第44食 セレナ 後編
意識が浮上する。
深い水底から、ゆっくりと水面へ上がっていくような感覚。
全身が鉛のように重く、節々が軋むように痛む。
「……ぅ……」
呻き声を漏らすと、すぐに近くから声が聞こえた。
「シャロ!気がついたか!?」
エミルの声だ。
焦りと安堵が入り混じったような、震える声。
重い瞼を開ける。
ぼんやりとした視界が徐々に焦点を結び、エミルの心配そうな顔が映った。
その背後には、アグニ、ヨシュア、そしてカインたちのパーティの面々がいる。
みんな、すでに目を覚ましていたようだ。
誰も彼もが傷だらけで、服はボロボロ、顔には疲労の色が濃い。
それでも、全員が生きてそこにいた。
「エミル……みんな……」
体を起こそうとするが、激痛が走って力が入らない。
「無理をするな。回復魔法をかけたが、まだ傷は塞がりきっていない」
ヨシュアが静かに言った。
彼女はいつも通りの冷静な口調だったが、その顔色は紙のように白く、目の下には隈ができている。
「……セレナは?セレナはどうなったの?」
シャロが一番聞きたかったこと。
意識を失う直前の光景が脳裏に蘇る。
彼女の涙を受け、正気を取り戻したかのように叫び、走り去っていった巨大な背中。
「さあ……俺達が目を覚ました時にはもう居なかった」
カインが重い口を開いた。
「シャロ、お前が最後まで起きていただろう?何があったんだ?」
全員の視線がシャロに集まる。
シャロは、あの時起きたことをありのままに話した。
セレナに食べられそうになったこと。
涙が彼女に落ちた時、本体である頭上のセレナが反応したこと。
そして、彼女が苦しみながらも、自分達を傷つけないように自ら去っていったこと。
「……そうか。あいつ、まだ……」
エミルが唇を噛み締め、拳を強く握りしめる。
目には涙が浮かんでいた。
完全に怪物になり果てたわけじゃない。
あのおぞましい肉体の中に、まだ自分達の大切な仲間であるセレナの心が残っている。
それは希望であると同時に、あまりにも残酷な事実だった。
「しかし、一体アレは何だったんだ……」
カインが独り言のように呟く。
その表情は険しく、何かの思考の迷宮に入り込んでいるようだ。
「吸血鬼の真祖、ヴァンパイアオリジン。それだけでも伝説級の厄災だというのに、そこから更に進化し、あんな異形の姿になるとは……しかも、人語を解し、意思疎通すら可能だった」
魔物は進化すれば知能が上がることはある。
だが、それでも魔物が喋ると言う例はない。
オウム返しのように喋る事はあれど、感情の伴った言語機能を魔物は持っていないのが常識だ。
(クソッ……!)
ヨシュアは、誰にも聞こえないよう心の中で悪態をついた。
(最悪な状況だ……!シャロの件があるからセレナも魔物化してる事は想像が付いたが……まさかあんな化け物になっていたとは……!)
かつて、エミル達パーティを救う為に発動した転移魔術。
友人を救うはずの力が、友人を最強最悪の怪物へ変え、世界を脅かす引き金を引いたかもしれない恐怖。
冷たい汗が背筋を伝う。
ヨシュアは自分の杖を握りしめ、ギリギリと歯ぎしりをした。
それを、シャロだけが見ていた。
ヨシュアが抱えている強烈な罪悪感と焦燥。
詳細はわからないけれど、彼女が自分を責めていることだけは伝わってきた。
「……ヨシュア」
エミルが声をかける。
「何が何だかわからんが……専門家のお前から見てどうなんだ?セレナを……元に戻すことはできるのか?」
その場に重い沈黙が流れる。
誰もが答えを恐れていた。
アレを人間に戻す?
あんな山のような怪物になってしまった存在を?
