九拾【朝の掃除】
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「いらっしゃいませ瑠璃様、それに今日は寅治の親分さんとご一緒ですか?これは珍しい」
座敷に来たのは番頭の文吉だった。
文吉の父親で店の主は江戸の商いに行ってるので、文吉が大坂では実質の店主だ。
「寅治はんは、あのあたりの木戸番の親分さんやさかい」
「なるほどですな。で、詳しくはお話されてはるんで?」
「まさか現場では言えへんし」
「そうでしょうね」
二人の会話を黙って聞いてる寅治だが、さっぱりわかっていない。だが口を挟むと大事なことを聞き逃しそうだと、鬼瓦の顔をさらに固めていた。
「これが証文です」
「はいはい⋯少々お待ちくださいよ」
部屋の傍らにある文机に向かい、文吉はあっさりと二枚の証文に名前を入れて印を押していた。
「瑠璃さん、もしかしてあの蔵屋敷を見張りたいということなんやな」
「寅治はん、えびす屋の話は聞いてはるやろ?」
「阿芙蓉とか色々出てきたのは⋯⋯」
「あそこは北国の人の根城だったんよ、死んだおりょんさんは違うんやけどね。捕まった婿はんが」
「そういえば秋口藩も」
「せや、北の国やな」
「わかった」
文吉には聞こえても構わないのかと思いながら頷く。
「ささ、墨も乾きましたよ」
「おおきに」
「では、私も行きましょうかね」
「お願いします」
御用商人が雇い人の借家のために動くには腰が軽すぎる。その疑問を文吉は名代の前で潰した。
「おるりから店番を外されることが多いと聞いたが、そんな女中の借家の世話をするのはなぜだ?」
証文には長屋の家を借りるのは、和泉屋になっていて、住むのがおるりということになっていた。
「へえ、おるりは手先の器用な子で、簪を作らせたらちょっとしたものなんです。なにしろここ一年、看板女形の市山菫之丞の頭についてる簪の殆どはこの娘の手によるもので」
「ほう。やつの舞台なら我らも見に行ったことはある。せっかく大阪にいるからと話のネタにだが」
「それはそれは」
「ですが、この通り おるりは器量良しやから店先に出てもらうのもいいのですが、それやと簪を拵える暇がなくて、それはそれで困っとりますねん。
せやから、しばらくは引きこもって簪づくりに専念してもらおうかと」
「商売として職人を囲い込むということだな」
「へえ、その通りですねん」
「せやけど、座りっぱなしもあれやから、ときどき御屋敷の朝のお掃除ぐらいはさせてくださいね」
屋敷の出入りをさせてくれと念を押す瑠璃。
「あいわかった。証文もこれで、ではこちらが和泉屋の方の控えだ」
「わかりました。ではとりあえず半年分の家賃を先払いでこれで足りますかね」
小判一枚を出そうとする文吉に。
「いや、証文を読んだのだろう?小判一枚では一年分だ」
「これは正直な方やね。余りは懐に入れればよろしいのに」
「そうしたいところだが、なかなか厳しいのだ」
「ほな、礼金と合わせて取っといておくれやす」
小判は瑠璃が文吉に渡したものだ。
「うむ、そういうことなら」
「引っ越しはいつだ」
「明日にでも」
「うむ」
「では今日はこれで失礼します」
「ほな」
入札役所の外には寅治がいた。話も聞いていたようだ。
「ほな、木戸番で七兵衛はんを拾って帰りまひょ。
それとな、引っ越ししたら男が一人出入りすると思うんやけど、うちの叔父やから、気にせんとってな」
「叔父?」
「そう、その人もそういうお役目の人やねんけど、本当の叔父やから詮索無しで」
「なるほど、わかった」
◆◇◇◆
「おはようございます、おてるさん」
「おはよう、おるりちゃん。
じゃあ、お掃除お願いするわね」
「へえ、こんな広い御屋敷のお掃除おてるさん一人でされているのですか?」
「徒士だけでは手を抜くようで、雑なのよ。
といってもこの御屋敷は西の国と違って、御殿様が使うことはないから、大体でいいの。
でも、最近私がうつむくのが大変になってきちゃって」
「そりゃ、やや子がお腹にいたらそうなるんですやろ」
「そう、四人目になってもしんどさは同じよ⋯」
庭を突っ切って屋敷に入る。
「お掃除する所はこの屋敷の居間と、今は江戸に行ってて留守になってる役人の屋敷。つまり役所の居間だけで良いから」
