第百四十六話 秋の壱:山の甘い蜜
名張の山を歩いてると気づく。
最近、朝の風が、
すこし冷たくなってきた。
陽が昇ればまだ暑い。
それでも、山から吹く風には、
もう夏とは違う匂いが混じっていた。
朝露の残る草を踏む。
そのたびに湿った葉が、
しゃり、と鳴った。
「にぃに」
隣を歩いてるイミコが、
俺の手を握ってくる。
「きょう、ちょっとさむいね」
「秋が来たんだろうね」
「あき?」
「おいしいものが、
いっぱい採れる季節だよ」
「おいしいもの!」
イミコの顔が、
ぱっと明るくなった。
「……ふっ、そればかりだな」
前を歩いてるタケが、
なかば、呆れたように笑う。
――――――――――
木の実や、薪を集めに、
今日は名張の山へ来ていた。
タケと、名張の民が二人。
それに俺とイミコがついてきた。
その時――
ぶうん。
「わっ!」
一匹の蜂が、
俺たちの前を横切った。
「イミコ、動かないで」
「う、うん……」
返事をしながら。
握っていた俺の手へ、
小さな指を、ぎゅっと食い込ませる。
「……行ったね、だいじょうぶ」
蜂は、俺たちに構うことなく、
すこし先の大木へ飛んでいった。
その先に視線を向けると。
ほかにも何匹もの蜂が、
しきりに幹の洞を出入りしている。
「蜂の巣だな」
タケが木を見上げた。
「ちょうどいい、
蜜が溜まってるかもしれんな」
「みつ……?」
俺の後ろから、
イミコが恐る恐る顔を出す。
「そう、蜂の蜜。とても甘いんだよ」
「あまい……?」
イミコは、きょとんと首をかしげた。
蜂蜜――
人類と蜂の関わりは古く。
もっとも古い甘味のひとつとも言われる。
貴重な甘味としてだけでなく、
薬や、供え物にも使われてきたという。
環濠の外で暮らしていたイミコには。
そんな貴重な甘味を口にする機会なんて、
これまで、一度もなかっただろう。
「タケさん、採り方は知ってるんですか?」
「当たり前だろ」
ふんっと鼻を鳴らして、
蜂の巣となる幹に視線をむけた。
「巣を見つけた時のために、
山に入るときは持ち歩いてるのじゃよ」
名張の民のひとり、トネが、
荷物から小さな壺を取り出した。
「まあ、そこで見てろ」
タケは、二人の名張の民を引き連れて、
蜂の巣にむかった。
――――――――――
「蜂の巣を取るときは、
まず、火を起こして煙をたてるんだ」
タケは、枯れた木片へ火を移し、
湿った葉を重ねていく。
白い煙が、ゆっくりと、
木の洞へと流れ込んでいく。
頭と、首に、
布を巻いてはいるものの。
それ以外は、薄い衣のままだ。
「そんな恰好で、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
そして、タケは蜂の巣を見上げる。
「刺される時は、刺される」
「ぜ、全然……大丈夫じゃない……」
「騒がせなきゃ、
そう、何匹も来ねえよ」
そう言いながら、タケは急がない。
ぶうん、ぶうんと、
無数の蜂が飛び交う木の近く。
蜂が、洞の入口へ集まれば手を引き。
羽音が静まれば、また煙を送る。
蜂の巣へ煙を送り、
蜂をおとなしくさせてから巣を切り取る――
それは、俺の脳内に眠る、
膨大な知識のなかにもあるが。
実際にやるのとは、やっぱり違った。
やがて。
「よし……」
タケが、ゆっくり、
木の洞へ手を伸ばした。
「イミナ、おまえも見てみろ」
タケに促されるままに、
俺は、木に近づいて洞を覗きこむ。
「おお、これが……」
洞の中には、幾重にも垂れ下がった、
白と黄色の混ざり合った巣。
その表面を、まだ、
数匹の蜂が這いまわっていた。
「おお、蜂の巣だ」
びっしりと並んだ六角の穴。
その奥では。
蜜が陽を受けて、
濡れたように光っていた。
そして、煙の匂いに混じって。
ほんのりと、
甘い香りまで漂ってくる。
「この辺なら採っても良いだろう」
タケは蜜の詰まった場所を選び。
迷いなく、巣を根元から切り離した。
「全部は採らないんですね」
「ああ、全部持ってったら、
冬にこいつらが死んでしまうからな」
「なるほど」
タケは、そんなことは当然だとばかりに、
次の巣へ目を移していた。
「はちさんも、
ふゆに、みつ、たべるの?」
「そうみたいだね」
俺が頷くと。
「はちさん、ちょっとだけ、もらってくね」
イミコは、木の洞にむかって、
ちいさく手を振ってみせた。
その光景を前に、
タケは口元を緩めていた。
――――――――――
「切り取った巣は、葉を敷いた壺へ、
崩さないよう入れてだな」
そういいながら、タケは、
蜜をたっぷり含んだ巣を持ち上げる。
見た目より、ずっしりと重そうだ。
そして、
持ち上げた拍子に。
巣の端から――
ぽたり。
黄金色の雫が、ゆっくり、
糸を引きながら壺の中へ落ちていく。
「あっ」
イミコが、
すぐに覗き込む。
「これが、みつ……?」
「すこし舐めてみる?」
俺は、指先へ、
ほんの少しだけ付ける。
「いいの?」
「少しだけね」
そういうと。
恐る恐る。
イミコが、
俺の指へ舌を伸ばす。
ぺろ。
「…………」
イミコは、口を閉じたまま。
俺の指先をじっと見つめて固まった。
「…………!」
次の瞬間。
俺の袖を、ぎゅっと掴み。
「あまっ!」
「にぃに!
なにこれ、すっごくおいしい!」
今度は、壺の中を、
食い入るように覗き込んでいた。
「もういっかい!」
「持って帰って、
みんなで食べようね」
「……うん、がまんする」
そう言いながらも。
イミコは何度も壺を振りかえり、
しぶしぶ、そこから離れた。
俺も。
指先に残った蜜を、
少しだけ舐めてみる。
「うまっ」
たしかに甘い。
けれど、これは、
ただ甘いだけじゃない。
濃い甘さの奥に、
山の花のような匂いが残っていた。
そして。
壺の中へ、
もう一度視線を落とす。
黄金色の蜜。
でも、目に留まったのは、
それだけじゃない。
蜜を包んでいる、淡い黄色の巣。
その端を、
指先でそっと押してみる。
石でも。
木でもない。
柔らかな感触に、
巣が、わずかにへこんだ。
そうだ――
「この蜜蝋、使えるぞ……」