死んで灰にする以外に、救う道があるとは思えない。
だが、ヨシュアは顔を上げた。
その瞳には、狂気にも似た強い決意の光が宿っていた。
「やってみせる」
断言した。
「俺の命に代えてでも……どんな禁忌を犯してでも、セレナを元に戻してやる。絶対にだ」
それは、自分への戒めであり、罪滅ぼしの誓いでもあった。
原因が自分にあるなら、結末をつけるのも自分の義務だ。
「……そうか。お前がそう言うなら、信じるよ」
エミルが頷く。
根拠なんて無い。
でも、今の彼女達には縋れる藁がそれしかなかった。
「……悪いが、俺達はそこまで付き合う義理は無い」
静かな声で、カインが言った。
冷たい言葉に聞こえるが、その声色に悪意はない。
むしろ、申し訳無さそうな響きがあった。
「今回のレッドドラゴン討伐、そして今のヴァンパイアオリジン戦。俺達のパーティも消耗しきっている。これ以上、あの化け物を追って深層へ進むのは自殺行為だ。命あっての物種だしな」
横で、アリアやガロン、ハロルドも頷いている。
彼らはエミルの命の恩人であり、ここまで協力してくれただけで十分すぎるほどの恩がある。
これ以上、彼女達の個人的な事情……ましてや元仲間を救うという無謀な願いに、彼らを巻き込むわけにはいかなかった。
「わかってる。カイン、お前たちには本当に感謝している。もう十分助けてもらった」
エミルが頭を下げる。
シャロやヨシュアも痛む体を起こして深く頭を下げた。
「ありがとうございました。皆さんがいなかったら、ドラゴンに勝つことも、セレナに会うこともできませんでした」
「礼には及ばんさ。エミルには世話になったしな」
カインがニカッと笑い、シャロの頭にあるキノコの笠をポンポンと叩いた。
「そろそろ俺達は地上に戻る……死ぬなよ、エミル。シャロも、他のみんなもな」
「ああ、必ず生きて帰る」
「じゃあな!」
ハロルドが転移魔法の詠唱を完了させる。
魔法陣がカイン達を包み込み、光の粒子となって消えていった。
火口にはシャロ達四人だけが残された。
静寂が戻ってくる。
マグマの爆ぜる音だけが、遠くで響いている。
「……しかし、アレを元に戻すって言ったって、アテはあるのかヨ?」
アグニが腕を組み、疑わしげにヨシュアを見る。
当然の疑問だ。
相手は前代未聞の進化を遂げた怪物。
治療魔法や解呪魔法でどうにかなるレベルではない。
「あまり悠長な事はできないぞ?セレナが他の誰かに討伐されたらおしまいだ」
エミルが釘を刺す。
6層以降まで来る冒険者は稀だが、皆無ではない。
それに、このダンジョンはだいぶ古い、そろそろ本格的に攻略を考える冒険者も多いはずだ。
そうなれば、討伐は時間の問題だ。
「わかっている……俺は今まで、何百冊もの魔導書を読んできた」
ヨシュアがこめかみを指差す。
「古今東西のあらゆる魔法、禁術、伝承……頭の中には知識がある。だが、多すぎて整理がついていない部分や、忘れている細部もある。それを『記憶遡行』の魔法を使って、総ざらいする」
「記憶遡行……?自分の脳内を探索するってことか?」
「ああ。深層意識に眠る知識の海から、魔物と融合した人の分離に関する術式を探し出す。きっと1つぐらい……何か方法があるはずだ」
それは雲を掴むような話だった。
膨大な知識の中から、存在するかどうかもわからない救済策を探す。
砂漠で砂金を探すようなものかもしれない。
でも、ヨシュアの目は死んでいなかった。
可能性がある限り、彼女は諦めないだろう。
「私達にはどうしようもできないから……ヨシュアに任せるしかないね」
「そうだな。元に戻す方法はヨシュアに任せて、僕達は先に進もう」
エミルが剣を帯に差し直す。
目的は決まった。
セレナを追い、彼女を無力化し、ヨシュアが見つけた方法で元に戻す。
シンプルだが、困難な道のりだ。
シャロ達は、重い足取りながらも、前を向いて歩き出した。
絶望の底で、かすかな希望の光を信じて。
***
一方、地上に戻ったカイン達。