「へえ、お役人様の名前はなんとおっしゃるんでしょう」
「上野澤様よ。上野澤次朗様」
「うえのさわ?」
大坂城代や町奉行の資料にもあった。
江戸の件で捕まった、だて屋の番頭のふりをしていたあの男も確か上野澤九朗と言う名前だった。次朗ということは九朗の兄だろうか。だは九朗は血判状に名前があったが、治郎は見なかった。だが他に兄弟がいるかもしれぬと奉行が言っていた。
「こっちが台所、台所の中に内井戸があるわ
そしてここから入ると風呂があるから、この井戸から水を入れるのが楽なの。」
「へえ、助かりますね」
「そして、お掃除するのはこっち⋯」
土間の先に舟入の水面がきらめいて見えている。
「ここから入ったこの先お座敷があるから」
「ここをお掃除するのですね」
「そうよ」
そこへ、まだ朝だというのにくたびれた男がひとりやってきた。
老人に近いと言ってよいだろうか。腰が曲がって、どうやら片足を少し引きずっている。
月代やヒゲがボソボソと伸び、継ぎのある着物を着て腰帯に薄汚れた手ぬぐいがぶら下がっている。
「おはようさん、おてる、えらいめんこい女子ば連れでらのだな」
「おや、弥次郎さん、おはようございます。
紹介するわね、この子はおるりちゃん。そこの長屋に引っ越してきて、朝の掃除だけしてくれるのよ」
「おるりです。よろしゅうお願いします」
「弥次郎だ、この屋敷の下男をしているよ。とはいえ足腰が悪いから、使いっ走りはしてないけんど」
「それは大変ですねぇ」
「まあ、ここの殿様に立派な屋根の下に住まわせてもらっているから、なんてことはないさ。
おいらは憚りとゴミ集めと厩の世話が主な仕事だ。
風呂が必要なときは火の番もするからね」
「そうそう!わすれてた。
内風呂使っていいのよ?」
「そうなんですか?」
「この御屋敷は誰も住まないのに、お風呂があってもったいないでしょ。だから」
「他の人は?」
「男衆は皆銭湯に行くほうが良いんですって」
「まあな、この近くにある銭湯の湯女は器量が良ぐてな」
「まあ、弥次郎さんたら。そんな事おるりに言わないでよ」
「そうやったな。すまんすまん。
おるりは良い人いるのか?
いねなら、ここには若い衆もいっぱいおるよ」
「⋯⋯いちおう許嫁はおりますねん」
「まあ、そうなの?
そりゃあこんなに別嬪さんなら当然よね。で、祝言はいつすることになってるの?」
「それはまだ決まっとりゃせんのです」
「大丈夫が?嫁入り前の娘がこんな男所帯の屋敷の掃除に出入りするなんて」
「心配してくださっておおきに。朝の掃除だけやから大丈夫や思いますけど、気いつけます」
弥次郎はすこし北の訛りがありそうだ。
おてるも上方言葉ではない。
「ほな、お掃除始めるさかい、おてるさんは休んでくださってよいですよ」
「そう?⋯じゃあ頼むわね。
私は入札役所にいるから、わからない事があったら聞きに来て。
それじゃあ、るりさんあとはおねがいね」
「へえ」
「じゃあおいらは憚りの掃除をしてくるよ」
掃除用の道具は台所の土間の下の方に並べてあった。
雨戸を開いて周り、はたきで障子のホコリを落としてから、穂先が柔らかく細かい箒で畳の目に沿って掃き集まった塵を広縁に掃き出し、広縁も掃いていく。
床の間の続きにある押し入れを開けると、そこには座布団しか入っていなかった。
そのまま、天袋や床脇、書院の小さなふすまを開けて中を見ていくが⋯。
まあ、なにもないわな。
「何をやっているのだ?」
声をかけてきたのは、安仁村だった。
「へえ、敷居には埃が溜まりやすいさかい」
何食わぬ顔で絞ってあった雑巾をすべらせる。
「うむ、ご苦労。だが掃除してくれるのは、この続きの座敷だけで良いからな」
「奥の部屋などは?」
「誰も住まぬからな、年末に儂らが里に帰ったときにでも掃除をしてくれればそれで良い」
「かしこまりました」
「さあ、初日から張り切っても仕方がないぞ、適当に切り上げてお前さんの仕事をしなさい」
「へえ。おおきに」
「雨戸は開けたままで良い」
「分かりました」
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