第百十九話 三輪の肆:倭を統べるもの
まずい――
正堂の空気が、あきらかに変わった。
問題は「隠」の旗の文字か。
三野に与えた「三」や、波多の「波」の、
どちらかに触れてはいけない禁忌でもあったのか。
いや、落ち着け。
本当に致命的な失態なら、
市庭への支援が、先に約束されるはずがない。
まだ、大丈夫なはず――
――――――――――
「名張の扱う、字についてだが……」
三輪君の低い声が、正堂へ響いた。
「あれは、まことに大陸の字なのだな」
その視線が、横に並ぶ者たちへ向けられる。
「間違いございませぬ、
海を渡ってきた者へ確かめました」
阿倍臣が頭を下げた。
「形に多少の違いはあれど、
……それは確かに、字であるとのこと」
「さようか」
三輪君の視線が、俺に戻る。
「名張の童よ。その字を、どこで学んだ」
「それは……」
汗が、頬を伝う。
* * *
未来の知識。
などと言えるはずもない。
大陸の者に教わったと偽れば、
さらに、細かいことを問い詰められるだろう。
この場、どう切り抜ければ――
* * *
「天が、おしえてくれたんだよ」
隣から、イミコの声がした。
「にぃに、そういってた」
「天、か……まあ、それでもよかろう」
納得した顔ではない。
こちらが言いづらいことを、
三輪君は、それとなく察しているのだろう。
そのうえで話を進める。
つまり、問題は、別のところにあると。
「問題は、三野や、波多へ、
おぬしが勝手に字を与えたことにある」
あ、そこか――
「環濠や、荷を見分けるための目印で、
あれはそんな大層なものでは……」
「……安心せい。
おぬしを、取って食おうという話ではないわ」
三輪君は、わずかに口元を緩める。
すると、まわりの者たちの姿勢も緩み、
正堂の緊張がわずかに和らいだ。
――――――――――
「問題は二つ」
三輪君は指先を二つ立てた。
年輪のように皺が刻まれながらも、
太く、力を感じさせる、そんな指だった。
「一つは、倭の内における影響じゃ……」
「あ……」
「旗へ記し、荷へ付け、道へ置けば、
やがて、その字は土地を示すことになろう」
確かに。
道を迷わないよう、
ただ、目印を与えるだけのつもりが。
「それは同時に、字を定める者に、
人と土地の形を定める権威が生まれる……」
三野之鳴鳥に「波多」の字を授けたとき、
まさに彼は、泣いて喜んでいた。
あの時、俺は、名を授ける者となっていた。
「そこまでは、考えが及ばず……」
頭を下げようとした時。
「よい」
「えっ」
「そこまでならば、まだ……、
名張の奇妙な業として目もつむれよう」
「問題は、二つ目のほうにあるのだ」
三輪君の声が低くなった。
――――――――――
「我らの扱う品に刻まれた字は、
海の向こうの大国、漢に刻まれたものだ」
「漢……」
殷、周、秦に続く――
海の向こう、大陸にある大国。
その大陸のほうでは、
すでに字を使った文章が用いられているだろう。
だが、少なくとも、この三輪のあたりでは。
字を知る者は、ひどく限られており、
一字の「印」として用いるのが精々なのだろう。
「そんな中、倭の者が勝手に字を授け始めれば、
漢の認めぬ秩序を、倭の内に立てたと見られかねん」
三輪君の細い目が、俺を射抜く。
「おぬしに、そのつもりが、なくともな……」
なるほど。
漢が、関わってくるのか――
ならば、三輪君が、
ここまで慎重になるのも頷ける。
「その顔、漢を知っておるな……」
「行商の噂で、その名を耳に、
海のむこうにある大国だという程度には」
「ふむ……もっとも、その漢も……」
三輪君は、ゆっくりと頬杖を突き。
「大きな賊徒が起こり、
近年では、国中が乱れておると聞くがのう……」
大きなため溜息をこぼした。
漢の、末期における大乱――
* * *
黄巾の乱。
それは確か、西暦一八四年――
ならば、今は。
その大乱が始まった直後となるのか。
ここにきて、ようやく、
俺の居る時代が具体的になった。
これは、大きい。
* * *
「して、おぬしの「字」を、
どのように扱うかについてじゃが……」
「このたびの不手際に関して」
俺は、慎重に、三輪君の言葉を遮った。
「ひとつ、確認したいことがございます」
「申してみよ」
* * *
時は、弥生時代末期。
少なくとも、西暦一八四年より後。
畿内の権力者たちが一堂に会する中、
ひとつの違和感がある。
それは、この倭における、
最大権力の存在。
* * *
「現在の、倭の……」
一度、息を整える。
「天皇について、お伺いしたく存じます」
「てん……のう……?」
三輪君だけではない。
阿倍臣も、左右の者たちも、
まわりの誰もが怪訝な表情を浮かべていた。
「倭にいる、すべての君や、臣の上に立ち、
この国々を束ねる……大王のことにございます……」
三輪君は、阿倍臣へ目を向けた。
阿倍臣も、
静かに首を横へ振る。
「かつての倭国王と呼ばれる伝承のような、
そういった存在の話かのう……」
三輪君が、ゆっくりと口をひらいた。
「今の倭に、すべてを統べる王など、おらぬ」
天皇が、いない――
いや。
この倭には。
国々を束ねる、王、そのものが、
まだ存在していないのだ。
弥生時代の末期。
それは、まさに「武」の横行する群雄割拠。
俺が想像していたよりも、
遙かに激しい動乱の時代のようだ。
ということで、主人公のなかで年代が確定しました。
また、大陸のほうで「漢」は「黄巾の乱」の真最中。
皆大好き「三国志」の物語が、海のむこうで動いているわけですね。
さらに広がった「卑弥呼転生」の世界、引き続き、お見守りください。




