第百三十話 粉をまとめる
麦を分けた翌日の朝。
俺と、イミコは、炊事場を訪れた。
炉には、朝餉の火が、
ほんのりと赤く残っている。
あたりには、灰と煙に、煮炊きへ使った土器の、
湿った匂いが混じっていた。
「ん、っと……」
イミコが、背負ってきた籠を地面に置く。
籠には、昨日分けた小麦から、
穂を外しておいた粒が入っている。
「これを使わせてもらおう」
炉のそばに置かれた石皿の前へ座り、
俺は、磨石を手に取った。
「ここへ、粒を置いて」
小麦の粒を一握り、石皿へ置く。
そこへ、ゆっくりと磨石を押しつける。
「こうっ」
すると、磨石の下から小さな粒が弾け飛ぶ。
「あっ、にげちゃった」
弾けた粒は、足元の藁屑へ紛れて見えなくなった。
「粒が逃げないように、
少しずつやらないと駄目みたいだな」
「わたしも、する」
入れ替わり、イミコが磨石を握る。
その手を動かそうとするが、
ずるりと重い石だけが麦の上を滑っていった。
「上から押しながら、ゆっくりね」
俺は、後ろから、小さな手へ自分の手を重ねる。
「うん」
そして、もう一度。
ごり――
今度は、石の下で、確かに粒が割れた。
「上手だよ、イミコ」
「うんっ」
イミコは、嬉しそうに頬を上気させる。
それから、二人で磨石を動かし続ける。
ごり、ごりごり――
小麦を粉へする作業は、
掌が赤くなるほどに重かった。
「顔、粉だらけだよ」
イミコの頬には、淡い粉が付いている。
「にぃにも」
鼻先を擦られ、互いの顔を見て笑い合った。
――――――――――
そうして、石皿に残ったのは。
茶色い皮の欠片と、粗い粒に、
わずかな淡い粉が混じったものだった。
「これが、こな?」
「うん、ただ……、
俺の知っている小麦粉とは、だいぶ違うかな」
手持ちの籠でふるっても、
籠の目は、粉を選るには粗すぎた。
細かな皮まで、粉と一緒に落ちてしまう。
粒を砕くことと、
細かな粉を作ることは別だった。
それでも、今は、
この粗い粉で試すしかない。
「……まあ、水と混ぜてみよう」
小麦の粉が入った器に水を入れていくと、
湿った粉が、指にべったりと絡みつく。
「にぃにの手、むぎに、たべられてる」
「俺たちが、食べてやるつもりなんだけどな。
ちょっと粉を足してくれる?」
「んっ」
イミコが器に粉を振りかけてくれる。
それを押し込み、器の水となじませていく。
押し、畳み、何度も練っていく。
「大麦でも試してみるか……」
同じように砕いた大麦にも、
水を加え、何度か押し固めてみる。
――――――――――
そうして、二つの器が並んだ。
「どっちも、おんなじ?」
イミコは首を傾げる。
見た目だけなら、
二つは、ほとんど同じだった。
「でも、見てごらん」
大麦の粉も、
握れば、一つにはまとまった。
だが、端を摘まみ上げると。
ぼろりと裂け、指の間から落ちていく。
「こっちの、こむぎのほう、くっついてる」
小麦は違った。
イミコが摘まみ上げた生地は、
大麦とは違い、裂けずに指へ張り付いてくる。
「これが小麦の力……」
指で押すと、
わずかに押し返す弾力が掌へ伝わる。
パン――
その柔らかな食感が、
この掌へ、戻ってきたようだった。
――――――――――
「あとは、この生地を焼けばできるはず」
小麦の粉を練った生地を、
俺は、熱した平石の上に置く。
じゅっと水分が弾け、麦の香りが広がった。
「いいにおい」
生地の表面が乾き、
縁が、わずかに持ち上がる。
だが、その時。
香ばしさの中へ、
にがみのある焦げ臭さが混ざる。
「うっ」
俺が、慌てて生地を持ち上げると、
底が真っ黒――
「もうたべれるの?」
「ま、まだだよ……反対側も焼かなきゃ……」
あわてて裏返す。
今度は、石から離して反対側へ火を通した。
「そろそろかな……」
生地を、少し冷ましてから両手で割る。
外は石のように硬い。
内側は白く湿り、生のままの生地が、
ぬるりと指にまとわりついた。
完全な、失敗作である。
――――――――――
炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
さっきまでの香ばしい麦の焼ける匂いは、
もう、苦い煙に変わっていた。
「にぃに……」
イミコは焦げていない縁へ手を伸ばし、
一度だけ、俺の顔を見る。
「ほんの少しだけだよ……」
俺が許可を出した瞬間、
イミコは、それを小さくかじった。
「……にがっ」
「これ、まだおいしくなりそう?」
イミコは、俺の顔を覗き込んできた。
「なんとかできるとは思うんだけど……」
厚さか、石の熱か、火の当て方か……。
いくつかの原因は思いついても、
その直し方が分からない。
「アサメさんに、きいてみる?」
「アサメさん……?」
「みんなで、かんがえたら、なにかわかるかも」
確かに、そうかもしれない。
* * *
この名張に、パンを知る者は、俺しかいない。
だから、その作り方も、
一人で考えなければならないと思い込んでいた。
けれど、これは料理だ――
毎日、火を扱うアサメや、
三輪で多くの穀を見てきたユラなら。
パンを知らなくても、俺にはない知恵を持っている。
* * *
「そうだね、相談してみようか」
俺は、焦げた麦の塊を、葉で包む。
知っている者と。
知らないからこそ、
違う形を思い描ける者。
その知恵が混ざり合えば。
俺の知るパンとは違う、
まだ、誰も知らない食べ物が。
この焦げた塊の先から、
生まれてくるのかもしれない――




