第百五十四話 大きくなったもの
「わ、かわいい!」
イミコが、
弾かれたように駆け出した。
名張の山小屋へ向かう、道の途中。
偶然出会ったハヤトの足元を、
猟犬のシロと、クロが並んで歩いている。
その間を。
短い足で懸命についていく、
小さな犬が一匹。
「にぃに、みて!」
「見てる、見てる」
イミコが、しゃがみ込むと、
子犬は一度立ち止まり。
イミコの、差し出した手へ、
そっと鼻先を寄せる。
「ふふ……くすぐったい」
ぺろり、と。
子犬が、イミコの指を舐めた。
「シロの子ですよ」
ハヤトが笑う。
「生まれて、まだ数か月です」
「シロの……」
俺も、その前へ屈んだ。
柔らかな毛に覆われた小さな身体。
シロの足元へ隠れたかと思えば、
また、すぐに顔を出してくる。
「名前は、なんというのです?」
「まだ、若い犬なので、
俺たちはワカと呼んでます」
「ワカ……」
イミコが呼ぶと、
小さな尻尾が、また揺れた。
人間だけではない。
名張で、また一つ。
新しい命が生まれていた。
――――――――――
「お二人は山へ?」
「山小屋に置いたままの籠と、
使っていない土器を取りに行こうと思って」
「それなら、自分もついていきますよ」
「え?」
「荷があるなら、
手は増えたほうが楽ですから」
そう言いながら、
ハヤトは、シロたちへ目を向けた。
「どうせ、こいつらにも、
山を歩かせるつもりでしたから」
「そういうことなら、お願いします」
ひさしぶりの山歩き。
木々の間から落ちる光が、
道の上で、細かく揺れている。
湿った土と、踏まれた草の匂い。
昔と変わらない山道を、
シロと、クロが先へ進み。
その後ろを、
ワカが必死に追いかけていく。
少し急な坂へ差しかかると。
その短い足が、ずるりと土を滑った。
「がんばれー……」
イミコが後ろから応援する。
シロも、
足を止めていた。
「ちゃんと待つんですね……」
「親ですからね」
「シロ、えらいえらい」
イミコが、嬉しそうに笑う。
俺たちも、三匹の後を追うように、
名張の山を登っていく。
今日は、なぜか、
いつもより足が軽かった。
――――――――――
「わあ、ひさしぶり」
木々の間に、
俺たちの山小屋が見える。
「最近は、名張の環濠にばかり、
泊まってたからね」
そう言いながら、
俺は、竪穴の入口を潜る。
ふわりと。
乾いた土と、古い灰の匂いが、
鼻先をくすぐってきた。
壁際の土器、使わなくなった道具。
何度も身体を横たえた寝床。
「なんか……」
先に入ったイミコが、
きょろきょろと中を見回す。
「おへや、せまくなった……?」
「そうか?」
俺も周囲を見渡す。
「何も変わってないけど」
その時。
壁際に置かれた、
小さな籠が目に入った。
「ああ、これ」
手に取ってみる。
「昔、イミコが使ってたやつだな」
「わたしの?」
イミコは、籠を抱えてみせる。
「たしかに小さいな」
「小屋や、籠が、
小さくなったんじゃありませんよ」
後ろで、ハヤトが笑っていた。
「二人が、大きくなったんです」
「俺たちが……?」
「ええ」
言われて。
袖から伸びた、
自分の腕へ目を落とす。
こうして見ると確かに昔より長い。
そうか。
さっきの山道も、
以前ほど苦しくなかった。
そして、なんだかんだで成長期。
その一年は大きい。
さらには飢えてもいない。
毎日、当たり前に食べられている。
「とんと、忘れてたな」
普段は大人たちに囲まれ、
三野や、三輪の者と話しているうちに。
忘れていた。
俺は、まだ子供の身体だったのだ。
ふと、隣のイミコへ、
視線を向ける。
「にぃに……?」
村の女衆に整えてもらっている、
艶のある黒い髪は、背中まで伸びていた。
痩せこけていた頬にも、
やわらかな丸みが戻っていた。
その胸元では、翡翠の勾玉が、
淡く光を拾っている。
* * *
可愛い妹だということは、
今も変わらない。
けれど、その中に。
少しだけ――
綺麗というものが、
イミコの姿に混じり始めていた。
* * *
「……にぃに、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
俺は、おもわず顔を逸らしていた。
「わたし、おとなになった?」
自分の髪を一房つまみあげて、
少しだけ背筋を伸ばす。
「すこしだけ、ね」
「えへへ」
嬉しそうに笑った。
その笑い方だけは、
昔と、何も変わらない。
「でも、にぃにも、かわったよ」
「俺?」
「せ、すごくのびた」
イミコが俺の正面へ立つ。
自分の頭のてっぺんへ、
掌を横に置き。
そのまま、近づいてくる。
「ほら」
こつん、と――
額が触れた。
「まえは、おなじくらいだったのに」
一歩離れて。
イミコが、俺を見上げる。
「いまは、にぃにのほうが、おっきい」
「そうだね」
思わず、笑いがこぼれた。
昔と同じ山小屋が。
今日は、少しだけ、小さく見えた。




