第51食 すき焼き
大樹の内部、広大な空洞の中を、シャロたちはひたすら下へと降り続けていた。
先ほどまで彼女らを苦しめたデススパイダーの群れはもはや影も形もなく、ただ自分たちの足音と、時折壁を伝って落ちる水滴の音だけが、不気味なほど静かな空間に反響している。
「……なぁ、まだ着かないのかヨ。ちょっと退屈だゾ」
アグニが、足場の瘤を軽快に飛び降りながら不満げに声を上げた。彼女の言う通り、一行は既にかなりの距離を降りてきているはずだった。
「焦らないで、アグニ。さっきから壁の様子が変わってきてるでしょ?」
シャロが横の壁を指差す。
確かに、上層では白く滑らかだった大樹の木肌は、いつしか黒ずんだ樹皮に変わり、さらに今では湿った黒土が剥き出しになった箇所が目立ち始めていた。
「木の中から次第に土の中へと変わって行ってるな」
ヨシュアが慎重に周囲を観察しながら言う。
木の中を降りていたはずが、いつの間にか地面の下、つまり土壌の深層へと足を踏み入れているのだ。
この大樹の根がいかに深く、広大に地下へと根を張っているかを物語っている。
「しかし深いな。どれだけ潜るんダ?」
アグニが深く暗い底を見下ろして溜息をつく。
すると、シャロが少し考え込むように人差し指を顎に当てた。
「次の階層への入り口に繋がると言うのなら、木よりもずっと下にも道が通じているだろうからね。たぶんもっと降りると思うよ」
「うへぇ……もっとカ……」
シャロのその言葉通り、四人はあれから更に十数分ほど、この深い深い木の中を降りて行った。
そして、ふと先頭を歩いていたエミルが足を止めた。
「お、どうやらここが一番下のようだぞ」
エミルの声に、他の三人も続いて飛び降りる。
そこは、これまでの縦穴とは違い、横へと広がる巨大な空洞だった。
床は固く踏み固められた土と、複雑に絡み合った大樹の根で構成されている。
「道は奥に繋がっているみたいだナ……うへぇ、まさかまた迷路じゃないだろうな?アタシ、ぐるぐる回るのはもう勘弁だゾ!」
アグニが顔をしかめて奥の闇を睨みつける。
「仕方ない、もう一度サーチの魔法を使うか。無駄な歩きは俺も御免だからな」
ヨシュアが杖を地面に突き立て、目を閉じる。
彼女の周囲に目には見えない魔力の波紋が広がり、壁や床の振動を通じて前方の構造を読み取っていく。
十数分かかるかと思われたが、ヨシュアは予想よりも遥かに早く目を開けた。
その表情には、珍しく緊張の色が混じっている。
「道は思ったよりも短い、少し歩けばすぐ出口だろう。だが……」
「だが?」
「恐らく『ぬし』級の魔物が居る。戦えば苦戦するのは必至だが……どうする?」
その言葉に、一瞬の沈黙が流れた。
普通の冒険者なら、全滅を避けるために迂回するか、十分な準備を整えてから挑む相手だ。
だが、アグニはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「そんなの決まってるダロ!倒して進むゾ!」
「私も賛成だよ。その『ぬし』を倒して食べれば、きっと8階で戦える力が付くかもしれない。セレナを助けるためにも、ここで立ち止まってはいられないもん!」
シャロの瞳には強い決意が宿っていた。
彼女達にとって、魔物を倒すことは生きるための糧を得ることであり、それは仲間を強くすることに直結する。
「普通だったらぬしなんて避けて通る相手だけれど、シャロがそう言うならそうしよう」
エミルも覚悟を決めた顔で、剣の柄を握り直す。
「……まあ、俺も賛成だ。決まりだな」
ヨシュアもまた、不遜な笑みを浮かべて同意した。
こうして、四人は慎重に、かつ確実に死地へと足を踏み出した。
***
通路を通っていくと、次第に道が広く、大きくなっていく。
ダンジョンの洞窟としては珍しく一本道だ。
多少横穴があるものの、ヨシュア曰く、中央の大きな道を行けばいいので、迷う事もないだろう。
しばらく歩いていると、四人は強い気配を感じ取った。
「……来るぞ。間違いない、ぬしだ」
エミルが鋭く警告を発した瞬間、横穴からズルリと大きな何かがうねり出てくるのを見つけた。
それは、巨大な大蛇だった。
胴体の太さは大樹の幹ほどもあり、長さは壁に隠れて見えないが、相当長そうだ。
全身を鈍く光る濃緑色の鱗に覆われ、その口からは毒々しい紫色の霧が漏れ出している。
「ヨルムンガンド……!非常に凶悪な毒蛇の魔物だ!」
ヨシュアが知識を総動員して警戒を促す。
だが、その言葉が完全に終わる前に、影が一つ飛び出した。
「デカいだけなら、アタシの拳の餌食だゾッ!!」
アグニだ。
彼女は魔力を拳に纏い、凄まじい脚力でヨルムンガンドの胴体へと肉薄した。
「待て、アグニ!不用意に触れるな!!」
ヨシュアの制止も虚しく、アグニの渾身の一撃が放たれた。
「オラァッ!!」
ドオオオオンッ!!
