第九十九話 名張に集う三つの印
やわらかな春の陽が、
山あいの土を、優しく照らす。
あちこちの地面からは、
草の新芽が、その顔を覗かせていた。
若草の香りに花をくすぐられる。
「……にぃに、ここ、みち?」
イミコの視線は、
足元の地に向けられていた。
山あいを抜ける細い道筋。
人が行きかうたび、
何度も踏まれた草は剥げあがり。
その、ところどころでは土が見えていた。
「道に、なりかけだね」
だが、まだ道と呼ぶには頼りない。
「これを、みんなで道にしていくんだ」
「みんなで……」
イミコは、その言葉を、
気に入ったように小さく頷いた。
ここは、名張の環濠を出てすぐの平野。
俺の背後には、
木柵と、土塁に囲まれた名張の集落。
俺の前には、
三野へと続く道筋が伸びていた。
――――――――――
「力仕事なら任せておけ」
イワホコと、屈強な若衆たちが、
ずらりと立ち並んでいた。
そして、この場に集まっているのは、
名張の者だけではない。
「名張の道の作りかた、
波多に、持ち帰らせてもらいますぞ」
波多からは、ナトリとコダカ。
それに数人の男衆。
「環濠と、環濠を道で繋ぐか……面白い……」
三野からは、クロイとイワネ。
そして本環濠の者たち。
そんな、三野の大乱で対立した、
各環濠の者たちが一堂に会していた。
以前の評定で、環濠を率いる者たち同士は、
それなりに打ち解けている。
だが、村の一人一人となれば、
話は別である。
それぞれの環濠の男衆。
ひとつひとつの視線には、
薄っすらとした壁を感じられた。
「さて、それでは、
皆で協力していきましょう」
そんな大勢の前で、俺は声をあげる。
今日は、戦うためではない。
手を取り合うために集まってもらったのだ。
――――――――――
「今日の道作りは、
こういうものを予定しています」
俺は、そこで、
事前に用意した道を示した。
雑草を取り除き、両端に石を並べてある。
ただそれだけの簡易的なもの。
それを数十歩分の距離だけ作ってある。
「もっと木を倒して、
土を掘るものかと思ったが……」
イワホコが腕を組む。
拍子抜けと言った感じなのだろう。
「大事なのは、誰が通っても
迷わぬようにすることですから」
「ふむ……」
「そして、整えた道には、
それぞれの印を置いていきます」
俺は懐から、三つの石を取り出した。
それぞれに『隠』『三』『波』と刻んである。
「これまた、面妖な……」
クロイが目を細めた。
「この『隠』は名張の旗の印。
三野は『三』、波多は『波』を表します」
「……ぬ、我らの印を、勝手に決めるつもりか」
クロイの表情がわずかに曇った。
名を刻むことは土地を定める行いでもある。
それは、当然の反応だろう。
「道を案内するための仮の印です、
三野で別の印を望むなら、そちらに合わせます」
道案内の印であれば、形はあとで改めてもよい。
「ふむ……まあ、そういうことなら」
――――――――――
「これは、海の向こうで『文字』と呼ばれる、
言葉を形に残すためのものなのです」
「文字だと、それは誠か……これが……」
先ほどの不満げな反応から一転し、
クロイの目が鋭くなる。
この時代、海の向こうの権威は、
それだけ重いものなのだ。
「三輪連由良様も、イミナ殿の文字を、
本物だと認めておられました」
コダカが静かに添えた。
「海の向こうの知にも、
名張の童は通じておるのか……」
クロイの口からは、
そんな畏敬の言葉がこぼした。
「これが、波多の字……」
ナトリは『波』と刻まれた石を受け取ると、
ただ、じっと見つめていた。
「我らの名が、石に残る……」
その声は震えていた。
この場で、誰よりも感情を震わせていたのは。
ナトリだった。
* * *
長く、波多は、
三野の影に置かれてきた。
一歩違えば、今頃、
根を絶やしていたかもしれない。
その名が、今、
名張や、三野と並んで石に刻まれている。
* * *
それだけのことが、
波多にとって大きなことなのだろう。
この場にいる者たちは、
それぞれの想いを胸に秘めながら。
そんな、ナトリの姿を見守った。




