第百二十九話 ふたつの麦
市庭の騒ぎから数日後。
名張には、いつもの静けさが戻っていた。
倉の中には、乾いた麦の匂いが籠もっていた。
足元の藁を踏むたび、
かさりと音が鳴る。
壁の隙間から差す光の中を、
こまかな麦埃が漂っていた。
「……くしゅん」
イミコが、小さなくしゃみをした。
「ちょっと埃っぽいな」
鼻の頭に付いた、麦の屑を取ってやる。
「えへへ」
照れたように鼻を擦っていた。
――――――――――
「よいしょ……」
アサメが、両腕いっぱいの麦束を抱えて入ってきた。
髪や肩には、細かな藁屑が付いており、
アサメは、束を下ろしてから大きく息を吐いた。
「こちらも、同じ籠へ入れてください」
「これも?」
大籠には、明らかに姿の違う穂が混ざっていた。
一方は、針のような長い芒を伸ばし。
もう一方は、芒が短く、穂も少しふっくらしている。
「はい、どれも麦ですから」
「形が違っても分けないのですか?」
アサメは、二つの穂を見比べ、
そのまま同じ籠へ重ねた。
「長いものも、短いものもあります。
……けれど、煮ればどちらも麦でしょう?」
「麦を、煮る以外の食べ方はしないのですか?」
「麦は殻が硬くて、口にも残りますからねぇ……。
粟や、豆と一緒に煮ますね」
これまでにも、その雑穀粥は何度も食べてきた。
米の乏しい時期には、名張でも馴染みのある食べ方だった。
「分けても同じ甕へ入れるのなら、
はじめから一緒で、よいではありませんか」
アサメは残りの麦を取りに、倉を出ていった。
なるほど――
最終的な使いみちに違いがなければ、
確かにそうなるか。
――――――――――
「にぃに」
イミコは、大籠から、
二本の穂を取り出して膝の上に並べた。
「これと、これ。なんかちがう?」
「どこが違うと思う?」
「こっちは、おひげがながい」
芒へ触れた指を、すぐに引っ込めた。
「……ちくちくする」
「気をつけてね」
「うん。こっちは、みじかくて……まるいね」
「そう、よく見てるね」
俺も、二本の穂を受け取って見比べる。
芒だけではなく、
粒の並びや丸み、殻の付き方も違っていた。
大麦と、小麦――
現代なら別々に扱われる二つが、
ここでは、同じ麦だった。
俺は、空の籠を並べる。
「この籠に、違う穂を分けてみようか」
「なんで?」
「なにか違う食べ方が、
もしかしたら、できるかもしれないからね」
「でも、どっちも、むぎなんでしょ?
いっしょに、ぐつぐつするんでしょ?」
「今まではね」
そして、俺達は麦の分別をはじめた。
* * *
誰に頼まれたわけでもない。
そこに意味があるのかもわからない。
だが、分けられるものは、適切に仕分ける。
それが、これまで俺達のやってきたことだから。
* * *
「これは、ひげのながいほう」
かさりと、右の籠へ。
「こっちは、まるいほう」
今度は左の籠へ。
二つの籠に、黄金色の穂が積もっていく。
「これは……わからないほう」
イミコは、三つ目の籠へそっと置いた。
「いいね、その調子」
「うん、これたのしい……」
そう言うと、イミコは、
次々に穂を振り分けていく。
「イミコ、ちょっと早くない?」
「わたし、じょうず?」
「うん。悔しいくらい上手だよ」
隣で分けている穂を見ていたが、
目立って間違いはなかったように思える。
「えへへ」
イミコは、小さな胸を張って笑った。
――――――――――
それから、あっという間に、
それぞれの籠へ多くの穂が積み重なった。
「それじゃ、こっちを、大麦と呼ぼう」
「おおきな麦っ」
「それで、こっちを小麦」
「ちいさな麦……これ、だめな子?」
「名前に大きい、小さいと付くだけだよ。
どちらも大事な麦だからね」
「そうなんだ、よかった……」
そうして、次の穂へ、
手を伸ばしたイミコの足元で。
ぱきり。
こぼれていた麦の粒が割れた。
「あ……こわれちゃった」
割れた殻から、白っぽい粉がこぼれていた。
倉へ差し込む光を受けて、
黄金色の藁の上へ、小さく浮かんでいる。
「大丈夫だよ」
俺が、その粉を指先で擦ると、
粗い粒の中に、さらりとした感触があった。
麦そのものが、砕けて生まれた粉だ。
粒のままでは硬くて食べづらい。
ならば、砕いて、擦って。
その形を、なくしてしまえばいい。
つまりは小麦粉だ――
穀を粗く砕くこと自体は、
この時代でも、やることはあるらしい。
だが、少なくとも名張には。
小麦だけを細かな粉へ擦り潰し、
水を加えて、別の形へ変える発想はなかった。
そこから、名張には、まだない食べ物が生まれる。
指先の粉から、水を含んだ生地と、
焼けた麦の香りの記憶が脳裏をよぎった。
「にぃに?」
イミコは、粉よりも、
それを見つめる俺の顔を覗き込んでいた。
「その、こむぎ。おいしいの?」
「今のままだと、ちょっと硬いかな」
「じゃあ、おいしくない?」
「これから美味しくするんだよ」
「どうやって?」
「粉にして、こねて、焼くんだ」
けれど、ここにあるのは石皿と磨石くらい。
パンを焼く窯も、
粗い殻を、粉から取り除く道具もない。
「……まあ、できるかわからないね」
俺は、小さく苦笑する。
それでも、この小麦の粒には、
まだ、誰も知らない可能性が秘められている。
それだけは間違いない。
イミコは、小麦の穂を両手で包み、
折らないよう、そっと左の籠へ置いた。
「じゃあ、こっちの小麦は、
これから、おいしくなる、麦なんだね」
倉の隙間から差す光が、
並んだ二つの籠を照らしていた。
昨日まで、同じ籠へ入れられていた麦が。
今は、それぞれ違う名と、
違う未来を与えられている。
それは。
まだ、誰も知らない食卓へと続く、
最初の分かれ道かもしれない。




