第68食 ベルゼブブ 前編
ヴェノムヴァンパイアの巨大な肉体から放たれた漆黒の光が、黄金のフロア全体をごうごうと吹き荒れる。
四人はセレナの身体を庇いながら、その強烈な光と衝撃波が収まるのを待った。
やがて、黒い光が完全に晴れた時、そこにいたのは、威容を誇っていたヴェノムヴァンパイアの姿ではなかった。
代わりにその場に浮かんでいたのは、ブツブツとした不気味な複眼と、薄汚れた透明な羽を持った、ヴェノムヴァンパイアほどではないが、それでも非常に大きい「巨大なハエの魔物」だったのだ。
「あれが……奴の元の姿……?」
シャロが信じられないというように呟く。
「はははっ!なんだアイツ、なんか薄汚くてよわそーな奴だナ!あんなデカいだけが取り柄のハエが、奴の正体カ!」
アグニが拳を鳴らしながら、拍子抜けしたように豪快に笑う。
確かに、先ほどまでの絶望的な威圧感と比べれば、見た目の恐ろしさは半減以下になっていた。
「いや……違う」
ヨシュアが、ガチガチと歯の根を鳴らして震える声で否定した。
「……どうした、ヨシュア?奴は一体何なんだ?ただのハエの魔物じゃないのか?」
エミルが、今までに見たことのないヨシュアの怯えようにただならぬ気配を感じる。
「違う、奴はただの魔物なんかじゃない……!間違いない……奴は……『ベルゼブブ』!!『破壊の神』だ!!」
ヨシュアの悲痛な絶叫が、黄金のフロアに響き渡る。
「なんだって!?」
エミル、シャロ、アグニの三人が同時に青ざめ、息を呑んだ。
魔物ではなく、神、それも破壊を司る悪神。
「……その通りだ」
巨大なハエ――ベルゼブブが、無数の複眼をギョロリと動かしながら、幾重にも重なったような耳障りな声で話し出した。
「ハハハハッ!あの女が引きずり出され、核を失った時は本気で焦ったがな……どうやら運は我の方に向いてたようだ」
ベルゼブブは醜い前足を擦り合わせながら、余裕の嗤いを浮かべる。
「我は……神の力を手に入れた……!」
「神……そんなの……!」
シャロが絶望に顔を歪める。
「こうなれば、もはやその女など必要ない。我はこの完全なる身体と力をもって、このまま地上に侵攻し、人間どもを片端から食い尽くしてやる」
ベルゼブブが薄汚れた羽を羽ばたかせると、それだけで黄金の大広間全体が激しく揺れ動いた。
「そうはさせない!!」
エミルが剣を構え、アグニとシャロと同時にベルゼブブへと飛びかかる。
「邪魔だ」
ベルゼブブが羽をバサリと一振りし、無造作に『闇の魔法』の衝撃波を放った。
それはヴェノムヴァンパイアの時のような大掛かりな予備動作もなく、ただ呼吸をするかのような自然な魔法だった。
ドゴオオオオオンッ!!
「ぐああああああっ!?」
「きゃああっ!!」
たった一撃。それだけでエミルたちの身体は木の葉のように吹き飛ばされ、激しい勢いで黄金の壁に叩きつけられた。
「ガハッ……なんて力だ……」
エミルが血を吐き、壁から崩れ落ちる。
ヨシュアもアグニも全身の骨が軋み、もはや立ち上がることすらできない。
「そこで指をくわえて見てろ。貴様らのような羽虫の相手をしている暇はなくなった。我は外の世界が楽しみで仕方ないのだからなァ!!」
ベルゼブブはそう言い放つと、巨大な複眼を天井へ向けた。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!
