10
日差しが女神のように、王都の屋根をひとつずつ丁寧に撫でている。
家にこもっているのがもったいないほどの晴天だ。
朝の鍛錬を終えたヒルデは、今日は市場に買い物にやってきていた。
パン屋に向かって賑わいの中を歩いていると。
「……あれ、ヒルデ?」
呼ばれて、ヒルデは足を止めた。
振り返ると、見覚えのある女性がこちらへやってくる。
彼女は両手に画材をいっぱい抱え、人混みの中でも目立つ個性的な衣服を身につけていた。
「エルネ殿!」
名前を呼ぶと、エルネは嬉しそうに笑った。
「普段は客なんか見かけても絶対声かけないけどね、アンタはなんか、つい呼んじゃった」
「そうかそうか。元気だったか?」
「元気だよ。でも目がチカチカする」
「大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。眩しいけど春は好きなんだ。あったかいからね」
爬虫人族は夜行性が多く、光に敏感な者が多い。きっとエルネもそうなのだろう。彼女は化粧をバッチリ施したその目をシパシパとさせていた。
エルネの姿絵のおかげでお見合いが決まって順調だということを話すと、彼女は満足そうに息を吐いた。
「ねえ、買い物、もう終わってる?」
「あと少しで終わるな」
「そっか。じゃあ折角だし、そのあとお茶付き合ってよ。婚活の調子とか姿絵の評判とか詳しく聞きたいしさ」
いきなりの提案だったが、出会った人たちと変わらず交流できるのは嬉しい。
二つ返事で承諾すると、エルネは舌をチラリと見せて笑った。
「じゃあ買い物終わるまで待ってるよ」
こうしてエルネを待たせ、ヒルデの買い物リストの最後にあった黒パンを一週間分買い込んでから、再び彼女に合流した。
「ついてきて。こっちにアタシの行きつけの喫茶店があるんだ。ギャラリーも併設してて、アタシも昔個展させてもらったことあるんだけど。ビスケットも美味しいんだよ」
ヒルデはエルネのあとについて、市場の裏手へ向かった。
表通りから一本外れても、人の賑わいの声は続く。しかしそれを避けるように幾度も角を曲がり、細い路地を進んだ先に飴色の木造りの喫茶店があった。
エルネは「ここだよ」と言って、喫茶店の扉を開ける。
店内に入った瞬間、ヒルデの目には壁一面の絵が飛び込んできた。風景画、神像画、騎獣の絵、抽象画。どの絵にも新しい勢いがあった。
「すごいな。この絵、全部同じ者が描いたのか?」
「違うよ。ここからこっちの絵師は知らないけど、こっちの絵描いたのはアタシの知り合い。若い頃に一緒に遊んでた子だよ。……あの時はアタシよりうんと下手くそだったのにさ……」
エルネの説明を聞いていると、シロップの瓶や珈琲の抽出器が並ぶカウンターの奥から低くしゃがれた声がした。
「エルネか。久しぶりだな」
声の主は白髪の男性だった。ここの店主に違いない。
「久しぶり。今日は友達連れてきた。少し邪魔させてね」
「いくらでもゆっくりしていきな」
メニューだけポイっとエルネに手渡して、店主は奥に引っ込んだ。
エルネは適当なテーブルに座り、ヒルデにも椅子を薦めてくれた。
「ビスケットは頼むとして……何飲む?」
「渋茶はあるか?」
「あるよ。それだけでいい?」
「ああ」
立ち上がったエルネはカウンターに戻って店主に声をかけ、注文をしてくれた。
客がヒルデたちだけだったので、注文の品はすぐに出てきた。エルネのお勧め通り、シロップをかけたビスケットがとても美味しい。
「ヒルデは芸術に疎いって言ってたけど、たまにはこういう喫茶店も面白いでしょ」
「確かに面白い」
「でしょ」
壁の絵を眺めながら、二人はしばらく取り留めのない話をした。
エルネが受けた面倒臭い依頼の話。ヒルデが昨日食べた夕食の話。市場に売っていた変な置き物の話。王都にできたばかりの菓子屋の話。
どれも大した話ではない。しかしこうして話すのは楽しかった。
そんな中、エルネがふいに頬杖をついた。
「それで、聞きたいんだけど」
「ん?」
「婚活順調って言ってたよね。もしかして結婚できそうな相手いた?」
「結婚はできるか分からないが、何回かデートなるものをしたぞ」
「そういうの何もしたことないって言ってたけど。もう何回もしたんだ?どこ行ったの?」
エルネは果実ミルクを飲みながら、どこか眩しそうにきゅっと目を細めた。
「遊楽園などに行ったぞ」
「遊楽園か。アタシも行った事あるよ。ヒルデたちは何乗ったの?」
「絶叫する乗り物に沢山乗ったぞ」
「ふぅん。アタシこう見えてちょっと絶叫は苦手なんだけど、ヒルデたちは得意だったんだね。楽しそうじゃん」
「いや、相手は苦手だったようなのだが、私が沢山乗せてしまってな。申し訳なかった」
「でも二人で乗ったんだよね?ヒルデの為に苦手って言わずに一緒に乗ってくれたのかもね。楽しかった?」
「楽しかったぞ」
何が楽しかったのかとか、デートでどんな事があったとか色々と質問されたので、ヒルデは思い出せる限りで答えた。
するとエルネは、絵もある喫茶店内では吸えない煙草の代わりにストローを舌で弄びながら言った。
「そいつ、ヒルデのこと気に入ってそうだね」
「そうだろうか。だと嬉しいが、先日顔面を蹴ってしまったらしくてな、許してはくれたんだが……」
「許してくれたんならいいでしょ。ヒルデに言い寄ってくる男がいるとしたら、阿呆かいい男のどっちかだろうなって思ってたんだけど、話聞いてて、そいつは阿呆だけどいい奴そうだなって思ったよ。よかったじゃん」
エルネは褒めているのか貶しているのか分からない事を言って、クスッと笑った。
「ヒルデはそいつに結婚しようって言われたらどうする?結婚してもいいって感じ?」
「結婚してくれるならとても嬉しいぞ!」
ヒルデが即答すると、エルネは肩をすくめた。
「じゃあ、結婚式は呼んでよ。で、姿絵はアタシに描いてもらいましたって宣伝して」
「もちろんだ!しかし商魂逞しいな」
「当たり前でしょ。使えるものはなんでも使わないとね」
それからエルネは姿絵の評判について根掘り葉掘り聞きつつ、良い頃合いで時計を見た。
「…………いい時間だね。そろそろ行こうかな。煙草も吸いたいし」
「そうか。会った時から思っていたが、エルネ殿は煙草が好きなんだな」
「好きじゃないよ。でも、もう辞められないんだよね」
エルネはヒルデから視線を逸らし、ふとここでは無い場所を見つめた。だがそれも一瞬で、彼女はすぐに席から立ち上がった。ヒルデも同じように席を立つ。
「じゃあヒルデ、また暇なとき遊ぼうよ」
「ああ」
画材の山を抱え直したエルネは、一杯になった手の代わりに肩をすくめた。
「じゃあ、またね」
「またな」
扉が閉まり、カラン、と鈴が鳴る。外に出た二人はそのまま店の前で別れた。




