第39食 レッドドラゴン 前編
シャロ、アグニ、ヨシュアの三人は、熱気で歪む視界を睨みながら、慎重に、かつ迅速に歩を進めていた。
火口の底に広がるのは、煮えたぎるマグマの海と、黒く焼け焦げた岩塊が点在する死の世界だった。
「……静かすぎるな」
ヨシュアが低い声で呟く。
マグマが跳ねる音以外、生物の気配がない。
フレイムレオのような魔物さえ、この領域には近寄らないのだ。
それが何を意味するか、彼女たちは痛いほど理解していた。
その時だった。
ズズゥ……ッ
大地が、いや、空間そのものが震えたような重低音が響いた。
それが何かの足音だとするなら、相当に巨大な何かが歩いた音。
「ッ!隠れろ!」
ヨシュアの鋭い指示が飛ぶ。
シャロとアグニは弾かれたように動き、近くにあった大きな岩陰へと滑り込んだ。
心臓が早鐘を打つ、背筋を冷たい汗が伝う。
本能が警鐘を鳴らしている、かつて味わった絶望が記憶の底から這い出してくるようだ。
「……来る」
シャロが震える声で囁いた直後。
岩陰から覗き見た視界の先、赤熱する陽炎の向こうから、絶望的な質量の「影」が姿を現した。
「嘘だろ……でっか……」
アグニが思わず声を漏らし、すぐに口を押さえる。
そこにいたのは、全長二十メートルはゆうに超えるであろう、真紅の巨体だった。
レッドドラゴン、第六層の支配者にして、生ける災害。
全身を覆う鱗はルビーのように赤く、かつダイヤモンドよりも硬く輝いている。
畳まれた翼は広げれば空を覆い尽くすほど巨大で、太い四肢は岩盤を軽々と踏み砕く。
そして、その口からは常に白熱した炎が漏れ出し、周囲の空気を焼き焦がしていた。
圧倒的な威圧感、ただそこに存在しているだけで、呼吸することさえ困難に感じる。
「息を殺せ、じっとしていろ」
ヨシュアが極限まで声を潜めて命じる。
その表情は、いつもの冷静さを保っているように見えるが、杖を握る指関節は白くなっていた。
「絶対に見つかるな……見つかったら、その瞬間に終わると思え」
三人は岩に張り付き、自身の鼓動さえ止めようとするかのように息を潜めた。
ドラゴンの足音が近づいてくる。
ズシン、ズシン。
一歩ごとに地面が揺れ、岩陰に隠れた彼女たちの体も震える。
(通り過ぎて……お願い、通り過ぎて……!)
シャロは心の中で祈り続けた。
アグニもまた、いつもの好戦的な笑みを消し、冷や汗を流して耐えている。
時間が、引き伸ばされていく。
ほんの数分、けれど、彼女たちにはそれが何時間にも、何日にも感じられた。
心臓の音がうるさい。
ドクン、ドクン、ドクン。
自分の心音がドラゴンの耳に届いてしまうのではないかという錯覚。
ズシン。
足音が止まった。
すぐ近くだ、岩を一つ隔てた向こう側に、あの怪物がいる。
熱い吐息が、風に乗って流れてくる。
(行った……?まだ……?)
シャロが僅かに顔を上げ、様子を窺おうとした、その時。
ギロリ。
岩の隙間から、黄金色に輝く巨大な眼球が、こちらを覗き込んでいた。
縦に割れた瞳孔が、収縮する。
「――ッ!?」
目が合った。
その事実に、シャロの思考が真っ白に染まる。
意思疎通など不可能な、絶対的な捕食者の瞳。
レッドドラゴンは、隠れている羽虫たちを見つけ、口元を醜悪に歪めた。
そして。
スゥゥゥゥゥゥゥ…………。
周囲の空気が、掃除機のようにドラゴンの口へと吸い込まれていく。
肺に溜め込まれる膨大な熱量、喉元の鱗が、内側からの光で白く発光する。
「避けろォォッ!!」
ヨシュアの絶叫が弾けた。
思考より先に体が反応する。三人はバネのように弾け、左右へと散開した。
直後。
ゴオオオオオオオオオオッ!!!