轟音と共に衝撃波が広がる。
しかし、ヨルムンガンドは微動だにしなかった。
それどころか、打撃を与えたはずのアグニの方が、悲鳴を上げて飛び退いた。
「い、いってええええッ!!なんだこれ、熱いゾ!?」
アグニが自分の右拳を見て絶句した。
先ほど大蛇に触れた彼女のこぶしは、見るも無惨に真っ赤にただれ、皮膚がボロボロと剥がれ落ちていた。
「馬鹿野郎!ヨルムンガンドの体には猛毒が流れているんだ。血も、汗も、粘液さえもが猛毒だ。だから絶対に触れるなと言ったんだ!」
ヨシュアが毒づく。
「先に言えヨ!!」
「言ったが聞かなかったのはお前だ!この単細胞め!」
二人が言い合っている間にも、ヨルムンガンドは鎌首をもたげ、四人をその冷徹な眼光で射抜いた。
その巨体からは想像もつかない速度で、ヨルムンガンドが襲い掛かってくる。
太い胴体が鞭のようにしなり、空間そのものを叩き潰すような勢いで床を薙ぎ払った。
「くっ……!速いな!」
シャロ達は必死に回避に専念するが、ヨルムンガンドの攻撃は止まらない。
今度は口を大きく開き、高圧縮された毒液の弾丸を連射してきた。
「《アイシクル・ウォール》!」
ヨシュアが瞬時に氷の壁を作り出すが、毒液が触れたそばから氷が黒ずみ、シュウシュウと音を立てて溶けていく。
「くっ……なんて毒の強さだ……!」
「《ライトニング・カリバー》!」
エミルが隙を見てヨルムンガンドの胴体に斬りつける。
しかし、彼女の剣をもってしても、その鋼鉄以上の硬度を持つ鱗を断ち切ることはできず、火花が散るだけだった。
「硬すぎる……!どうすればいいんだ、どこかに弱点はないのか!?」
エミルが焦りの色を見せると、アグニが叫んだ。
「逆鱗だ!ドラゴンには必ず逆鱗ってやつがあるんだロ?そこを探してブン殴ればいいんだゾ!」
「馬鹿野郎!ヨルムンガンドはドラゴンじゃない、蛇の魔物だ!逆鱗なんてあるわけないだろ!」
ヨシュアが吐き捨てるように言う。
「じゃあ、じゃあどうすればいいんだヨ!アタシの拳も通じない、エミルの剣も弾かれる、これじゃ手詰まりだゾ!」
その時、冷静に敵の動きを観察していたシャロが声を上げた。
「狙うは目か……口の中。あんなに硬い鱗に覆われてるなら、そこしかない……でしょ?」
シャロの言葉にヨシュアがニヤリと笑って頷いた。
「……その通りだ。鱗の無い部分なら、どんなに強力な毒蛇でも防御力は格段に落ちるはずだ」
「よし、その作戦で行くことにしよう。僕とシャロで目を狙う。ヨシュアとアグニは、あいつの注意を逸らして隙を作ってくれ!」
エミルの指揮により、四人の連携が開始された。
「《ブリザード・ランス》!」
ヨシュアが巨大な氷の槍を連射し、ヨルムンガンドの頭部付近を威嚇する。
「こっちだゾ、このデカブツ!!」
アグニは近くに転がっていた岩を拾い上げ、オーラを込めて次々と投げつけた。
直撃してもダメージはないが、顔面に当たる岩の衝撃にヨルムンガンドが僅かに怯む。
「今だ!」
シャロが素早く駆け抜け、エミルもまた雷を纏って加速する。
二人はヨルムンガンドの両サイドから同時に肉薄した。
「《リーフ・ブレード》!」
「《ライトニング・スラスト》!」
シャロが放った鋭い葉の刃とエミルの神速の刺突が、ヨルムンガンドの両目を正確に射抜いた。
「ギガアアアアアッ!!!」
ヨルムンガンドが狂ったような咆哮を上げ、激しくのたうつ。
