第百六十九話 青山編:丘の上からみえるもの
名張の丘を、
冷たい風が抜けていく。
貫頭衣の裾が、風に揺れる。
「いい景色だ」
煙を上げるための見張り小屋に、
俺たちはいる。
「いっぱい、みえるね」
長い黒髪を風に揺らしながら、
イミコは、丘の下を覗き込んでいた。
――――――――――
「こうしてみると、
名張も、川を軸にしているんだな」
山裾を流れる、名張川。
その先で交わる、宇陀川。
それらの川に沿うように、
草木の緑が、一面に広がっていた。
「俺たちの小屋は……」
南へ視線を向ける。
秋の木々に覆われた、低い山。
俺の知る後の世では、
「竜神山」と呼ばれていたあたりだ。
「あそこが、わたしたちのおうち?」
「そうだよ」
「ちっちゃい」
「ここからだとね」
そして。
山の中腹に見える小屋から、
山裾へと、ゆっくり視線を辿らせる。
さらに西――
後に「赤目」や「柏原」と呼ばれる山野。
今はまだ、木々と、野原が広がっているだけだ。
なぜだろう――
その辺りへ目を向けた瞬間、
胸の奥が、
妙にざわついた。
気付けば、俺は貫頭衣の胸元を、
指先でつまんでいた。
「……にぃに?」
「ん、なんでもない」
小さく息を吐いてから、
俺は、眼下へ視線を落とした。
山の麓には名張の村。
いくつもの竪穴から、
いつものように煙が昇っている。
「あ、いちば」
イミコが指をさす。
環濠の出入り口には、市庭。
ちいさな人影と、荷が、
いまも絶えず行き交っていた。
そこから、
一本の道が北へ伸びている。
名張川へと。
陽の光を受けた水面が、
木々の間で白く輝いていた。
その手前に――
「あっちも、けむり」
イバラたちの住む新しい環濠。
昨日まではなかった煙が、
今日は、何本も立ち上っていた。
「わぁ……みんな、うごいてる……」
丘の上からでは、
誰なのかまでは見分けられない。
それでも。
皆が、忙しなく動いているのは、
よく分かった。
――――――――――
「にぃに、あっちは?」
イミコは、さらに北を指さした。
名張川の向こう。
道は森へ入り、
木々に隠れて見えなくなる。
「あの森の向こうが、三野だよ」
「みの」
「波多は、その西の辺りだね」
「はた」
イミコは、ひとつずつ、
確かめるように繰り返していた。
「……もっと、むこうは?」
さらに北。
ここから見えるのは、
三野の森と、その向こうの山まで。
けれど、その山の向こうには、
青山の為吾。
そして、まだ、
俺自身も見たことのない。
伊賀に、阿閉――
「随分、遠くまで、
見えるようになったもんだ……」
いや、俺の知る世界が、
広くなったのか。
* * *
もし、俺が、
この世界へ来なかったなら。
眼下に広がる景色も、
今とは違っていたはずだ。
新しい環濠から昇る、
あの煙だって。
今、ここに、
あったかどうか分からない。
俺は、歴史を、
すでに大きく変えているのだろう。
知っていた歴史が、
この先も同じように続くのか。
それすら分からない。
それでも、やるしかないだろう。
ここにいるのは。
歴史の書に記される、
ただの「人々」じゃない。
名前があって、顔があって、声がある。
笑うところも、怒鳴るところも、
俺は、もう知ってしまった。
* * *
一陣の風が丘を抜ける。
遠くの山々は、
静かに秋の陽を受けていた。
そして、今、
俺はここに立っている。
この時代に生まれ落ちた者として。
そう――
「転生者として……」
「てんせい、しゃ……?」
イミコが、不思議そうに見上げてくる。
「あ、いや……なんでもない……」
「ふーん……」
イミコは、丘の下へ視線を戻した。
――――――――――
それからしばらく。
「おなかすいた」
お腹を、両手で押さえていた。
その姿を前に、
おもわず肩から力が抜ける。
「そろそろ帰ろうか」
「うんっ」
イミコは、満面の笑みを浮かべると。
ぱたぱたと小さな足音をあげながら、
一足先に、丘を下っていく。
「にぃに、はやく」
「今行くよ」
俺は、イミコと肩を並べて。
名張へと続く道を。
二人で、ゆっくり歩きはじめた。
■ 八章「名張の実り」 ~完~
次回からは、187年の冬、九章「揺らぐ道」となります。
七章で抱えた問題を、八章を通して一つずつ解決し、より強固になった名張村。
九章では、いよいよ「伊賀・阿閉」の暗躍が芽吹き始めます。
着実に基盤を固めていく「名張・三野」と「伊賀・阿閉」の対立。
その周りを取り巻く「為吾」の者たちがどうなっていくのか。
これから始まる、歴史のうねりをお楽しみに。




