第69食 ベルゼブブ 中編
「シャロオオオオオオオッ!!!!」
エミルの絶叫が、煙り立つ平原の空に虚しく響き渡った。
セレナを助けるために自らを盾としたシャロは、ベルゼブブの巨大でグロテスクな口に完全に飲み込まれ、そのままその強靭な顎によって飲み下されてしまった。
「嘘……だろ……」
最前線にいたアグニが、信じられないものを見たように瞳孔を開き、完全に動きを止める。
ヨシュアも、後方のセレナも、シャロが喰われたという事実の前で完全に思考を停止させ、絶望にフリーズしてしまった。
「……まずは、鬱陶しい羽虫が一匹」
ベルゼブブが複眼をギョロリと動かし、口元についたシャロの体液を舐め取るようにして嗤った。
そのどうしようもなく醜悪な動きと声に、完全に心が折れかけたその瞬間。
「……ハッ!い、いや……まだだッ!!」
誰よりも早く正気を取り戻したエミルが、自らの頬を両手で思い切り張り飛ばし、気合いの声を上げた。
「みんな、しっかりしろ!!まだだ!まだ僕たちは負けちゃいない!!あいつの腹を割いて、シャロを必ず助け出すんだ!!戦うんだ!!」
エミルの魂からの鼓舞に、アグニ、ヨシュア、そしてセレナの瞳にわずかに強い光が戻る。
「そ、そうだ!まだ俺達は負けてない!奴を倒してシャロを助け出すんだ!」
ヨシュアが杖を握る手に強烈な力を込める。
「だったら……1秒でも早くアイツをぶっ飛ばすしかないゾ!!」
アグニが怒りと悲しみを魔力に変え、全身から炎のようなオーラを噴き上げる。
再び立ち上がろうと、四人が必死に勇気を奮い立たせようとした――まさにその時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!
彼女達の背後、エミル達がつい先ほどまで潜っていたダンジョンの入り口から、信じられないほどの轟音と地響きが鳴り響いた。
「な、なんだ!?」
全員が振り返る。
穴の底から、黒い濁流のようなものが凄まじい勢いで這い上がってきていた。
よく見れば、それは濁流ではない。
ゴブリン、オーク、スケルトン、リザードマン、キマイラ……ダンジョンの上層から下層まで、あらゆる階層に生息していた大勢の魔物たちが、狂乱状態となって地上へと飛び出してきたのだ。
「まさか、スタンピードかっ……!?」
ヨシュアが血の気を引かせて叫ぶ。
スタンピード、それはダンジョンが長い間、ずっと攻略されていない場合、中のモンスターが制御を失って外の世界へ溢れ出してしまう、街や国を滅ぼしかねない未曾有の大災害だ。
十中八九、ダンジョンコアを取り込んだベルゼブブが外に出た影響で、スタンピードが起きてしまったのだろう。
「なんて数の魔物だ……!このままじゃ、僕たちの街が……すべてあいつらに飲み込まれてしまうぞ!!」
エミルが叫ぶ。
目の前には無敵の破壊神ベルゼブブ、背後には街へ向かって雪崩れ込もうとする何万という魔物の大群。
もはや、彼ら四人だけで対処できる次元の事態ではなくなっていた。
「くそっ……!どうすりゃいいんだヨ!!」
アグニが歯噛みする。
だが、その時。
「《フレア・エクスプロージョン》!!」
背後から、特大の火の玉がスタンピードの先頭集団めがけて飛来し、ド派手な大爆発を起こして何十体もの魔物を一気に吹き飛ばした。
「え……?」
さらに、遠くから何本もの氷の槍や、光の矢が連続して飛び込み、魔物の群れの行軍を次々と食い止めていく。
「あっちを見ろ!!」
アグニが指差した先。
平原の向こうから駆けつけてくる「一つの軍勢」の姿があった。
それは、様々な装備を身に纏い、武器を掲げた『冒険者たち』の大集団だった。
「――お前らしっかりしろ!こんな所で立ち止まってる場合か!!」
その先頭で、炎を纏う剣を振るいながら叫んだ男の顔に、エミルは見覚えがあった。
「お前は……カイン!!」
そう、彼はかつてエミルを助け、ヴェノムヴァンパイアと戦ったドラゴニュートの冒険者、そしてその仲間達だった。
そして彼らだけではない。