視界を奪われた苦痛からか、大蛇は巨大な口を限界まで開き、周囲を威圧するように鳴き声を上げた。
「チャンスだ!口の中を狙え!」
ヨシュアが叫び、全魔力を左腕に集中させる。しかし、突如として周囲の空気が重くなった。
「……っ!?なんだ、体が……」
エミルが着地した瞬間、膝から崩れ落ちた。
アグニも、投げようとした岩を落とし、激しく咳き込み始める。
「様子がおかしい……!体から力が抜けていく……」
ヨシュアが杖を支えに辛うじて立っているが、その顔は土気色に変わっていた。
「しまった……!毒か……!」
力が抜けながらも、ヨシュアは冷静に状況を分析する。
「ヨルムンガンドの猛毒によって、地面や空気そのものが汚染されているんだ。この広場全体が、毒の巣窟と化している……!クソッ……気づくのが遅すぎた……」
気づいた時には既に遅かった。
エミル、アグニ、ヨシュアの三人は、蓄積された毒の影響で動く力が入らなくなっていた。
そこへ、怒りに狂ったヨルムンガンドの巨大な尾が迫る。
「危ないっ!!」
シャロが叫ぶ間もなく、三人の体は紙屑のように吹き飛ばされ、壁へと叩きつけられた。
「みんな……!!」
残るはシャロ一人。
なぜか彼女だけは、まだ動くことができた。
だが、おそらくそれも時間の問題だろう。
早く決めなければ、シャロも危ない。
「シュルルル……ッ」
ヨルムンガンドが、残された唯一の動く標的――シャロを認識した。
彼女を飲み込もうと、血と毒に塗れた巨大な口を全開にし、真正面から突進してくる。
逃げ場はない、体力も魔力もだいぶ消耗している。
だが、シャロの瞳から光は消えていなかった。
「来い……!」
シャロは逃げるどころか、大きく一歩を踏み出した。
襲いかかるヨルムンガンドの口、その喉奥が迫る。
彼女は左腕に全ての魔力を注ぎ込み、一気に形態変化させた。
「はあああああっ!!」
ズドオオオンッ!!
シャロの左腕から、一瞬にして直径一メートルを超える巨大な樫の丸太が生え出した。
それはヨルムンガンドの上下の顎を突っ張り棒のように固定し、その口を閉じさせないように固定した。
「ギガッ!?ガガガッ……!!」
突然口に異物を突っ込まれ、ヨルムンガンドが悶え苦しむ。
シャロはその隙間を縫うように、今度は丸太の横から、無数の鋭い茨を生やした。
ただの茨ではない、セージマタンゴの能力をフルに活用した『猛毒の茨』だ。
「これでも……食らえっ!!」
シャロは茨をヨルムンガンドの口の奥、さらにその先の喉元へと、深く、深く突っ込んだ。
柔らかい粘膜に無数の茨が突き刺さり、そこから直接、大蛇の体内へとシャロの毒が注入されていく。
「グガアアアアアアアアアアッ!!!」
痛みと体内の異変に、ヨルムンガンドがこれまでにないほどの大暴れを始めた。
シャロを振りほどこうと、頭を壁に、地面に、幾度も叩きつける。
ドゴオッ!ズガアアンッ!!
「……っ!あう、ぅ……!」
激しい衝撃、全身を襲う激痛、しかし、彼女は腕を離さなかった。
離せば、自分が、そして仲間たちが殺される。
「死なない……私は、まだ死ねないんだから……!」
必死に耐えるシャロ。
しかし、非情にも時間は過ぎていく。
彼女の体内にも、確実にヨルムンガンドの毒が回り始めていた。
次第に指先の感覚が消え、視界が真っ白に染まっていく。
バキッ……!!