閃光、そして轟音、ドラゴンが灼熱のブレスを吐き出した。
三人が隠れていた巨大な岩が一瞬で赤熱し、真っ黒な炭となって吹き飛んでいった。
「ひっ……!」
シャロが転がりながら悲鳴を上げる。
余波だけで髪の先がチリチリと燃える。
あれが直撃したらどうなるか、シャロは身を持って知っていた。
間違いなく死ぬ、と。
「どうする!?逃げる!?」
シャロが叫ぶ。
この圧倒的な破壊力を前にして、戦うという選択肢が霞む。
「馬鹿を言え!あいつから逃げられないのはわかっているだろう!」
ヨシュアが熱波を魔法障壁で防ぎながら怒鳴り返す。
かつてレッドドラゴンから逃げきれず、全滅した記憶が蘇る。
逃げた所で追いつかれ、あの時と同じくブレスで焼き払われて終わりだ。
「戦うぞ!ここでやるしかない!」
「へっ、待ってましたァッ!!」
ヨシュアの覚悟を聞いた瞬間、アグニが突っ込んだ。
彼女は獣のように加速し、ドラゴンの懐へと飛び込む。
「喰らえトカゲ野郎ッ!」
しかし、レッドドラゴンは巨体に似合わず俊敏だった。
虫が寄ってきたのを払うかのように、前脚の爪を振るう。
ブォンッ!!
風切り音が爆発音のように響く。
フレイムレオの速度を超えている。
アグニは目を見開き、素早く横へと跳んだ。
数センチ横を死の爪が通り過ぎる。
「食らエッ!!」
彼女はその回避の勢いのまま、ドラゴンの足指に拳を叩き込んだ。
「オラァッ!!」
ドオオオオオンッ!!
激しい衝撃波と轟音。
アグニの怪力は、岩盤程度なら軽く砕く威力がある。
だが。
「……いっっってええええ!!」
悲鳴を上げたのはアグニの方だった。
レッドドラゴンはビクともしていない。
殴られた足の鱗には、傷一つついていなかった。
逆に、殴ったアグニの拳から鮮血が滲んでいる。
「硬っ!?なんだこいつ、鉄板どころじゃないゾ!」
「逆鱗以外を狙うなと言っただろう、この単細胞!」
ヨシュアが大声で罵倒する。
通常の鱗は鋼鉄をも遥かに上回る硬度だ、まともに殴り合えばこちらの体が壊れる。
「グルルァッ!」
ドラゴンがいらついたように、再びアグニを踏み潰そうと足を上げる。
「させない!」
シャロが動く。
彼女は両腕を振り上げ、周囲の空間に無数の葉を生成した。
「《リーフ・ストーム》!」
緑の嵐が巻き起こり、ドラゴンの顔面へと殺到する。
物理的なダメージは皆無だが、視界を塞ぐ目くらましだ。
同時に、ヨシュアも杖を振るう。
「食らえ!《アイシクル・バレット》!」
巨大な氷塊が何個も生成され、ドラゴンの顔面に向かって飛翔する。
二人の連携による牽制。しかし、王者は小細工を許さない。
「グオオオォッ!!」
ドラゴンは鬱陶しそうに吠え、軽く炎を吐き出した。
たったそれだけでシャロの葉っぱの嵐は瞬時に燃え尽き、ヨシュアの氷の槍は蒸発して霧散した。
「チッ、出力が違いすぎる!」
炎は勢いを殺さず、そのまま二人へと襲いかかる。
ブレスの余波が熱風となって二人を吹き飛ばす。
「きゃあっ!」
「ぐぅッ!」
地面を転がり、受け身を取る二人。
直撃は避けたが近くを通るだけで皮膚が焼けるような熱さだ。
