第56食 ビーフシチュー
ムサシたちと別れたシャロたちは、再び吹き荒れる冷たい風の中、広大で過酷な白銀の雪原を進んでいた。
「おい、見えたぞ」
先頭を歩いていたヨシュアが足を止め、杖の先で前方を示した。
シャロたちが駆け寄ってその方向を見ると、真っ白な雪原の大地がぱっくりと横に大きく裂けていた。
ゆっくりと慎重にその裂け目に近づくと、それが途方もなく巨大な氷の谷『クレバス』であることが分かった。
恐る恐る縁から下を覗き込んでみる。
「うわぁ……」
底が全く見えないほどに深い、無慈悲な奈落が広がっていた。
吸い込まれそうなほどの高度感に目眩がする。
「深いね……」
シャロがごくりと唾を飲み込んだ。
「もしかして、この下か?」
エミルが険しい表情でクレバスの底を指差す。
「ああ。この下に、次の階層へ行くための道があるはずだ」
ヨシュアが静かに答えた。
「おいおい、どうやって降りるんダ?まさか飛び降りるのカ?」
アグニが冗談半分、本気半分といった様子で身を乗り出す。
「馬鹿、横着するな。万が一、下が川とか鋭い氷柱の山だったりしたらどうするんだ、下手すりゃ死ぬぞ」
ヨシュアがため息交じりにアグニの襟首を掴んで引き戻した。
「あの、いくつか出っ張った所を足場にしよう」
シャロが周囲を見渡し、クレバスの壁面にわずかに残る、段差のような地形に目を留めた。
「なるほど、それなら確実だな……よし、足元に気を付けろよ。狭い上に雪が積もって滑りやすくなってるからな」
エミルが先陣を切ってクレバスの最初の出っ張りへと降りていった。
他の3人もそれに続き、慎重に、かつ大胆に氷のクレバスを降りていく。
クレバスの壁面はツルツルに凍りついており、足場となる出っ張りは、小さいものだと人一人がギリギリ立てるほどの狭さだったが、4人は慎重に降りていく。
途中で一度、アグニが足を滑らせて落下しかけ、シャロがツタで救助するというアクシデントがあったものの、一行は順調に深い闇の中へと降りていった。
しかし、ある程度下まで降りてきた時のことだった。
「……ッ!」
エミルがピタリと動きを止めた。
それに連動して、シャロたちも壁に張り付くように身を潜める。
「魔物の気配だ……!」
エミルが鋭い視線を向けたのは、両側の氷の崖にいくつかぽっかりと口を開けている、大きな浅い横穴の中だった。
グルルルルル……。
地響きに似た低い唸り声と共に、横穴の奥から巨大な影が音もなく滑り出してきた。
それは異常な姿をしていた。
頭は百獣の王たる「獅子」、身体はがっしりとした「山羊」のもので、背中には巨大な「鷲」の翼。そして尻尾は、毒牙を剥き出しにした猛毒の「蛇」。
「キマイラ……それの上位種か」
ヨシュアが忌々しそうに舌打ちをした。
「グオオオオオッ!!」
獅子の咆哮と共に、崖の横穴から無数のキマイラの群れが一斉に飛び出した。
鷲の翼を大きく羽ばたかせ、クレバスの狭い空間を我が物顔で飛び回りながら、壁面に張り付いているシャロたちへと容赦なく襲い掛かって来た。
「来るぞ!迎撃態勢!」
エミルが叫ぶ。
キマイラは空を飛び回るという機動力を活かし、山羊の鋭い爪で引っかいたり、獅子の鋭い牙で噛みついてきたり、絶対零度のブレスを吐いてきたりと、多角的な攻撃を仕掛けてきた。
「チッ《フロート》!」
ヨシュアがいち早く飛行魔法を展開し、高速で飛びながら炎の魔法を連射する。
シャロとエミルも植物の羽と雷の力で空を飛び、キマイラの猛攻を躱し、反撃する。
シャロ、エミル、ヨシュアの三人は、空の三次元戦闘にも適応し、見事な連携で上位種のキマイラたちと渡り合っていた。