ついに限界が来た。
ヨルムンガンドの顎の力に押され、シャロが生やした丸太が粉々に押しつぶされる。
茨もちぎれ、シャロの体は力なく地面へと放り出された。
「……あ……は……」
倒れるシャロ、指一本動かす力も残っていない。
目の前には、瀕死ながらもなお、殺意を漲らせたヨルムンガンドが立っていた。
大蛇は最後のトドメを刺そうと、その巨大な頭を持ち上げ、シャロを見下ろした。
絶体絶命。
シャロは静かに目を閉じた。
…………だが。
一秒、二秒経っても、衝撃は来なかった。
代わりに聞こえてきたのは、ドサリ……という、山が崩れるような巨大な音だった。
「……え?」
シャロが薄く目を開けると、そこには動かなくなったヨルムンガンドが横たわっていた。
その体は内側から腐敗が始まっているかのように変色し、口からは黒い血が溢れ出している。
シャロが命懸けで喉奥に叩き込んだ猛毒の茨。
それが大蛇の生命線を内側から破壊し、致命傷を与えていたのだ。
「……たお……せた……の?」
ヨルムンガンドとの激闘を、シャロは制したのだった。
「……あ……ぅ……」
黒い土の上に倒れていたシャロが、微かに指先を動かした。
全身を襲う激痛と、肺を焼くような毒の残り香。
視界はまだ霞んでいるが、彼女は自分の命がまだ繋がっていることを悟った。
震える手でリュックを探り、ポーションを取り出す。
「ん……ぐっ……」
栓を引き抜き、中身を一気に煽る。
薬特有の苦みと野菜の甘みと共に、身体の傷が塞がり、毒で失った体力が戻っていく。
数分後、ようやく自力で上体を起こせるまで体力が戻ったシャロは、周囲を見渡した。
「みんな……!」
少し離れた場所に、エミル、アグニ、ヨシュアの三人が重なるようにして倒れていた。ヨルムンガンドの最後の大暴れによって壁に叩きつけられた彼らは、依然として意識を失ったままだ。
シャロはふらつく足取りで彼らに歩み寄り、一人一人の口にポーションを流し込んでいった。
「……う……ぁ……?」
最初に目を覚ましたのは、頑強な肉体を持つアグニだった。
彼女は混乱した様子で周囲を見渡し、最後に自分の拳を見つめた。
「アタシ……生きてる、のか……?あのデカブツはどうしたゾ!?」
「アグニ、落ち着いて。倒したよ、ヨルムンガンドはもう動かない」
シャロの言葉に、続いて目を覚ましたエミルとヨシュアが息を呑んだ。
彼女らの視線の先には、山のように巨大な蛇の死骸が転がっている。
「信じられん……あの状況から、本当にお前一人で仕留めたのか、シャロ」
ヨシュアが驚愕を隠せずに呟いた。
「凄いなシャロ……君がいなければ、僕たちは間違いなくあそこで終わっていた」
エミルもまた、尊敬の念を込めてシャロを見つめる。
だが、ヨシュアはすぐに厳しい表情に戻ると、杖を掲げた。
「感心している暇はない。早くこの場の換気をしないと、残留している毒でまたやられるぞ……《ウィンド》!」
ヨシュアが放った旋風が、空洞内に停滞していた紫色の毒霧を一気に奥の通路へと押し流した。
新鮮な空気が流れ込み、ようやく四人は深く息をつくことができた。
「これで一安心だな。ヨルムンガンドも完全に絶命した。これ以上新たな毒が生成されることはないだろう」
ヨシュアが安堵の溜息をつくと、アグニが不思議そうにシャロを眺めた。
「それにしてもヨ、なんでシャロだけあの毒の中で平気だったんだ?」
「それは恐らく、今のシャロが『セージマタンゴ』だからだろう」
ヨシュアが解説を引き継ぐ。
「『セージマタンゴ』は強い毒を持つ魔物、それ故に毒への耐性も高かったんだろう。シャロがこの姿に進化していなかったら、俺達は詰んでいたな……流石は七層、敵も一筋縄では行かなくなってきてるな……」
「……本当だね。みんなが無事でよかった」
エミルがしみじみと頷く。
グウウウウッ