光の粒子が収束し、見慣れたダンジョンの入り口前に4人の姿が現れた。
青い空、白い雲、そして心地よい風。
地獄のような熱気と硫黄の臭いから開放され、全員がその場に座り込んだ。
「はぁ〜……!生きた心地がしなかったぜ……」
ガロンが大の字になって寝転がる。
アリアも聖女らしからぬ格好で地面にへたり込んでいる。
「やっと地上ね……お日様がこんなにありがたいなんて」
「全くね。あんな化け物相手じゃ、寿命が縮むわよ」
ハロルドが額の汗を拭う。
カインも大きく息を吐き、剣を地面に突き刺して体を支えた。
満身創痍だ。
ポーションで傷は塞がっているが、魔力も体力も空っぽだった。
しばらく休息を取っていた彼らだが、ふとハロルドが周囲を見回して眉をひそめた。
「……ねぇ、なんだか変じゃないかしら?」
「……確かに変だな」
「ああ。俺達がダンジョンに入る前は、こんな荒れ果ててなかったな」
ハロルドの言葉に、カイン達も周囲を見る。
確かに、様子がおかしい。
カイン達がダンジョンに潜る時は、自然が沢山の綺麗な場所だった。
だが、今の目の前に広がる光景は荒れ果てた荒野だった。
木々は枯れ、葉を落としている。
地面はひび割れ、草花は茶色く変色して干からびている。
遠くに見える森も、どこか生気を失い、灰色に沈んでいるように見えた。
空気も淀んでいる。
重く、湿ったような不快な空気が漂っていた。
「ああ……これは……」
ガロンが地面の土を手に取り、ボロボロと崩す。
土から水分と魔力が失われている証拠だ。
「まさか、『スタンピード』の前兆か?」
その言葉に、全員の顔色が変わった。
スタンピード、魔物の暴走。
ダンジョンに関連する災害の中でも、最も恐ろしいものの一つだ。
ダンジョンは、地下に溜まった魔素が具現化した場所であり、同時に魔物を生み出す装置でもある。
冒険者が適度に魔物を間引き、最奥の主を倒すことで、ダンジョンの魔力バランスは保たれる。
資源が手に入る財源として、人類はダンジョンを利用してきた。
だが、それはメリットばかりではない。
長い時間ダンジョンが攻略されず、内部の魔素濃度が限界を超えると、ダンジョンは溢れ出したエネルギーを放出するために、内部の魔物を外へと吐き出す。
蓋をした鍋が吹きこぼれるように。
何千、何万という魔物が地上に溢れ出し、周辺の街や村を飲み込む大災害。
それがスタンピードだ。
ダンジョンの周りの土地が荒れ始めるのは、それの予兆のようなものだ。
ダンジョンが膨張しようとして、周囲の土地から魔力を強制的に吸い上げてしまうからだ。
カイン達がダンジョンに入る前は、ここまで酷くなかった。
つまり、この数日間で急激に進行しているということだ。
原因は明らかだ。
あの6層の異常事態。
セレナのヴェノムヴァンパイアへの進化。
あれだけの強大な魔物たちが暴れまわったことで、ダンジョンの活性化が極限まで達してしまったのだろう。
「……おいおい、洒落にならねえぞ。もしあの中の奴らが全部外に出てきたら……」
「この国が、いや、世界が滅びるかもしれん」
誰も笑えなかった。
特に、あのヴェノムヴァンパイアが出てきたら、誰が止められるというのか。
カインは、背後のダンジョン入り口を振り返った。
暗く口を開けた洞窟が、まるで世界を飲み込もうとする巨大な怪物の口に見えた。
「……もう、お前たちだけの問題ではなくなってきたぞ、エミル」
友の安否を気遣う余裕は、もうないのかもしれない。
これは、人類全体の脅威になりつつある。
「国に報告だ。大至急な」
カインは剣を引き抜き、仲間たちに号令をかけた。
彼らの戦いは終わったが、世界にとっての戦いは、これからが本番なのかもしれない。
荒涼とした大地を、カイン達は全速力で駆け抜けていった。
背後に迫る、破滅の足音を止める為に。
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