だが……問題が一つあった。
「このっ!邪魔ダ!」
アグニだけは、魔法で空を飛ぶ術を知らない。
彼女は狭く滑りやすい崖の足場で立ち往生し、壁を背にして必死にキマイラを拳で殴りつけていた。
狭い足場での限定的な素手での戦闘、相手は空中からのヒットアンドアウェイ、アグニにとって分が悪いことこの上ない状況だった。
「ギアァァッ!」
アグニが一体を殴り飛ばしたその直後、死角から別のキマイラが猛スピードで突進してきた。
山羊の分厚い前足がアグニの体をモロに捉える。
「がはっ……!」
強烈な衝撃、アグニはたまらず足場から突き飛ばされ、深い谷底へと落下していく。
「うわああああっ!?」
アグニの体が、底なしの暗黒の奈落へと真っ逆さまに落下していく。
「アグニッ!?」
シャロが血相を変え、エミルも空中で反転して彼女の後を追うべく急降下しようとした。
だが、その一瞬の隙をキマイラは見逃さない。
「シャアアアアッ!」
「きゃあっ!?」
「くっ……!」
背後から迫ったキマイラの攻撃により、シャロとエミルは空中で体勢を崩し、肩や背中に手痛い傷を負わされてしまった。
「早く後を追わないと!アグニが!」
傷を抑えながら慌てて降下しようとする二人に、ヨシュアが魔法の集中砲火でキマイラを牽制しながら怒鳴った。
「馬鹿!落ち着け!奴はこんな事で死ぬタマか!あいつの生命力を信じろ!お前らがここで冷静さを失って落とされたら、それこそ全滅だぞ!」
ヨシュアの痛烈な一喝に、二人はハッと我に返った。
そうだ、アグニは絶対に死なない。
信じて、まずは目の前の敵を片付けるしかない。
一方、その頃。
ヒュウウウッという風切り音と共に、クレバスの底へと恐ろしいスピードで落下していくアグニ。
しかも最悪なことに、上空からはアグニにトドメを刺そうと、一体の巨大なキマイラが嬉々として彼女を追いかけて急降下してきていた。
「クソッ、このままだと不味いゾ……!」
崖にしがみつくこともできず、ただ底に叩きつけられて潰れるのを待つだけの絶望的状況。
だが、アグニの脳裏に、かつてエミルが語っていた言葉がフラッシュバックした。
『魔闘気を上手く使えば、色々な事ができる。攻撃にも、防御にも……そして、移動手段にもな』
アグニの直感が、起死回生のアイデアを閃いた。
彼女は空中で無理やり体勢を立て直すと、全身の魔力を、両方の「足首」と「足の裏」へと限界まで集中させた。
そして、アグニは 足元に透明な地面があるかのように、思い切り空を踏み込んだ。
同時に、足の裏に溜め込んでいた膨大な魔力を、爆発的に下方向へと放出する。
ドンッ!!
炸裂音と共に、何もない空中で強烈な反発力が生まれた。
すると、あんなにも猛烈だった落下のペースが一瞬だが、ガクンと落ちた。
アグニはさらに強く魔力を足に集中させ、同じように空を踏み込みながら魔力を爆発放出させた。
バンッ!!
今度は、彼女の落下の速度が完全に相殺され、ピタリと空中で静止したのだ。
更にもう1回。
バァンッ!!
足を力強く踏み込み、空中の魔力爆発を推進力に変えると、アグニの体が今度はロケットのように真『上』へと跳びあがった。
「!?」
追撃のために急降下してきていたキマイラは、重力に逆らって下から急接近してくるアグニの姿に、文字通り目を丸くした。
「ガアアアッ!!」
キマイラは鋭い牙を剥き出しにして上から噛み付こうとする。
「食らえッ!!」
アグニはキマイラの牙を掠めつつも、オーラを纏った右の剛拳をキマイラの獅子の顔面へと思い切り叩き込んだ。
バキイッ!!