彼らに続いて駆けつけてきたのは、これまでシャロたちが迷宮で出会い、助けられたり、逆に助けた冒険者たち、その噂を聞きつけた名も知れない冒険者達だった。
「お前らには、迷宮で受けた恩があるからな!ここは俺たちがなんとかする!お前らは目の前のデカブツに集中しろ!!」
カインが魔物を切り伏せながら、エミルたちに向かって頼もしい激励の言葉を叫ぶ。
「いけ、ゴーレム!あの魔物どもを押し返すんだよ!!」
別の方向からは、獣人の商人マルクが、自身が操縦する「巨大な岩のゴーレム」を何体も引き連れて魔物の群れに突撃していく。
「拙者たちも加勢いたす!!居合《雷切》!!」
「忍法・火遁の術!!」
さらにムサシ達の侍や忍者のチームが風のような身のこなしで魔物を次々と斬り捨て、ベルゼブブに向かっても牽制の手裏剣や斬撃を放つ。
剣や魔法を扱う冒険者たち、商人、侍、忍者……
様々な特技を持つ何十、いや、百を超える人という冒険者たちが、自らの街を守るため、そして恩人であるシャロたちを助けるために、命懸けで必死にスタンピードの群れとベルゼブブに立ち向かっていた。
「みんな……!」
エミルの胸に、熱いものが込み上げる。
「……チッ、どこからわいて出たか知らんが、鬱陶しい蟲ケラどもめ」
ベルゼブブが忌々しそうに複眼を動かし、舌打ちをした。
「面倒だ、まとめて終わらせてやる」
ベルゼブブが背中の禍々しい羽を大きく広げ、自身の膨大な魔力を解放した。
ブワァァァァァァッ……!!
その瞬間、ベルゼブブの身体を中心に、目に見えない不気味な引力のような波動が周囲一帯に放たれた。
「なんだ、コレは……!?」
カインが自身の身体の異変に気づき、膝をつく。
「力が……抜けて……」
周囲で戦っていた冒険者たちが、次々と倒れ込み始めた。
彼らの身体から、そして地面から、さらにはスタンピードで溢れ出て倒れた魔物達から……影のような靄のような黒い何かが立ち上り、それがすべてベルゼブブの巨体の中へゆっくりと吸収されていった。
「何かを吸い取られてる……!まるで生命力そのものを吸い取られてるみたいだ……!!」
冒険者の一人が、苦しげに喉をかきむしる。
「くそっ……!他者の魔力や生命力はおろか、土地の力すらも吸収する力だと……!?流石は破壊神……神を名乗るだけあって、本当になんでもありだぞ!!」
ヨシュアが杖を地面に突き立てて自身の魔力が吸われるのを必死に堪えながら、ギリッと舌打ちをした。
「一体、どうすれば……このままじゃ、冒険者たちがみんな干からびて死んでしまう!」
さすがのエミルも、神の理不尽なまでの権能を前に絶望の色を隠せない。
「諦めんなァッ!!」
アグニが、吸い取られる生命力を無理やり自身の気合で押さえ込みながら、空に向かって吠えた。
「まだダ!まだ負けたと決まった訳じゃないだロ!アタシは戦う!力尽きて、死ぬその時まで、絶対に諦めなイ!!」
アグニの叫びが、エミルとヨシュアの心に再び火を点けた。
「……そうだな。ここで僕たちが諦めたら、シャロも街の皆も終わりだ。なら……全力であがくぞ!!最後の最後まで!!」
エミルが新しい長剣を強く握り直す。
「愚かな奴らだ。その無駄な足掻きも、これで終わりだ。消えろ」
ベルゼブブが巨大な口を限界まで大きく開き、吸い上げた莫大な生命力と魔力をすべて圧縮した。
そして、その口から、すべてを焼き尽くし、跡形もなく消し去るための『巨大な闇の炎』のブレスを放った。
「力を振り絞れえええええっ!!」
エミルの叫びと同時に、三人も残された全魔力を解放した。
「《超オーラ・バースト》!!」
「《アブソリュート・ライガー》!!」
「《サンダー・ボルト・エクスカリバー》!!」
アグニの魔力の波動、エミルの雷光の奔流、ヨシュアの氷結大魔法。
三人の最大魔法が一つに混ざり合い、ベルゼブブの放った巨大な闇の炎と真っ向から衝突した。
セレナも後方から、自身の命を振り絞るかのように、持てるすべての聖女の力を解放し、三人の攻撃をサポートし、強化の光を送り続ける。
ゴオオオオオオオオッ!!
