を下げた。
――――――――――
「……にぃに、どうなったの……?」
イミコが、そっと俺の袖をつまんできた。
「邪魔はしない、でも失敗したら怒る……って感じかな」
「……こわいひと、だったね……」
「そうだね」
「でも……むらのこと、しんぱい、してた……?」
「ああ」
俺は、タケが去っていった斜面を見た。
「あの人も、この村を守ろうとしてる。
ただ、守り方が違うだけなんだ」
イミコはしばらく考えてから、小さく頷いた。
「……そっか」
俺は、もう一度、沢へ視線を向ける。
村は人の集まりだ。
正しさだけで人は動かない。
古くからの形を守り続けてきた者がいる。
新しいやり方を受け入れようとする者がいる。
そのどちらも、この「ナバリ」の土に立っている。
ならば、ただ道を示すだけでは足りない。
理を、誰もが従える掟の形へ変えねばならない。
沢のせせらぎを聞きながら、
俺は、しばらく、水の流れの先を見つめていた。
北の「師木津日子命」の系列となる「伊賀・阿閉」派の「那婆理」と。
西の「大彦命」の系列となる「阿部」派の「名張」と。
そんなふたつの「ナバリ」の史実に基づいた設定となります。