「ガアアアアッ!!!」
キマイラが悲鳴を上げて大きく弾き飛ばされる。
「よしっ!新技の完成ダ!」
さらにアグニは、殴り飛ばしたキマイラに向かって再び空を蹴り、驚速で跳んでいく。
もうすっかり空を跳ぶコツを掴んだ彼女の動きは、水を得た魚のようだった。
素早く、変幻自在の軌道で空中をバウンドし、絶対零度の吐息や牙による反撃を避けながら、キマイラに怒涛のラッシュを打ち込む。
「トドメだっ!《オーラ・シュート》!」
最後に、光り輝く魔力を纏った渾身の回し蹴りが、キマイラの胴体にめり込んだ。
ドゴオオオオンッ!!
「ギャアアアアアッ!!!」
キマイラはそのまま力なく、クレバスの底へと真っ逆さまに落ちていった。
「ふぅーっ!なんとかなったゾ……」
アグニが空中で汗を拭い、軽快に空中を蹴りながら、シャロたちが戦っている上層へと跳び戻っていく。
アグニが元の高度に戻った頃には、シャロ達の活躍によって、残っていたキマイラの群れもちょうど全滅させられたところだった。
「アグニッ!無事だったんだね!」
無事に下から跳び上がってきたアグニの姿を見て、シャロが目に涙を浮かべながら安心の声を上げた。
「アグニ!アグニも空も飛べるようになったのか!流石だな!」
エミルも嬉しそうにアグニの方を見る。
「フン。無駄に心配かけやがって」
ヨシュアも悪態をつきながら、安堵のため息をこぼしていた。
こうしてシャロ達は、魔力を応用したアグニの新たな力の覚醒の助けもあり、上位種であるキマイラの群れを見事全滅させ、クレバスの底へと続く道を切り開いたのだった。
「さてと……戦闘も終わったし、食事にしようか!」
「待ってましたァ!空を跳び回って腹が減ったゾ!」
シャロの提案に、さっきまで死にかけていたとは思えないほど元気なアグニが、飛び上がって喜ぶ。
シャロは近くの横穴、キマイラたちが巣として使っていた広々とした洞穴の中に着地して、足場に引っかかった数体のキマイラの死骸をツタで手繰り寄せる。
そして、キマイラの死骸にそっと手を触れ、魔力を流し込む。
すると、巨大な怪物の肉体は淡い緑色の光に包まれ、次々に芽が生え、食材として成長していった。
大ぶりの『玉ねぎ』、丸々とした『じゃがいも』、鮮やかなオレンジ色の『人参』、真っ赤に熟れた瑞々しい『トマト』、様々な香りを放つ『香辛料』、そして立派な『肉牛』。
シャロは慣れた手つきで素早く下ごしらえを始めた。
まずは、玉ねぎ、じゃがいも、人参を大きめの乱切りにしていく。
その際に皮やヘタなどの『野菜クズ』は鍋で煮て、野菜出汁を取る。
その間に牛を解体し、大きなブロック状に切り出していく。
牛肉の表面に軽く塩と香辛料を擦り込み、熱した鍋に牛脂を引いて、一気に焼き色をつけていく。
ジュワアアアッ!!
牛肉の脂が爆ぜる暴力的な音と、肉が焼ける香ばしい匂いがクレバスの底から立ち昇る。
「たまんない……もうこのまま肉に噛み付きたいゾ……」
アグニが鍋から立ち上る煙を全身で浴びながら、よだれをダラダラとこぼしている。
「だーめ、ここからが本番だから我慢して」
牛肉の表面にカリッと香ばしい焼き目がついたところで、先ほど切っておいた玉ねぎ、人参、じゃがいもを鍋に投入し、肉から出た旨味を含んだ脂を全体に絡めるように炒め合わせる。
野菜の表面が少し透き通ってきたタイミングで、シャロはもう1つの鍋で煮出しておいた『野菜出汁』を濾しながら、大鍋へとたっぷりと注ぎ入れた。
ジャーッという音と共に、旨味の凝縮されたスープの香りが広がる。
鍋が沸騰してくると、灰汁が浮いてくるので、それを丁寧にお玉で掬い取る。
お湯が透き通ってきたところで、シャロは鍋に蓋をした。
コトコトと、お肉がホロホロになるまで更に煮込んでいく。
待つこと数十分。
シャロが鍋の蓋を開けると、黄金色のスープの中で、具材が見事に煮崩れることなく柔らかく仕上がっていた。
