第40食 レッドドラゴン 中編
アグニの拳がレッドドラゴンの逆鱗を捉えた。
確かな手応え、肉を打ち据える衝撃。
それは間違いなく、この巨大な怪物の急所を穿ったはずだった。
「グギャアアアアアアッ!!?」
レッドドラゴンの絶叫が火口の壁に反響し、鍾乳石のように垂れ下がる溶岩を震わせる。
巨体がぐらりと揺らぎ、拘束していた氷と蔦が弾け飛ぶ。
アグニは反動を利用して地面に着地し、ザザッと滑りながら勝利を確信して顔を上げた。
「へっ……やった、だろ……?」
しかし、その期待は瞬時に絶望へと塗り替えられた。
「グルルルル……ルアアアアッ!!」
レッドドラゴンは倒れない。
充血した黄金の瞳は、痛みによって濁るどころか、より鮮烈な殺意を宿してアグニを見下ろしていた。
急所を殴られた怒りが、生物としてのリミッターを外したのだ。
「嘘だろ……まだ立ってるのかよ!?」
「マズい……!アグニ、離れろッ!」
ヨシュアの警告は遅かった。
氷の足枷を力尽くで粉砕したドラゴンが、その丸太のような右足を、真下にいるアグニめがけて振り下ろしたのだ。
ドオオオオオンッ!!!
地面が陥没し、土煙が舞う。
アグニは咄嗟に反応し、直撃だけは避けた。
だが、回避しきれなかった下半身の一部を、ドラゴンの巨大な爪が掠め、そのまま地面ごと踏み潰した。
「がああッ!!?」
アグニの悲鳴、骨が軋む嫌な音が響く。
そのままドラゴンの足が、アグニを地面に縫い付ける重石となる。
「アグニッ!!」
シャロが叫んだ。
思考するよりも早く、彼女は駆け出していた。
両手の平から魔力を放出する。
編み上げられたのは、鋼鉄の硬度を持つ緑の刃。
「やめろおおおおっ!」
シャロは草の聖剣を握り締め、ドラゴンの足元へと突進する。
狙うはアグニが位置を暴いてくれた逆鱗。
そこを切り裂けば、今度こそ終わらせられるはずだ。
だが、竜は学習する。
足元に群がる羽虫が、己の弱点を狙っていることを理解したのだ。
バサアアアアッ!!!
突風、シャロが剣を振り下ろそうとした瞬間、凄まじい風圧が彼女を吹き飛ばした。
レッドドラゴンの巨大な翼が展開され、その巨体が軽々と宙に浮いたのだ。
「しまっ……空に!?」
シャロが強風に煽られながら空を見上げる。
アグニを踏みつけていた足が離れ、アグニ自身は解放されたものの、地面に倒れ伏して動けない。
そして頭上には災厄の影。
ドラゴンは滞空し、その口元に再び白熱の光を溜め込み始めた。
地上にいる獲物を安全圏から焼き払うつもりだ。
「さっきのブレスが来るぞ!シャロ、アグニを連れて走れ!」
ヨシュアが叫ぶ。
シャロはアグニの元へ滑り込み、その身体を抱え上げた。
「アグニ、しっかりして!」
「っぐ……わりぃ、足が……」
アグニの足はどす黒く変色し、自力で走れる状態ではない。
直後、空から炎の雨が降り注いだ。
ゴオオオオオオオッ!!
それは広範囲を焼き尽くす散弾のような火球だった。
シャロはアグニを背負い、ヨシュアは回転しながら避け、必死に岩陰から岩陰へと逃げ回る。
逃げた先から岩が溶け、地面がガラス化していく。
「ハッ、やっこさん相当怒ってるようだな……!」
ヨシュアが額の汗を拭いながら悪態をつく。
一方的に空から攻撃されれば、いずれ隠れる場所もなくなり、全滅する。
だが、ヨシュアの目は死んでいなかった。
「アグニが見つけたチャンスだ、無駄にするな! ここで決めるぞ!」
彼女は杖を掲げ、自身の身体に風の魔力を纏わせた。
シャロはアグニを比較的安全な岩の窪みに隠すと、背中に魔力を集中させた。
バサリと生え出したのは、葉脈の走る巨大な『緑葉の翼』。
この火口に行く時に使ったのと同じものだ。
「行くぞっ!」
ダンッ!
