第百九十話 はじめての獲物
ぱきっ――
足元で、小さな枝が折れた。
「足を上げすぎじゃ」
すぐ隣から、
トネの低い声が飛んできた。
那婆理の民では、
最年長の経験豊かな猟師である。
「そんな歩き方では山中の獣たちに、
居場所を教えてしまうぞ」
「……はい」
俺は、そっと足をおろす。
朝の風は、まだ少し冷たいけれど。
木々の間から落ちる陽は、
冬のものより、ずっと柔らかい。
そこはかとなく春の訪れを感じた――
――――――――――
ワンッ! バウッ!
遠くから、シロの甲高い声。
少し遅れて、
クロの低い声が山へ響きわたる。
「むこうも始まったようじゃな……」
名張の山、その奥では。
タケや、ハヤトたちが、
二匹を連れて猪を追っている。
もちろん、俺は、
そこに参加できないわけだが。
「猪に踏まれたら、
一発で終わりじゃからのう」
「分かってますって」
「おぬしだから、山に連れてきておるが、
本来は早いくらいじゃからな」
大物の狩りには、
参加させてもらえなかった代わり。
俺は、トネと一緒に、
もっと小さな獲物を探していた。
「ここを見てみい」
そう言いながら、
トネが、倒れた草を指先で起こす。
「草、ですよね?」
「何度も踏まれておる」
言われてみれば。
細い草だけが、
同じ方向へ倒れていた。
「獣も、何度も、同じところを通るのだ」
トネが目を細める。
「道を作るのは、人だけではないぞ」
「なるほど」
そんな獣道を見定め。
しならせた若木へ繋いだ縄の罠を、
教わった通りに仕掛ける。
その仕組みについては、
俺の中の「膨大な知識」にもあった。
けれど。
獣がどこを通るのかまでは、
俺の知識だけでは分からなかった。
「では、むこうから、
獲物を追い立ててみせるぞ」
そういうとトネは立ち上がり、
藪の中へと姿を消した。
――――――――――
トネと分かれてから、
俺は、茂みに身を隠して待った。
それからしばらくすると。
がさっ――!
藪から、兎が飛び出した。
「あっ!」
俺が、おもわず身体を動かした。
次の瞬間。
兎は、進む向きを変え、
罠とは違う藪へ駆け込んでいった。
「むぅ……」
兎の後を追ってきたトネと、
無言で目が合う。
「逃げられましたね」
「見事にな」
「……すみません」
「最初から獲れるなら、
我ら、猟師はいらんわい」
トネが、声を上げて笑った。
「次は、獣ではなく、
逃げる道の先を見るんじゃ」
「はい」
――――――――――
それから。
何度も、追い込みは続き――
「そっちへ行ったぞ」
遠くから聞こえるトネの声。
次の瞬間。
ばっ――
兎が、茂みから飛び出して、
細い獣道へ駆けこみ。
瞬間、大きな音をあげて、
張っていた縄が跳ねあがった。
「掛かった」
俺は、すぐに駆け寄る。
縄から逃れようと、
兎は、その体を必死に動かしていた。
「早く、楽にしてやれ」
後からきたトネが、
背後から静かに呟いた。
「……はい」
俺は、強く息をのみ。
教えられたとおり、
自分の手で止めを刺した。
やがて、小さな身体は動かなくなった。
「……獲れました」
その身体を抱き上げると、
まだ、温かい。
「初めての獲物じゃな」
トネが、小さく頷き。
「そのまま、村まで、
自分で持って帰るがよい」
「ありがとうございます」
獣の死なら、何度も見てきた。
それでも。
自分で獲った命は、
いつもより、少しだけ重く感じた。
――――――――――
「おーい!」
しばらくして。
泥だらけのシロと、クロ。
ハヤトや、タケ、
その他の那婆理の民が姿を現した。
その後ろには大きな猪。
「おお、でかい……」
腕の中の兎を見ると、
それは、明らかに小さかった。
「イミナも獲れたのか」
「トネさんに助けてもらって、
ようやくですけど」
「わしは、横から口を出しただけじゃ」
トネが笑う。
「なら、お前が獲ったんだな」
タケは、それだけ言って歩き出した。
なんだろう。
少し。
嬉しかった。
――――――――――
名張の山を下りる頃には。
陽は、ずいぶんと高くなっていた。
ざくっ。
ざくっ――
帰る道の先から、
土を掘る音が聞こえてくる。
秋には、まだ浅い線でしかなかった。
名張の新しい環濠。
今では。
俺の背丈ほど掘られた場所もある。
「よう、坊主!」
濠の中から。
泥まみれのイバラが、
こちらへ、手を上げてきた。
「お疲れさまです」
「なんだ、それ」
「兎です」
「そりゃ、見れば分かるよ」
イバラが鼻を鳴らす。
「お前が獲ったのか?」
「はい、初めて獲りました」
「へえ……」
イバラは、一度だけ、
こちらの手元の兎へ目を落とすと。
「やるじゃねえか」
それだけ言うと。
また、土を掘り始めた。
その隣では名張の者も。
三輪から来た者も。
かつて、野盗だった者たちも。
同じ濠を掘っている。
そのさらに先では、冬越しの麦が、
畑を青く染めていた。
名張の女衆が春蒔きの支度をし、
その脇を、子供たちが籠を抱えて歩く。
道には。
波多から届いた荷。
三野へ向かう行商たちが、
綺麗に並んでいた。
――――――――――
「にぃにーっ!」
環濠のほうから、
ちいさな声が飛んできた。
ぱたぱたと駆けてきたイミコが、
俺の手元を見て、ぴたりと立ち止まった。
「……うさぎ?」
「うん」
「にぃにが、とったの?」
「初めての獲物だよ」
「わぁ、すごい!」
ぱっと。
イミコの顔が輝いた。
「きょう、たべるの?」
「うん、みんなで食べよう」
「やったぁ!」
その笑顔をまえに、
俺も、自然と笑っていた。
――――――――――
その日の夕方。
兎の肉を、
皆で食べ終えたあと。
そこには、皮と、骨が残っていた。
「トネさん、この骨、
俺がもらってもいいですか?」
「お前が獲ったものじゃ、好きにせい」
「ありがとうございます」
春の日差しのなか。
はじめて自分で獲った兎の骨は。
俺の小さな掌に、
すっぽりと収まっていた――




