第百六十七話 青山編:手を離れたもの
昨夜まで、あれだけ
大きく燃えていた「巫女の火」も。
朝には、白い灰を残すだけになっていた。
「めでたいな、カヤ!
元気な声だったじゃないか!」
「は、はい……、
ありがとうございます!」
まだ、肌寒さを感じる朝方。
広場の向こうから、
そんな、明るい声が聞こえてくる。
「今日から父だな!」
「うわっ」
ひとりの行商の手が、
カヤの背中を力強く叩く。
「めでたい日に居合わてもらったよ、
これ、もらってくれ」
そういうと、
一枚の、上等な布を差し出した。
「お前がしっかりして、
嫁さん、しあわせにしてやれよ」
「はいっ」
名張の者だけでなく、
昨夜、泊まった行商たちまで笑っていた。
「にぃに……カヤ、にんきもの……」
イミコの指さす先。
「そうだね」
おもわず、口元の緩む光景だった。
――――――――――
「おい、その荷は『三』だぞ」
その反対側から、
不意に、別の声が飛んできた。
「ああ、この札で、いいんだよな」
名張を発つ行商人たちが、
腰へ結んでいた木札を差し出して。
預けてた荷を受け取っていく。
預けていた者と、預かっていた物が、
同じ印で結ばれていた。
「よし、間違いない、また来いよ」
そうして。
荷を背負った男たちが、
一人、また一人と橋を渡っていく。
「にぃに、あれってこの前の?」
「数札だね」
市庭で、荷を取り違えないために、
始めたものだった。
それが、今では――
市庭のない日でも、
当たり前のように使われている。
周りを見わたせば。
土器へ、水を足していく者。
朝の粥を食べる者。
これから向かう道について、
名張の者へ、尋ねる者。
名張には。
市庭のない日にも、
絶えず、人が行き交っていた。
「名張の宿場と言ったところかな」
「やどば?」
「人が泊まって、また旅に出る場所だよ」
「ふーん……」
そんな朝の広場の光景を眺めながら、
俺たちは、環濠に向かった。
――――――――――
ごりっ――
「ん?」
名張の環濠に入り、
炊事場の前。
通り過ぎるところで音がした。
いつもの石を擦る音とは違う。
重い石そのものが回る、低い音。
ごり。
ごりごり――
「もう少し、
こっちを削れませんか?」
「そこ削ると、また石が寄るんだよ」
「なら、軸のほうを……」
「ああ、そっちか」
収穫祭に使われた石皿が、
炊事場の横に重ねて置かれていた。
その隣で、石を囲んでいたのは、
イワホコと、ユラだった。
「あ、イミナさま」
ユラが顔を上げる。
「ふたりは、なにしてるの?」
イミコが、二人の顔を覗き込む。
俺も、その大きな石の塊を前に、
思わず足を止めた。
「石臼ですか?」
「まあな」
イワホコが得意気に鼻を鳴らす。
下の石は、しっかりと据えられており。
その中央には軸。
上の石には、麦を入れる穴と木の柄。
石の面には、
整った溝が刻まれていた。
「すごいですね」
以前、俺が伝えた石臼の形に、
かなり近付いている。
「昨日の収穫祭、思ってたより、
小麦焼きが多かった気はしてたんですよ」
そう言いながら、俺は、しゃがみ込んだ。
「まあ、まだまだ……だけどな……」
イワホコが、石臼を見下ろし、
その木の柄を握る。
ごり。
ごりごり――
上臼が、軸を中心にまわりはじめた。
その石の隙間から、
白っぽい粉が、少しずつ落ちてくる。
次の瞬間――
麦粒が転がり落ちてしまった。
「こんなところだ」
「なるほど」
指ですくうと、
まだ、ざらつきが残っていた。
「あと」
イワホコが上臼を指さした。
「回してると、少しずつ石が寄るんだよな」
「安定しないんですよねぇ」
ユラが、石臼の端へ指を添える。
「直すところは多そうですね」
だが、それでも――
俺は、柄へ手を掛けてみた。
以前の重さを思い出しながら、
柄へ、ゆっくりと力を込めてみる。
ごりっ――
「……軽い」
上臼は、素直にまわった。
「これなら、擦り石で潰すよりも、
ずっと楽ですね」
「はい、収穫祭の小麦焼きには、
これで作った粉も使っております」
ユラが、嬉しそうに頷く。
「ただ、まだひとつしかないので……」
「この石臼の他は、皆、擦り石だ」
イワホコが、肩をすくめる。
「ああ、だから昨日も……」
炊事場から、
擦り石の音が消えてなかったのか。
「ありがとうございます」
俺は、二人へ頭を下げた。
「なんだよ、急に」
イワホコが、慌てたように手を振る。
「私たちだけで、
作ってるわけでもありませんから」
ユラも、小さく笑った。
「イワホコ、ユラ……、
そして、みんな、ありがとう……」
隣のイミコも、
一緒に、ぺこりと頭を下げる。
「だから、そんなたいしたことじゃねえよ」
イワホコが、困ったように頭を掻く。
「ふふ」
ユラは、その隣で笑っていた。
「にぃに」
ちょいちょいと、
イミコが、俺の袖を軽く引いた。
「ん?」
俺が腰を屈めると、
イミコが、耳元へ口を寄せてきた。
「……あのふたり、まえより、なかよし?」
「あーっ」
イミコに言われて、
もう一度、俺は二人に視線をむける。
「まあ、それで今は……えーっと……」
イワホコが、
そばの道具に手を伸ばそうとした時。
ユラが、すっと、その石具を差し出す。
「こっちの溝のほうを、
色々と、試したりしているんだが……」
イワホコは何も言わず、
それを、自然と受け取っていた。
「言われてみればたしかに」
「ふーん……」
何かを納得したように、
イミコは、何度も頷いていた。
「ああ、そういや……」
そんな時、イワホコが。
石臼から目を離さないまま、
不意に、思い出したように呟く。
「シラガのじいさん、
お前のこと、探してたぞ」
「シラガさんが?」
「ああ」
ごり――
石臼が、また一度まわる。
「なんか、話があるってよ」