二人は同時に地面を蹴った。
重力から解き放たれ、熱気が渦巻く空へと舞い上がる。
戦場は空へ。
マグマの海の上、高熱の気流が乱れ飛ぶ空中で、二人の冒険者と一匹の竜が対峙する。
「グルァッ!」
レッドドラゴンが不快そうに鼻を鳴らし、迎撃のブレスを吐き出した。
だが、二人は蝶のように舞った。
「っと、危ない!」
ヨシュアは風の魔法で身体をジェット機のように加速させ、炎の隙間を縫うように飛翔する。
シャロは葉の翼を羽ばたかせ、不規則な軌道で熱線を回避する。
万が一直撃すれば即死、掠っただけでも致命傷。
死の雨の中を潜り抜け、二人はドラゴンへと肉薄する。
「こっちだ、このトカゲ野郎!」
ヨシュアが杖を振るう。
無数の氷柱が出現し、ドラゴンの顔面へと殺到した。
硬い鱗には弾かれるが、目や鼻を狙うことで注意を逸らすことには成功する。
「グォッ!?」
鬱陶しい氷の礫に、ドラゴンが顔をしかめてヨシュアを睨む。
その一瞬の隙。
ドラゴンの意識がヨシュアに向いた瞬間、シャロが死角である腹下へと滑り込んだ。
「見つけた……!」
アグニが拳を叩き込んだ場所。
喉元の少し下、他の鱗とは逆さに生えた『逆鱗』。
そこはアグニの一撃によって周囲の肉が腫れ上がり、僅かに鱗が浮き上がっていた。
「これで……終わりだッ!」
シャロは草の聖剣を構え、全身の魔力を刃に込める。
加速をつけて接近し、逆鱗の隙間に切っ先を突き立てようとした。
しかし、レッドドラゴンの反応速度は、その巨体からは想像もつかないほど鋭敏だった。
腹下に潜り込まれた気配を察知した瞬間、空中で身体を捻り、強引に軸をずらしたのだ。
キイイインッ!!
シャロの剣は逆鱗を捉えきれず、隣の硬い鱗に弾かれた。
「なっ!?」
「グルアアアアッ!」
回避と同時に、ドラゴンの胴体がシャロに叩きつけられる。
質量による暴力。
それはタックルというより、空飛ぶ岩盤の衝突だった。
「があッ!!」
「シャロ!」
シャロは木の葉のように吹き飛ばされ、空中できりもみ回転する。
「チッ……小癪な真似を!なら、これでどうだ!」
ヨシュアの瞳が冷徹な光を帯びる。
彼女は空中で静止し、杖を両手で握り締めた。
展開される魔法陣は三重。
冷気が凝縮され、周囲の熱気さえも凍てつかせる。
「吼えろ!《アブソリュート・ライガー》!!」
ヨシュアの杖から放たれたのは、氷で形成された巨大な猛虎だった。
ドラゴンの頭部ほどもある氷の虎が、咆哮とともにレッドドラゴンへと飛び掛かる。
最大出力の一撃。
ドゴオオオオオオオオオンッ!!
直撃。
流石のレッドドラゴンも、空中でその衝撃を受け止めることはできなかった。
巨体が吹き飛び、火口壁の崖へと激しく叩きつけられる。
「グ、ギャァ……ッ!」
崖が崩れ、大量の岩石と共にドラゴンがずり落ちる。
腹部には氷の牙による傷跡。アグニの打撃と合わせ、ダメージは確実に蓄積している。
だが、それでも竜の命の火は消えない。
「グルルルルッ!!」
壁に張り付いたまま、レッドドラゴンが口を大きく開けた。
狙いは、魔法を放った直後で硬直しているヨシュア。
「くっ……《アイス・シールド》!」
ヨシュアは即座に分厚い氷の盾を展開する。
ゴオオオオオオッ!!!
しかし、放たれたドラゴンのブレスは、怒りによって火力が跳ね上がっていた。
氷の盾が蒸発する、防ぎきれない。
「ぐああっ……!」
炎の奔流がヨシュアを飲み込む。
直撃は免れたものの、ヨシュアの身体は焼き尽くされ、煙を上げながら落下していく。
「ヨシュア!!」
体勢を立て直したシャロが悲鳴を上げる。
ヨシュアは意識があるのかないのか、力なく地面へと落ちていく。
助けに行きたい、けれど、今ドラゴンから目を離せば全員死ぬ。
幸い、今レッドドラゴンの注意はヨシュアに向いている。
攻撃するなら、今が絶好のチャンス。
「伸びろッ!《ローズ・ウィップ・ランス》!」
シャロの腕から、鋼鉄の棘を持つ無数の茨が射出される。
それは槍のように鋭く硬質化し、一直線にドラゴンの逆鱗を目指す。
崖に張り付いて動きの止まった今なら、当てられる。
シュバババッ!