「逆鱗!どこだ逆鱗!!」
そんな灼熱の暴風雨の中、アグニだけがドラゴンの足元を走り回っていた。
ブレスを吐くために首を持ち上げた瞬間、足を踏み下ろす瞬間、尻尾が薙ぎ払われる瞬間。
彼女は死と隣り合わせのダンスを踊りながら、目を皿のようにしてドラゴンの体表を凝視していた。
「クッ!どこにもないゾ!」
アグニは内心で悪態をつく。
この巨大な体の中から、たった一枚、掌サイズの鱗を探せというのだ。
砂漠で特定の砂粒を探すような無理難題。
「こんなデカくて暴れ回る奴の鱗1枚を探すなんて無理だろ!」
愚痴が口をついて出る。
ドラゴンの尻尾が風を切り、アグニの頭上を通過する。
風圧で体が浮きそうになるのを必死に耐える。
「……でも、アタシがやらなきゃ!」
アグニは歯を食いしばり、顔を上げた。
シャロとヨシュアが必死に時間を稼いでくれている。
自分が諦めたらそこで終わりだ。
全員、ここで死ぬ。
「やってやるヨ!アタシの目は誤魔化せないゾ!」
アグニは再び加速し、ドラゴンの懐へと潜り込む。
一方、シャロとヨシュアは防戦一方だった。
ドラゴンの注意をアグニから逸らすため、あえて目立つ魔法を放ち、ヘイトを集める。
「こっちよ!こっちを狙いなさい!」
「ハッ!悔しければ当てて見ろ木偶の坊!」
挑発に乗ったドラゴンが二人に狙いを定める。
振るわれる爪、薙ぎ払われる尻尾、吐き出される炎。
それらを、文字通り死ぬ気で回避し続ける。
一瞬でも足を止めれば死ぬ。
「くっ、はぁ、はぁ……!アグニ、まだか!まだ逆鱗は見つからないのか!」
ヨシュアが苛立ちを隠せずに叫ぶ。
魔力の消耗が激しい、このままではジリ貧だ。
「暴れ回るから見つけられないんだよ!なんとかあいつの動きを止めないと!」
シャロが叫び返し、力を使おうとする。
「余計な力を使うな!あいつの動きを止めるのは、全力を出して数秒が限界だ!」
ヨシュアが即座に却下する。
中途半端に動きを止めても、逆鱗の場所がわからなければ意味がない。
それに、一度拘束魔法を見せれば、ドラゴンは警戒して二度目は通じなくなるだろう。
「そしてそれは、逆鱗に一撃を与える時に使う切り札だ!だからアグニが逆鱗を見つけるまで待て!あいつを信じろ!」
ヨシュアの言葉に、シャロは唇を噛み締め、頷いた。
「わかった……!アグニを信じる!」
シャロは防御と回避に専念し、再びドラゴンの猛攻を凌ぎ始めた。
その頃、アグニは極限の集中力の中にいた。
汗が目に入るのも構わず、動体視力をフル稼働させてドラゴンの身体を穴が開くほど見つめる。
腹の下、脇の下、太ももの内側。
ない。
どこにも、逆さに生えた鱗なんて見当たらない。
「クソッ、動きすぎて見えねェ!」
ドラゴンは常に暴れている。
その巨体が動くたびに、視界がぶれ、鱗の並びを確認することさえ困難になる。
アグニの苛立ちが頂点に達した。
「あーもうッ!ジタバタ暴れんなこのクソトカゲ!!」
アグニは足元にあった手頃な岩を拾い上げると、渾身の力でドラゴンの頭めがけてブン投げた。
「黙って止まれェッ!!」
ドゴッ!