そこに、真っ赤なトマトを細かく刻んだものに醤油、数種類の香辛料に酒をドバドバと投入する。
再び火力を少し上げ、スープが赤茶色に染まり、全体の水分が飛んでドロッとしたとろみがついてきた。
トマトの酸味、野菜の甘味、牛肉の濃厚な旨味、そして香辛料のスパイシーな香りが一つにまとまり、完璧なハーモニーを奏で始める。
「完成!特製ビーフシチューの完成だよ!!」
シャロが深めの木の器に熱々のシチューをたっぷりとよそい、三人へと手渡した。
「待ってましたァァッ!!」
当然のように一番乗りで器を受け取ったアグニが、スプーンでシチューを豪快に流し込んだ。
「あっちっ!!ハフッ、ホハッ……!!」
熱々のシチューに涙目になりながらも、アグニの咀嚼は止まらない。
「……んんーーっ!!美味いッ!!牛肉が口の中で噛まなくてもトロトロに溶けて消えるゾ!それに、このドロッとしたスープ!甘酸っぱくて、体の芯から熱が爆発するみたいに暖かくて、めちゃくちゃ美味しいゾ!!」
アグニは歓喜の叫びと共に、あっという間におかわりを要求してきた。
エミルとヨシュアも木のスプーンでシチューをすくい、ふーふーと冷ましてから口に運んだ。
「……っ!これは……本当に絶品だ。濃厚で……でも食べやすい。香辛料がピリッと効いていて、冷え切った身体の隅々まで染み渡るようだ……美味い、いくらでも食べられそうだよ」
エミルの頬が、美味しさと温かさで自然と緩む。
ヨシュアは一口シチューを味わうと、静かに目を閉じ、ワインを一口飲む。
「ああ……この濃厚な味が、最高に酒に合う」
「よかった!たくさんあるから、どんどん食べてね!」
シャロも自分用の器によそい、とろけるようなビーフシチューを堪能した。
やがて鍋が空っぽになる頃には、四人は完全に体力と魔力を回復させ、深い満足感に包まれていた。
「ふあーっ、食った食った。大満足だゾ!」
アグニが満腹のお腹をバンバンと叩きながら立ち上がった。
「さて、それじゃあそろそろ移動を再開しようか」
エミルが腰を上げようとした、その時。
「なあみんな」
アグニが、不敵な笑みを浮かべてクレバスの底を見下ろしながら、とんでもない提案を口にした。
「アタシたち、もう全員空を飛べるんだしサ。こんなクレバスの壁をちまちま伝って降りていくより、ここから一気に飛び降りた方が早いんじゃないカ?」
底が見えない果てしないクレバスを飛び降りるという大胆な提案だった。
「……ふむ。僕は別に、いいと思う」
エミルがあっさりと肯定の返事をしたのだ。
実際、アグニが魔闘気で空を蹴って跳ぶ感覚を掴んだ以上、エミルやヨシュアの飛行術や、シャロの植物の力による滑空も含めて、全員が一気に無事着地できる手段を持っている。
「確かに、アグニは空中歩行を覚えた。僕とヨシュア、それにシャロも飛行手段を持っている。中途半端に壁に張り付いて、また別の魔物に奇襲されるリスクを考えれば、飛んで一気に距離を稼ぐのは理にかなっている戦術だ」
「どうする? ヨシュア」
シャロが、パーティの頭脳であるヨシュアに確認を仰ぐ。
ヨシュアはやれやれといった様子でため息を大きく吐き、杖を肩に担いだ。
「……わかったわかった。だが、谷底には十分注意しろよ。谷底が川だったり、魔物の巣があるかもしれないからな」
ヨシュアもその提案をあっさりと受け入れた。
「よっしゃァ!じゃあ行くゾ!」
アグニが嬉々として短い助走をつけると。
雪の足場を力強く蹴り出し、深い深いクレバスの底めがけて豪快なダイブを敢行した。
「全く、落ち着きのない奴だ。俺達も行くぞ」
シャロたち三人も、アグニの後を追うようにして、恐るべき深さの谷底へと次々にダイブしていった。
彼女たちの風を切る音が、冷たい氷の裂け目の奥深くへと吸い込まれていくのだった。
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