第百五話 榛原の壱:加茂臣古道
「まるで別の世界だ……」
榛原は、山に呑まれていた。
俺は、切り立った崖の縁に立ち、
そこから見える絶景に心が奪われる。
青空の下、緑の尾根が幾重にも重なり。
近い山は濃く、遠い山は霞み、
その境は空に溶けていた。
谷の底では水が陽を弾き、
白い光だけが、遠くに煌めいている。
――――――――――
「……にぃに、からす、いっぱい」
イミコが、空を見上げた。
カア、と一声、崖の向こうから、
力ある声が山を渡る。
遅れて、遠く、別の方角から、
応えるようにもう一声。
俺も、空を仰いだ。
青の中を、黒い影が横切っていく。
大きな翼が風に乗り、
尾根の向こうへ消えていった。
声が山に溶け、しんとなる。
そして、また風が来て、葉がざわめいた。
* * *
以前、名張から三輪へ向かった時、
俺たちは宇田川のほとりで野営をした。
あの場所から西へ進めば、三輪へ至る。
そして、南の山道へ入れば、
この榛原の加茂の地へ向かうことになるようだ。
道をひとつ違えるだけで、
そこに見える景色が、まるで違っていた。
* * *
「このような山道で、申し訳ありません」
三輪之真人が、少し申し訳なさそうに言う。
「私たちのほうからも、
近いうち、三輪に伺うつもりでしたから」
今回、俺たちは三輪へ向かう途中の宿に、
マヒトの案内で、加茂の環濠へ寄るという形となる。
元々、マヒトは、
名張の市庭に品を届けること。
そのまま、俺たちを、三輪へ連れてくること。
その二つを、三輪君に命じられたらしい。
ただ、今回は、急ぎの呼び出しではないようだ。
だからこそ、道中で榛原の加茂に立ち寄る余裕があった。
「手厚い用意もされてますので、お気になさらず」
三輪側の用意は驚くほど手厚かった。
俺と、イミコのためには、
山道用の「背負い」が何人も用意されていた。
足を取られれば、すぐに大人が、
俺達を背負えるように控えているのだ。
「ふむ、いい獲物が獲れそうだ……いい山だな……」
名張からは那婆理之稲置武。
那婆理の民が二人が、
護衛と、付き添いとしている。
名張の童に、火に巫女として、
俺達は三輪からの手厚い案内を受けていた。
――――――――――
「ここが、加茂の環濠です」
マヒトが静かに言った。
その声には、誇りと、
わずかな痛みが混じっていた。
「ここが……」
山裾に作られた環濠は、小さかった。
木柵は古く、ところどころ傾いている。
土塁も名張ほど高くはない。
谷の斜面に細く畑が拓かれているが、
広い田畑とは呼べない。
倉も小さく、人々の衣も地味だった。
だが、貧しさだけではなかった。
環濠の奥には古い祭場らしき場所がある。
石が丁寧に並べられ、
その周りだけ草が払われていた。
暮らしは細い。
けれど、ここで、
彼らは何かを守り続けている。
そんなことを感じさせる土地だった。
「美しい場所ですね」
俺がそう言うと、
マヒトは、少し驚いたように瞬きをした。
「……笑われるかと思っておりました」
マヒトは視線だけを環濠へ戻す。
その横顔は、三輪之真人としての、
落ち着きではない。
榛原という実家に戻ってきた、
ただ一人の若者の姿である。
――――――――――
「マヒトか」
環濠の内側から老人の声がした。
木柵の向こうから、
ひとりの老人が歩いてきた。
痩せた身体に、古びた衣。
しかし、その背は曲がっていない。
「父上」
その声を聞いた瞬間、
マヒトの背筋がわずかに伸びていた。
「ふむ、お客さんかのう」
その老人が、マヒトの後ろに視線を向ける。
「私は、加茂臣古道と申す、
この榛原の加茂を預かる者だ」
老人は立ち上がり、そう名乗った。
加茂臣古道――
貧しき山の環濠を守る老人。
その背後で、黒い鳥が一羽、
バサバサッと木々の上を横切った。
まるで、俺たちを、
この古い道の先へと案内するように。