そんな緊張感の解けた空間に、突如として盛大な音が鳴り響いた。
「……あー、やっぱり戦うとお腹が空くよナ!」
アグニが大きく鳴るお腹を押さえる。
死線を越えた後の空腹感は、彼女たちにとって「生きている」という何よりの証でもあった。
「ふふっ、そうだね。早速、食事にしようか!」
シャロは笑顔で立ち上がった。
目の前には、最高の食材――ヨルムンガンドの巨体がある。
ヨルムンガンドの毒の粘液が無い所に手を触れ、そこから魔力を流し込む。
緑色の光が包み込むと、大蛇の巨体から次々と新鮮な植物が芽吹いていった。
瑞々しい「長ネギ」、肉厚な「しいたけ」、束になった「えのき」、さらに大きく葉を広げた「白菜」に、独特の香りを放つ「春菊」。そして白く光沢を放つ新鮮な「卵」と、丸々太った見事な「牛」が現れた。
シャロは手際よく野菜を切り、牛肉を適度な厚さにスライスしていく。
続いて鍋を取り出し、火にかけた。
熱した鍋に牛脂を滑らせると、芳醇な香りが立ち上る。
そこにまずは長ネギと牛肉を投入した。
ジュゥゥゥゥ……!
肉の表面が焼ける音と共に、甘い脂の匂いが空洞に広がる。
ある程度火が通ったところで、シャロは水、砂糖、醤油、酒を注ぎ込み、軽く煮込む。
グツグツと音を立てて煮え立つ鍋の中に、白菜、しいたけ、えのき、そして春菊を敷き詰めていく。
醤油の香ばしさと砂糖の甘い香りが混ざり合い、具材が飴色に染まっていく様子は、見ているだけで喉が鳴る。
最後に生卵を器に溶いて、完成。
「できた!『すき焼き』の完成だよ!」
「おお!死ぬほど美味そうだゾ!!」
アグニが我慢できずにスプーンを伸ばした。
まずは甘辛いタレがたっぷり染みた牛肉を一口。
「――――っ!!この甘じょっぱい味がとっても旨いぞ!」
ヨシュアとエミルも、慎重に鍋をつつき始めた。
「確かに美味いな……野菜にもしっかり味が染みてる」
ヨシュアが春菊を頬張り、感心したように頷く。
「このキノコも美味いな!いくらでも食べられそうだ!」
エミルも笑顔で箸を進める。
そこでシャロが、小皿に用意した黄色い液体を差し出した。
「みんな、この卵に付けて食べると、もっともっと美味しくなるよ!」
だが、その提案に三人の動きがピタリと止まった。
「……おい、シャロ。冗談だロ?」
アグニが珍しく引き気味に器を見つめる。
「それ……生だろ?殻を割っただけの……」
「卵を生で食べるのか……?そんなの食べたら腹を壊すぞ……?」
ヨシュアも難色を示し、エミルも苦笑いを浮かべて後ずさった。
この世界の住人にとって、卵は焼くか茹でるかするものであり、生で食べる習慣は無い、腹を壊すからだ。
「大丈夫だよ!確かに卵は普通生で食べたらいけないんだけど、新鮮で清潔な卵だったら大丈夫だし、とても美味しいんだよ。騙されたと思って食べてみて!」
シャロは証明するように、牛肉をたっぷりの生卵にくぐらせ、口に運んだ。
とろりとした卵黄が肉の塩気をまろやかに包み込み、至福の表情が浮かぶ。
「はぁ……やっぱり、すき焼きにはこれがないとね……」
そのあまりに幸せそうな様子を見て、一番に食欲が恐怖を上回ったのはやはりアグニだった。
「……えぇい、ままよ!シャロが毒を食わせるわけねぇしナ!」
アグニは覚悟を決めると、卵をたっぷり絡めた肉を口に放り込んだ。
一瞬、顔をしかめた彼女だったが、次の瞬間には目を見開いた。
「――っ!?美味い!さっきよりずっと濃厚で、でも後味がすごく滑らかだゾ!この生卵がタレと合わさって最高のソースになってるゾ!」
アグニの絶叫に近い称賛を聞き、エミルとヨシュアも顔を見合わせた。
そして恐る恐る、一口。
「……!……信じられん。生卵特有の臭みが全くない。それどころか、肉の脂っぽさを綺麗に中和している」
「……美味いね。これは新しい発見だ。生卵というものが、これほどまでに料理を完成させるとは」
