第九十七話 いつもの名張の風景
名張の森は、
まだ、少し冷たかった。
俺は、小さな籠を背負い、
村から離れた森の縁を歩いていた。
薪になりそうな枝を拾いながら、
足元を見ると、青い芽を見つける。
ノビルだった。
「また、出てきたな」
自然と、そんな言葉がこぼれた。
この細い青が、
かつて、俺たちの命を繋げてくれた。
少しだけ摘んで、小さく束ねて、
それを背中の籠へ収める。
それだけのことが、妙にありがたかった。
――――――――――
森を抜けると、
巫女の沢の音が聞こえてきた。
冬の冷たさを残した水が澄んでいる。
石の間を、白く光りながら、
絶え間なく流れていた。
沢沿いに歩いていると、
大きな、巫女の石が見えてくる。
あまりにも大きな石。
それが、ここにあることが、
今ではもう当たり前になっていた。
「あら、イミナ様、また森歩きですか」
沢の下手では、
女衆たちが洗濯をしている。
衣を水に浸し、石の上で軽く叩き、
汚れた水を下の流れへ逃がしていた。
「薪と、薬草を少しだけ」
「無理をなさらぬように」
それだけ声を交わしてから、
沢沿いを、ゆっくりと下っていく。
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名張の山からは、
笛の音が聞こえてきた。
ぴゅう、と細く。
少し遅れて、もう一度。
「獲物を見つけたか」
那婆理の民が山に入っている。
いつも聞いていると、
その音がなにを示すか、自然と分かってくる。
「肉に合う香味でも、
もう少し、摘んでいくかな」
遠く離れた山の中であっても。
あの音が聞こえるだけで、
そこも、名張の一部のように感じられた。
――――――――――
「あ、にぃに」
道の先で、イミコの声がした。
ユラに手を引かれていた、イミコ。
俺を見つけるなり、ぱっと表情を明るくする。
ユラから手を離して、こちらへ駆けてきた。
「イミコ、走ると転ぶぞ」
「だいじょうぶー……」
そう言いながら、
俺の、腰のあたりにしがみついた。
全然、大丈夫ではなさそうだ。
「すみません、途中までは、
一緒に歩いてくれていたのですが」
ユラが、遅れて歩いてきた。
「いえ、助かります」
イミコの頭に手を置く。
まだ、誰とでも過ごせるわけではない。
村の者に囲まれれば、
すぐに俺の後ろへ隠れてしまう。
けれど、最近は、ユラとなら、
一緒に歩けるようになってきた。
「にぃに、これ、なに?」
「薪と薬草と、少しだけノビル」
「のびる?」
「前に、イミコと食べたやつだよ」
「……おいしい?」
「イミコが、美味しいって言ってたよ」
「そうなんだ、楽しみ」
イミコは笑顔を浮かべた。
「やはり、イミナさまが一番ですね」
ユラが、くすりと笑う。
「……ん、にぃに、いちばん」
そんな話をしながら、
三人で、村に向かって歩いた。
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環濠が見えてくる頃。
アサメや、若衆たちが、
冬を越えた畑を整える姿が見えた。
「案山子も増えましたね」
隣で、ユラが呟いた。
春の風に、ゆらゆらと布が揺れていた。
「かかしさん、ばいばい」
イミコは、案山子を見上げて、
少しだけ手を振っていた。
そのまま、環濠の橋を抜けるとき、
ふと、俺は足を止めた。
「ずいぶんと臭いも薄くなったな……」
橋の下を流れる水が、
以前より、ずっと澄んでいる。
環濠の底の泥も、少なくなっていた。
「みんな、約束、守ってくれてるんだね」
イミコが、嬉しそうに微笑んだ。
この笑顔を見れば、
皆が約束を守ろうと思うのだろう。
それもまた、火の巫女の加護なのかもしれない。
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「お、イミナ、戻ったか」
名張の環濠に足を踏み入れると、
イワホコたち男衆が、屋根を直していた。
冬の間に傷んだ柱、崩れかけた土壁。
縄で締め、木で支え、土を塗り直している。
「大変そうですね」
「まあ、いつものことだな」
そう言って、木槌で柱の根元を叩く。
三野で、槍を持っていた手に、
今は木槌が握られていた。
それが、少しだけ嬉しかった。
中央広場では、
シラガが、村の者と話をしていた。
目が合うと、小さく頷いて、
すぐに向きなおる。
村の長の仕事は、
戦がなかろうと続くのだろう。
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俺は、名張の倉に足を踏み入れて、
背負う籠を下ろす。
薪は薪の場所へ。
薬草は、乾かすための場所へ。
ノビルは、食べられるものとして、
他の草と分けておく。
「いっぱいだね」
イミコが、籠の中を覗きこむ。
「倉を増やさなきゃいけないかもな」
山小屋のほうには「隠の倉」もある。
まだ、倉には余裕があるが、
今年は小麦にも大きく期待できるという。
そのうち、皆と話し合ってみるか。
そんなことを考えている時。
不意に。
「おかえり、にぃに」
イミコは貫頭衣の裾を引っ張り、
満面の笑顔を向けてきた。
「……ただいま、イミコ」
また、あれこれと、
考えこんでいたようだ。
そんな俺の意識を、
イミコは、取り戻してくれたのだろう。
「いつもありがとうな」
「ん、こちらこそ……」
そんな、何気ないやりとりに。
いつもの日常が戻ってきと感じる。
けれど、そんな日常も、
まったく同じものではない。
沢に、畑に、環濠に。
そこで暮らす人々の関係性も。
その姿を変えながら、
名張は、名張となっていくのだろう。
その頭上に「隠」の旗を揺らしながら。