二つの強大なエネルギーが激突し、激しい衝撃波が巻き起こる。
だが、ベルゼブブの闇の炎は、神の力と周囲から奪い取った生命力によって、とめどなく膨張していく。
「ぐおおおおッ!!」
「押し返される……!!」
四人の全力をもってしても、ベルゼブブの闇の炎はじわじわと、だが確実に彼らの方へと押し込んできていた。
「させるかあああっ!!」
「俺たちも加勢するぞ!!撃てえええええっ!!」
すると、倒れかけていたカインをはじめとする冒険者たちも、かすかに残った最後の力を振り絞り、一斉に魔法や弓矢、闘気をベルゼブブめがけて放った。
百という人間の思いと力が、エミルたちの攻撃に合流する。
「うおおおっ!!行けえええええっ!!!!」
冒険者たちの援護射撃により、押されていたエネルギーの均衡が崩れ、次第にベルゼブブの闇の炎が、逆にベルゼブブの方へと押し返されていく。
「いける!このまま押し切るゾ!!」
アグニが希望の声を上げる。
しかし。
「……本当に、鬱陶しい羽虫どもだ」
ベルゼブブは、押し返される炎を見ても、全く焦る様子を見せなかった。
それどころか、余裕の嗤いを浮かべると、さらに激しく周囲からの『吸収』の出力を引き上げたのだ。
「あ……がぁっ……!!」
「力が……抜けて……」
過剰な生命力の吸収により、スタンピードの生き残りの魔物たちはミイラのように干からびて力尽き。
渾身の力を振り絞っていた冒険者たちも、次から次へと白目を剥いて地面に崩れ落ちていく。
生命の灯火が次々と消えかけていく。
そして、その莫大なエネルギーを全て飲み込んだベルゼブブの闇の炎は……先ほどまでの数十倍の太さと威力を伴って、再びエミルたちの攻撃を完全に呑み込んだ。
「あ……」
やがて、アグニ、エミル、ヨシュア、そしてセレナの力も完全に底をついた。
限界を超えた四人の攻撃の光はふっと掻き消え。
ベルゼブブの絶望的な闇の炎が、一切の抵抗を押し切って、地上ごと彼らを丸呑みにし、焼き尽くした。
ドゴオオオオオオオオンッ!!!!!!
平原のど真ん中に、巨大な漆黒の火柱が立ち上り、周囲のすべてを焦土へと変え去った。
火が収まった後、そこには、地獄のような光景が広がっていた。
燃え盛る黒い炎の残骸、ドロドロに溶けた地面、倒れ伏した無数の冒険者と魔物の山。
その焦土の中心で、エミル、アグニ、ヨシュア、セレナの四人は、傷だらけとなり地面に倒れ伏していた。
まだかすかに息はあるものの、もはや立ち上がるどころか、指一本動かす力すら残っていない。
「……あ……ぐ……」
アグニが、それでもまだ戦おうと、血まみれの拳を地面に擦り付けて身体を起こそうとするが、すぐに力が抜けて崩れ落ちてしまう。
「……まだ息があるのか。しぶといな、貴様ら」
ベルゼブブが、呆れたように彼らを見下ろす。
「神の火を浴びてなお生きているとは、賞賛に値する……だが、もう終わりだ。これでトドメだ」
ベルゼブブが大きく息を吸い込み、再び破壊の『闇の炎』の準備を始める。
戦力差は絶対的、奇跡すら起こり得ない絶望。
「これまで……か……ごめん……シャロ……」
エミルが、霞む視界の中で涙を流し、ついに心の底から諦めの言葉を吐き出した。
トドメの炎が放たれようとした。
――その時。
「……ん?」
突然、ベルゼブブの巨大な身体の『内側』が、強烈な《緑色の光》を放って、明滅し始めたのだ。
「ガ……なんだこれは!?腹の、中が……!?痛い!!熱い!!」
ベルゼブブが突如として空中で身悶えし、口から緑色の光の粒子を漏らしながら、激しく苦しみ出した。
「オゴオオオオオッ!!ゴッ!!ゴハアアアアアアアッ!!!!」
そして、限界を迎えたベルゼブブが口を大きく開け、その中から、強烈に「緑色に光る何か」を、勢いよく嘔吐するように吐き出したのだ。
「あれは……」
倒れていたヨシュアが、目を見開く。
緑色の光が、ゆっくりと収まっていく。
その光の中から現れたのは。
「シャロ……!!」
背中に、神々しく輝く緑色に光る光輪を背負い、強大な生命のオーラを纏って宙にふわりと浮遊しているシャロの姿だった。
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