一度味を知ってしまえば、もう止まらない。
四人は夢中になって鍋をつつき、最後には残ったタレに卵を流し込み、白米にかけて一滴残らず平らげた。
「ふぅ……食った食った。もう一歩も動けねぇゾ……」
アグニが満腹で地面にひっくり返る。
だが、その直後だった。
「なんだか力がみなぎってくるな」
エミルが自分の手を見つめる。
全身の細胞が活性化し、内側から力が溢れ出してくる。
ヨルムンガンドという強力な「ぬし」を食したことで、彼女達の力が飛躍的に上昇したのだ。
そして、その変化が最も顕著に現れたのは、シャロだった。
「あ……っ!」
シャロの身体が、淡い光に包まれ始めた。
もはや見慣れた、進化の合図。
「進化か……今度は一体、何になるつもりだ?」
ヨシュアが興味深げに見守る中、光はどんどん強まり、シャロの輪郭を書き換えていく。
しばらくして光が収まると、シャロはエミルの剣を借り、その刀身を鏡代わりにして自分の姿を確認した。
鏡の中に映っていた自分は、そこまで大きく姿は変わっていなかった。
変化は大きいのと小さいのが1つずつ。
大きな変化は、彼女にあった大きなキノコの笠が完全に消え去っていた事。
小さな変化は、彼女の耳が長く尖るようになっていた事。
「もしかして、エルフに進化したのか、シャロ?」
エミルが同族を見るような目で問いかける。
確かに、その姿はどこからどう見ても高貴なエルフのそれだった。
「いや、それは有り得ん」
ヨシュアが即座に否定した。
「進化の理論上、植物系の魔物が人型種であるエルフに直接進化することは不可能だ。どれだけ姿が似ていても、植物からは植物の魔物にしか進化しないはずだ」
「じゃあなんダ?どう見てもエルフにしか見えないケド……もしかしてまたバロメッツとかの類カ?」
アグニが首を傾げる。
「いや、バロメッツにエルフのような姿の種族は存在しないハズだ……」
さすがのヨシュアもパッとは断定できず、しばらくの間、腕を組んでシャロをじっくりと観察した。
耳の形状、肌の質感、そして彼女から溢れ出す魔力の波導。
やがて、彼女は確信を得たように一つ頷いた。
「……恐らく、『ハイドリアード』だろう」
「ハイドリアード?」
聞き慣れない名前に、シャロが自身の指先を見つめながら繰り返す。
「植物の魔物、ドリアードの上位種だ。強い魔力を持ち、その姿は精霊に酷似してると言う。俺も実物は見た事は無いがな」
「なるほど……確かに、すごく魔力が強くなった気がする。身体が軽くて、世界が今までよりずっと鮮明に見えるよ」
シャロは自分の掌を開閉し、その力強さを確かめる。
それを見たアグニが、期待に満ちた目で詰め寄ってきた。
「ってことはヨ、シャロ!また何か新しい、もっとスゴい食材とか生やせるようになったのか!?」
だが、彼女はゆっくりと首を振った。
「ううん、流石にもう新しい食材はなさそうかな。だって、もうあらかた必要なものは全部生やせるようになっちゃったしね」
「なんだぁ、そうなのか。少し残念だゾ」
アグニが露骨に肩を落とす。
しかし、シャロは彼女の頭を優しく撫でながら、明るい声で続けた。
「その代わり、色々な料理を作れるよ!もう大体の食材は作れるから、楽しみにしてて!」
「ホントか!?やったァ!」
単純なアグニはすぐに機嫌を直し、無邪気に飛び跳ねた。
その様子を見て、エミルは声を上げて笑い、ヨシュアは呆れたように、しかしその口角は微かに上がっていた。
「とにかく、ぬしを食べた事で俺達は力が付いた。8層への入り口ももう近い。この調子で先に行くぞ」
「うん!」
こうして食事を終えたシャロ達は、8層に進む為に、再び歩き始めるのだった。
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