第百三十一話 市場の漆:小麦焼き
「麦を砕いた粉を、
練って、焼いてみたのですが……」
葉を開くと。
冷めたはずの焦げ臭さが、鼻へ戻ってきた。
朝の光を受けた青い葉の上に、
黒い麦の塊が、不格好に載っている。
――――――――――
「黒いですね……」
アサメとユラに、
炊事場まで足を運んでもらっていた。
「恥ずかしながら、
何か助言をいただければと……」
アサメは塊を傾け、
黒い底と、白く湿った内側を見比べる。
「これだけ厚ければ、
外が焦げても中まで火は届きません。
石も熱すぎたのでしょう」
一方、ユラは器に残った生地を摘まみ上げ、
切れずに伸びる様子を確かめていた。
「そもそも、この形にする必要があるのですか?」
「この形……?」
ユラは、生地を掌で平たく押し広げる。
「三輪では穀を練ったものを、
小さく平たくして焼くこともあります」
「なるほど……」
俺は、焦げた塊を見下ろした。
小麦を美味しくすることより、
記憶のなかのパンを再現することばかり、
考えていたかもしれない。
「薄くすれば、中まで火も通るでしょう」
「やってみます」
俺は、残った生地を小さく分け、
薄く押し広げていく。
「それでは、私たちも手伝いましょう」
アサメと、ユラも、
それぞれ生地を取り分けていく。
アサメのものは、どこも同じ厚さ。
ユラのものは、
小さく手早く焼けそうな形。
俺の生地だけは、
まだ、中央に少し厚みが残っていた。
「わたしも、する」
イミコは、二人の手を見比べながら、
自分の生地を何度も押し広げた。
細長い生地の中央に、
小さな指跡が残っていく。
――――――――――
アサメは、薪を脇へ寄せ、
赤い熾火をならしていった。
掌で熱を確かめ、
炉の端へ、平たい土器片を置く。
「炎の上ではなく、こちらで焼きましょう」
昨日の俺なら、
火が弱すぎると思った場所だった。
温めた土器へ生地を載せると、
じゅっと水分が鳴り、麦の香りが広がる。
すん、すん。
イミコは焦げ臭さを確かめるように、
小さく鼻を動かしていた。
生地の縁が乾くと、アサメが頷いた。
「この小麦焼きは、もう返してよいでしょう」
小麦焼き――
アサメが、そんな名を口にした。
ユラが、小麦焼きを裏返す。
掌ほどに広がった生地の表面は、淡い褐色。
粗い皮が、茶色い斑点のように浮かび、
ところどころで小さく膨らんでいる。
縁は薄く乾き、
中央には、わずかな厚みが残っている。
「わあ、こむぎやき、やけてる……」
今度は、麦の香りが苦い煙へ変わらない。
「どうでしょう、イミコ様」
少し冷ましてから、
ユラが、小麦焼きを渡してきた。
「おいしそう」
イミコが小麦焼きを割ると、
縁は硬いものの、中まで火が通っていた。
そして。
イミコが端を小さくかじると、
かりっと乾いた音がする。
「……かたい」
「うーん、やっぱり硬くなるか……」
どうしても、パンの柔らかさに届かない。
「でも、こむぎやき……おいしい……」
イミコは、もうひと口かじると、
満面の笑みを浮かべた。
「確かに、これなら食べられます。
ただ、そのままでは少し口が乾きますね」
アサメも小麦焼きを一口噛み、
断面の様子を確かめる。
「硬いのであれば、
汁物で柔らかくしてはどうでしょう」
ユラは小麦焼きを、
朝餉に残った山菜と、肉の汁へ浸した。
温かな汁が、じわりと染み込み。
硬かった縁が、
柔らかく曲がっていく。
「わ、やわらかい」
イミコは一口食べると、目を丸くした。
「どうでしょう、イミコ様」
「あったかくて、すごくおいしい」
俺も小麦焼きを汁へ浸し、ひと口食べてみる。
粗い皮は歯へ当たるが、
香ばしい麦へ、肉と山菜の味が染みていた。
「確かに、これは美味しいですね」
――――――――――
「何を焼いているのです?」
外で土器を洗っていた女たちが、
麦の香りに誘われて覗き込んできた。
「小麦の粉で作った、小麦焼きです」
「へえ……この小麦焼き、
砕いた木の実を混ぜても美味しそうですね」
別の女は、小麦焼きを細かく割り始める。
「初めから、これくらいにちぎって、
汁へ入れてもよさそうね」
「うまそう……」
後ろからコイシが覗いていた。
「はい、はんぶんこ」
イミコは自分の小麦焼きを半分に割った。
片方を汁へ浸し、両手で差し出す。
「あ、ありがとう……巫女様……」
コイシは温かな小麦焼きを受け取り、
恐る恐る、口へ運んだ。
「うまい……」
――――――――――
それからもしばらく。
アサメが、生地を焼き。
ユラが、汁へ浸し。
イミコが、皆に手渡していった。
初めに用意してあった生地は、
わずかだった。
それでも。
新しい食べ物を囲む皆の顔には、
次々と、笑みが生まれていた。
そこにあるものは、
もう、俺の知るパンではない。
俺の知識と、
この時代を生きる者たちの知恵。
その二つが混ざり合い。
名張の新しい食べ物――
小麦焼きが、
ここに生まれたのだ。
作中に登場した「小麦焼き」は、本作内のオリジナル料理です。
似たような薄焼きの料理は世界各地にあると思いますが、
イメージとしては「南部煎餅」の前段階のようなものを想定して頂ければと思います。
木の実や、塩、肉や山菜の汁など、いろいろなものと合わせて食べてみたいですね。