茨の穂先が、剥がれかけた逆鱗の隙間に突き刺さった。
「グギャッ!?」
ドラゴンの動きが止まる。
深く刺さった、あともう少し押し込めば、トドメを差せる。
「貫けええええええッ!!」
シャロが叫び、魔力を注ぎ込む。
だが、レッドドラゴンは最期の力を振り絞り、茨に向かって灼熱のブレスを放つ。
ゴオオオオォッ!!
「くっ……!」
茨が燃やされる。
植物である以上、炎は天敵だ。
鋼鉄の硬度を持っていても、炭化してしまえば脆い灰に過ぎない。
せっかく通った刃が、ボロボロと崩れ落ちる。
そして、ドラゴンは自由になった首を巡らせ、再びブレスを吐こうと口を開けた。
回避不能。
(あ、死ぬ――)
シャロの脳裏に走馬灯がよぎる。
鋭い牙が並ぶ口腔。奥に見える発光体。
世界がスローモーションになる中、彼女はその死を受け入れそうになった。
その時だ。
ヒュンッ。
何かが、風を切って飛んできた。
それは、ただの黒い塊。
火口の底ならどこにでも転がっている、変哲もない溶岩石。
それが、ブレスを吐こうと大きく開かれたドラゴンの口内へ、吸い込まれるように飛び込んだ。
ゴッ!
異物が喉に詰まる音。
まさにブレスが放出されようとしていたその瞬間、排気口が塞がれたのだ。
ドオオオオオオオンッ!!!
体内での暴発。
行き場を失った熱エネルギーが逆流し、ドラゴンの口腔内で爆発した。
「グゴギャアアアアアアッ!!?」
レッドドラゴンは顔面から煙を吹き出し、その反動で崖から弾き飛ばされた。
巨体が空中で錐揉みし、地面へと激突する。
シャロはその爆風に煽られながらも、なんとか着地した。
「い、今のは……」
シャロが視線を向ける。
岩陰の窪み、そこには、アグニが倒れていた。
「へっ……一撃入れてやった……ゾ……」
「アグニ……!」
潰れた足で立ち上がることもできない状態で、彼女は最後の最期まで諦めていなかったのだ。
あの岩がなければ、シャロは今頃消し炭になっていただろう。
シャロはへたり込む。
魔力は空っぽだ。
少し離れた場所では、落下したヨシュアが黒焦げになったローブのまま、動かない。
アグニも限界を超えている。
静寂が戻る。
終わった……のか?
ズザッ……。
砂利を踏む音がした。
シャロは戦慄と共に、土煙の向こうを見た。
「グルル……ル……」
ボロボロの巨体。
顔の半分が焼け爛れ、逆鱗からは血が滴り、翼は折れ、毒が回り、足は凍りついている。
満身創痍、死に体。
けれど、レッドドラゴンは立ち上がっていた。
その瞳から、王者の矜持という名の執念だけを燃え上がらせて。
「嘘……でしょ……」
シャロの声が絶望に震える。
もう、指一本動かせない。
ヨシュアも、アグニも、物言わぬ骸のように倒れている。
ドラゴンが、ゆらりと三人を睨みつけた。
生き残った獲物を、確実に仕留めるために。
大きく、息を吸い込む。
喉が詰まっていようが、口が裂けようが関係ない。
最後の命を燃やした、特大のブレスの予兆。
(ごめん、みんな……)
シャロは目を閉じた。
全滅。
その二文字が脳裏を埋め尽くす。
熱気が肌を焼く。死が迫る。
――その瞬間。
「《ブリザード・ランサー》!」
凛とした声と共に、戦場が凍りついた。
ドスッ!
ドラゴンの頭に氷の大槍が直撃し、炎のブレスが中断する。
「!?」
シャロが目を開ける。
ドラゴンの動きが止まった一瞬の隙。
ザッ!
一人の人影が、疾風のごとく戦場を駆け抜けた。
その影は、動けないドラゴンの懐へ迷いなく飛び込むと、手にした白銀の長剣を煌めかせた。
「はあああああッ!!」
鋭い気合と共に、剣閃が走る。
狙いは一点。
アグニが殴り、シャロが刺し、傷口が開いたままの『逆鱗』。
ズドンッ!!
今度こそ、その刃は深々と急所まで貫通した。
「――――ッ」
レッドドラゴンの身体が、大きく痙攣した。
声にならない断末魔が漏れる。
黄金の瞳から光が消え、巨大な質量がゆっくりと傾いていく。
ズズウウウン……。
地響きを立てて、赤い災厄が倒れ伏した。
もう二度と、動く気配はない。
シャロは呆然と、その光景を見つめていた。
ドラゴンの骸の前に立つのは五つの人影。
「助かった……の……?」
安堵と疲労が同時に押し寄せ、シャロの意識はそこで暗転した。
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