凄まじい轟音と共に、第十層の硬い天井が、そしてその上層のすべての大地が、一瞬にして天の彼方までドリルで貫かれたかのように「大きな大きな大穴」を開けたのだ。
眩しい地上の陽光が、暗い迷宮の最深部に一直線に差し込む。
「ではな、蟲ケラども」
ベルゼブブはその大穴に向かって、真っ直ぐに上空高く飛び去って行った。
「まて……このままじゃ、地上が……!」
シャロが痛む身体を引きずりながら手を伸ばす。
「だが、一体どうすれば……今の俺達には、立ち上がる力すら……!」
ヨシュアが絶望の中でギリッと唇を噛む。
その時だった。
「――みんな……」
弱々しくも、透き通った声がエミルたちを呼んだ。
急いで振り返ると、地面に倒れていたセレナが、ゆっくりとその瞳を開けていたのだ。
「セレナ……!よかった、無事だったのか……!」
エミルが涙ぐみながら這って近づく。
「エミル……ヨシュア……私を、助けてくれたのね……でも、みんなの方こそボロボロじゃないですか……!?今、回復します!」
セレナは両手を四人に向けて高く掲げた。
「《リザレクション》!!」
セレナの手から、かつての聖女としての光とは比べ物にならないほど、強大で温かい「光の奔流」が放たれた。
光が四人を包み込んだ瞬間、みるみる内に、壁に叩きつけられた打撲も、折れた骨も完全に塞がり、枯渇していた体力と魔力が文字通り『全開』まで回復していったのだ。
以前のセレナの魔法とは次元が違う、まさに奇跡のような回復力。
「セレナ……お前、いつの間にこんな凄まじい力を……?」
ヨシュアが自分の両手を握りしめ、驚愕の声を上げる。
「うまく言えないけれど……私と長い間一体化していた、あの恐ろしい魔物の力と魔力の一部が、私の魂の中に残ったまま、私の力と同化しているみたいなの」
セレナが自分の手のひらを見つめながら不思議そうに答える。
「ヴェノムヴァンパイアの、あの異常な魔力がか……!?」
エミルが目を見張る。
「おおっ!それは凄い事になっちゃったナ!」
アグニが全回復した身体で飛び起き、ガッツポーズをする。
「あの……この赤い獣人の方は……?」
セレナがアグニを見て不思議そうに首を傾げる。
「詳しく事の顛末を説明してる暇はないが、俺達の新しい仲間、アグニだ」
ヨシュアが手短に紹介する。
「この異常に強力なセレナのサポートの力があるなら……ひょっとしたら、あの破壊神にだって、なんとかなるかもしれない!」
シャロが希望の光を取り戻し、力強く立ち上がる。
「急ぐぞ!!このままベルゼブブを地上に出すわけにはいかない!追いかけるんだ!!」
エミルの号令に、全員が力強く頷く。
飛行魔法の使えないセレナをエミルが背負い、シャロ、アグニ、ヨシュアの四人は、ベルゼブブが空けた大穴を猛スピードで飛翔し、光の差す地上を目指して急上昇を開始した。
***
一方、地上。
ダンジョンの入り口がある平原付近では、突如として地面が陥没し、底なしの「大穴」が空いたことで、近くで野営や探索をしていた冒険者たちが大騒ぎとなっていた。
「なんだこの穴は!?」
「ダンジョンが崩落したのか!?」
ざわめく冒険者たちの目の前で、大穴の奥底から、突如として巨大な蠅の魔物――ベルゼブブが弾丸のようなスピードで飛び出してきたのだ。
「オオオオオオオッ!!これが!!これが地上か!!光が、空気が、なんて新鮮なのだ!!」
初めて見る本物の外の世界、青い空と白い雲に感動し、ベルゼブブは喜びの奇声を上げる。
「な、なんだあの薄汚えデカブツは!」
「魔物だ!!攻撃しろ!!」
地上にいた冒険者たちが慌てて逃げ惑い、一部の腕自慢たちが剣や弓、魔法でベルゼブブに攻撃を仕掛ける。
「……チッ、羽虫どもが、我の感動の邪魔をするな!鬱陶しい!!」
ベルゼブブが無造作に前足を振ると、凄まじい黒炎の津波が発生し、攻撃してきた冒険者たちを周囲の森もろとも一瞬で焼き払ってしまった。
「ぎゃあああああっ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図が広がる。
「フハハハハハッ!素晴らしい!人間というエサが至る所に転がっている!さあ、本格的に侵攻の宴を開始しようぞ!!」
ベルゼブブが大きな羽を広げ、街の方角へと飛び立とうとした――その時だった。
「そこまでだっ!!」
大穴の底から、弾丸のような猛スピードで四人の影が飛び出してきた。
シャロたちだ。
「……チッ、懲りずにまた来たか。我の力を見たはずだろうに、愚かな虫けらどもが……!」
ベルゼブブが忌々しそうに見下ろし、再び先ほどと同じ強力な『闇の魔法の衝撃波』を放ってきた。
シャロたちはそれをギリギリで回避すると、背負われていたセレナを安全な地上の後方に降ろし、指示を出した。
「セレナ!お願い!」
「はいっ!!《ヘヴンズ・フォース》!!」
セレナが祈りを捧げると、彼女の膨大な聖なる力がシャロ、エミル、アグニ、ヨシュアの四人の身体を包み込んだ。
「うおおっ!?なんだコレ!凄まじい力が身体の底からガンガン湧いてくるゾ!!」
アグニが自身の拳から溢れ出す圧倒的な魔闘気に目を丸くする。
「身体が軽い……!なんて凄まじい魔法だ……!」
エミルも剣を握り直し、その軽さと魔力の通りに驚嘆する。
「いくゾォッ!!」
真っ先に攻撃を仕掛けたのはアグニだった。
光のバフを纏った彼女は空を蹴り、一瞬でベルゼブブの懐へと飛び込んだ。
「超必殺!《オーラ・ナックル》!!」
ドゴオオオオオオオンッ!!!!
