第百六十六話 青山編:実りの声
ぱちっ――
竪穴の中央で、
炉の火が小さく爆ぜた。
火の熱と、土器から立ち昇る
湯気が辺りにこもっている。
「……っ」
筵の上に横たわるカヤの妻。
その額には細かな汗。
隣に座る女衆の手を、強く握りながら、
必死に痛みに耐えている。
「ゆっくり、そうそう……息を吐いて……」
「……は、はい……」
浅くなった息が、長くなる。
張りつめていた身体から、
わずかに力が抜けた。
けれど。
また、すぐに次の痛みが来る。
「……っ、うぅ……」
握られた女衆の手に、
再び、苦悶の力がこもった。
「湯をこちらへ」
一人が、清めた布を受け取り。
別の女が、カヤの妻の身体を支える。
次に、何が必要なのか誰も聞かない。
それぞれが、
自分の役目を分かっていた。
出産に俺の出る幕はない。
いつの時代でも、人は子を産む。
それを、皆で支えあいながら、
受け継いできたものである。
ただ、炉に掛けられた水、
汚れたものと分けられた綺麗な布。
それらの衛生が自然と身についていた。
俺の持ちこんだ知識は、
名張の暮らしに浸み込んでいた。
「……っ!」
「おい、大丈夫か!」
カヤが、思わず、
妻のもとへ身を乗り出す。
身を乗り出したカヤを、
年嵩の女が、腕で押しとどめた。
「だから、男衆は、もう出ておいき!」
「でも――」
「そこで、うろうろされたら、
産まれるもんも、産まれないよ!」
「…………」
その剣幕に、カヤは押し黙った。
「カヤさん、広場へ行きましょう」
「でも……」
「俺たちにできることは
なにも、ありませんから」
「……そう、だけど」
「大丈夫ですよ」
俺は、そう声を掛けた。
「…………」
当然、カヤの顔は、
少しも安心していなかった。
* * *
大丈夫だと、
言い切れるはずがない。
この時代、出産は命がけだ。
母が命を落とすことも。
生まれた子が、息をしてくれないこともある。
簡単に、大丈夫だなんて、
言えるはずもない。
それでも――
* * *
「大丈夫ですよ」
俺は、もう一度、カヤへ言った。
「奥さんも頑張ってます、
女衆の皆さんも付いてますから」
そう言うことくらいしか、
俺には、できない。
カヤは、妻の姿を見つめてから。
「……はい」
小さく頷くと。
女衆に追い立てられるように、
俺たちは竪穴を後にした。
――――――――――
すっかり日が落ちる頃。
名張の広場には、
いくつもの火が灯っている。
焼ける猪の脂、香ばしい小麦焼き。
波多から届いた酒の香り。
実りを祝う収穫祭は。
もう、始まっていた。
「ほら、食え食え!」
イワホコが、大きな声を上げる。
「せっかくの祭だぞ、
そんな、暗い顔してどうする!」
「言ってる、お前が、
一番、竪穴のほう見てるじゃねえか」
「うるせえ!」
どっと、広場に笑い声が起こる。
だが。
その直後には、誰もが、
ちらりと竪穴の方角に視線をむけていた。
「…………」
カヤは、渡された酒の器を、
両手で持ったまま。
一度も、口をつけていなかった。
「……無事に」
器の中身を見つめながら、ぽつりと。
「産まれてくれたなら、
それだけで、いいんです……」
「はい」
俺には、それ以上、
カヤにかけられる言葉はなかった。
そして。
時間だけが、
ゆっくりと過ぎていく。
名名張の広場に据えられた『巫女の火』には、
たくさんの灰が積もっていき。
山のようにあった猪の肉も、
少しずつ、その数を減らしていった。
ぱちっ――
薪が、小さく爆ぜる。
誰かが、土器を地面へ置く。
誰かが、酒をあおる。
祭のざわめきは、
絶えることなく続いていた。
けれど、みんなの耳は、
ただひとつの声を待っていた。
そして――
「おぎゃあああああああ――!」
その一瞬。
名張の広場から、
他の、すべての音が消えたように感じた。
「…………っ!」
カヤが、勢いよく立ち上がる。
器を置くことさえ忘れて、
一目散に、竪穴へ駆けていった。
「……にぃに」
イミコは、すぐに俺の横に立っていた。
「ああ、行こう」
俺たちも後を追った。
実りを祝う「巫女の火」に照らされる人影。
そのすべてが、一斉に、
ひとつの方向へ動いていった。
――――――――――
「入ってくるんじゃないよ!」
竪穴の入口で。
女衆の一声に、
男衆の足が止まった。
カヤだけが、女衆に呼ばれて、
その竪穴へ入っていく。
「……わぁ、ちっちゃい……」
イミコが、小さく声を漏らす。
竪穴の入口から、
俺たちは中の様子を伺った。
そこには。
湯で身体を拭われ、
綺麗な布へ包まれた小さな身体。
赤い――
本当に、赤い子だ。
身体を丁寧に拭う布の間から、
小さな指が、少しだけ覗いている。
赤子。
赤ちゃん――
そんな言葉が。
今は、不思議なくらい腑に落ちた。
「おぎゃあっ!」
その胸が、大きく上下する。
こんな小さな身体の、どこに、
これほどの声を出す力があるのだろう。
「おぎゃああああっ!」
息を吸い。
泣いて。
生きている。
「よかった」
カヤの妻の声がした。
「ああ」
カヤは、恐る恐る、
赤子に手を伸ばした。
けれど、触れる直前で、
その手を止めた。
「ふれてあげて」
妻が。
疲れた顔のまま、
ほんの少し笑った。
それから赤子の指が、
カヤの手へ、そっと触れる。
「…………」
カヤは。
泣きそうな顔のまま、
何度も、何度も頷いていた。
「おめでとう!」
「元気な子だ!」
「よく頑張ったな!」
次々と祝福の声があがる。
竪穴の周りは、今夜の収穫祭よりも、
大きな喜びに包まれていた。
俺は、赤子を見つめる。
目の前には、
たった一人の小さな子。
* * *
俺も、みんなも。
こうして生まれてきたんだ。
父がいて、母がいて。
その二人にも、
また、父と母がいた。
その前にも。
さらに、その前にも――
数え切れない命が、
途切れず、繋がった先に。
今の俺たちがいる。
* * *
「すごいね……」
隣から、イミコの声がした。
その視線は赤子から、母。
そして、父へ。
きゅっ――
イミコの小さな指が、
俺の裾を、強くつまむ。
「わたしたちも……、
こうして、生まれてきたのかな」
裾を握ったまま。
イミコは、小さく呟いた――