アグニの拳がベルゼブブの巨大な顔面に直撃した瞬間。
あれほど絶望的な力を持っていた神の巨体が、数百メートル先の岩山まで思い切り吹き飛ばされたのだ。
「す、すっげぇぇ!!アタシ、こんな力出せるのか!?」
放ったアグニ自身を含めた五人が、そのあまりの威力に驚愕する。
その攻撃は、確かに絶対的だったベルゼブブに小さくないダメージを与えていた。
森林を砕いて立ち上がったベルゼブブの複眼が、真っ赤に充血し、信じられないほどの殺意を放ち始めた。
「……貴様らァ……どこまで我の邪魔をする気だ!!」
破壊神のプライドを傷つけられた怒り。
「決めた。侵攻は後回しだ。まずは貴様らから、一片の塵も残さず始末してやる!!」
ベルゼブブが怒りをあらわにし、上空に数百の「闇の炎の球体」を作り出し、一斉に絨毯爆撃のように攻撃してきた。
シャロたちは、その絶望的な弾幕をギリギリで、しかし確実に避けつつ、反撃の魔法と斬撃を叩き込んでいく。
激しい戦い、剣と魔法、光と闇が激突し、その余波だけで周囲の平原がクレーターだらけになり、森が吹き飛び、地形が根本的に変わってしまうほどのすさまじい魔法の応酬。
「死ねっ!このくたばりぞこないがっ!!」
圧倒的な魔力で押し潰そうとするベルゼブブ。
しかし、エミルの剣が複眼をかすめ、ヨシュアの氷が羽の一部を凍らせ、シャロの大樹の根が前足を縛り上げる。
少しずつ、本当に少しずつだが、光のバフを受けた四人の連携が、破壊神ベルゼブブを押し始めている。
「馬鹿な……!?何故こいつらがこんな力を……!さっきまで、我の前で虫けらのように伏していたアイツらが……!!」
ベルゼブブは信じられないというように後退する。
と、同時に、神の直感がその異常な強化の原因を突き止めた。
「……そうか!!あの女の仕業か!!ならば、あの女を始末すれば……!!」
ベルゼブブは完全にターゲットをシャロたちから変更し、後方で祈りを捧げ続けているセレナへと視線を向けた。
「小賢しい女め!!喰らってやる!!」
「マズい!!」
ベルゼブブが、これまでにない恐ろしい速度でセレナのいる地上へ向かって超急降下を始めた。
それにいち早く気が付いたのは、シャロだった。
「セレナ!!逃げてぇッ!!」
シャロは自らの飛行限界速度を超えて特攻し、ベルゼブブの巨大な口がセレナに牙を剥く直前で、セレナの身体を横から力強く突き飛ばした。
「キャアッ!」
セレナは地面を転がり、間一髪でその凶刃から逃れることができた。
だが、セレナを助けるために間に割って入ったシャロは、逃げる余裕などなく、セレナの代わりに、ベルゼブブの大きく開かれたグロテスクな口によって――そのまま、一口に飲み込まれてしまったのだった。
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