投げられた岩は、ドラゴンの顎のあたりに命中し、砕け散った。
ダメージなど皆無だ、蚊に刺された程度だろう。
だが、ドラゴンは確かに反応した。
足元をチョロチョロする羽虫が、生意気にも石を投げてきたことに。
ピタリ。
ドラゴンが一瞬、動きを止めた。
そして、ゆっくりと首を下げ、足元のアグニを睨みつけるために顔を近づけた。
その黄金の瞳には、明確な侮蔑と殺意が宿っている。
「見つかった!」
「まずいッ!」
動きを止めたアグニを見て、シャロとヨシュアが焦りの声を上げる。
真正面からドラゴンと対峙するなど自殺行為だ、ブレスを吐かれれば避けようがない。
だが、アグニの目はドラゴンの瞳を見ていなかった。
彼女が見ていたのは首を下げたことで露出した、喉元から胸にかけてのライン。
顎を引いたことで、鱗同士の重なりが広がり、その奥が見えた。
そこにあった、喉仏のやや下。
硬い鱗の隙間に隠れるようにして、周囲の鱗とは明らかに流れの違う、一枚の鱗。
上下が逆さにつき、わずかに色が薄いその場所。
「……へっ」
アグニの口角が吊り上がる。
確信、本能が「そこだ」と告げている。
「見つけたぞ!逆鱗ッ!!顎の下ッ!!」
アグニが吠えた。
その声は戦場に響き渡り、ヨシュアとシャロの耳にも届いた。
同時に、レッドラゴンの耳にも。
弱点を見抜かれたことを悟ったのか、あるいは単に目の前の虫を排除するためか。
「グルアアアアッ!」
ドラゴンは怒りの咆哮を上げ、右足を高く振り上げた。
明確にアグニを踏み潰す動き。
「っとぉ!」
アグニは紙一重で横に飛び退く。
ズドオオンッ!!
地面が陥没し、衝撃波がアグニの体を揺らす。
だが、体勢は崩さない。
「シャロ、今だッ!動きを止めるぞ!」
ヨシュアの号令が飛んだ。
待っていた瞬間。切り札を切る時だ。
「了解だ!《ギガ・フリージング》ッ!!」
ヨシュアが杖を地面に突き刺し、残存魔力の全てを注ぎ込む。
絶対零度の冷気が爆発的に広がり、ドラゴンの足元を一瞬で氷漬けにする。
分厚い氷塊がドラゴンの足を地面に縫い止める。
「グウッ!?」
ドラゴンが足を上げようとするが、氷の鎖は砕けない。
そこへ、シャロが追撃をかける。
「逃がさないよ!《フォレスト・バインド》!」
地面から極太の茨と蔦が無数に伸び上がり、ドラゴンの胴体、首、翼へと絡みつく。
鋼鉄よりも強靭な植物の鎖が、ドラゴンの動きを物理的に封じ込める。
「グオオオオオッ!!」
レッドドラゴンが全身の筋肉を膨張させ、氷と蔦を引きちぎろうともがく。
ミシミシ、バキバキと音が鳴る。
長くは持たない、数秒で引きちぎられるだろう。
だが、その数秒があれば十分だ。
「行けええええッ!アグニイイイイッ!!」
シャロとヨシュアの叫びが重なる。
二人が作り出した、千載一遇の好機。
「おうよッ!!」
アグニは右手に全身全霊の力を込めた。
足の筋肉が悲鳴を上げるほど踏み込み、爆発的な跳躍を見せる。
「うらあああああッ!!」
高く、高く。
氷漬けになったドラゴンの足を足場にして、さらに高く。
アグニの体は砲弾となって、露出したドラゴンの喉元へと迫る。
狙うは一点、逆さに生えた、あの鱗。
ドラゴンが目を剥き、口を開けて炎を吐こうとする。
だが、遅い。
「そこだッ!!」
アグニの拳が、逆鱗に突き刺さった。
ズドオオオッ!!!
最初に足を殴った時のような、硬い鋼を殴る感触ではない。
ズブズブとめり込むような、柔らかい肉の手応え。
そして、その奥にある急所を、衝撃が貫通する感覚。
「グギャアアアアアアッ!!?」
レッドドラゴンが、聞いたこともないような絶叫を上げた。
苦痛、激痛、絶対的な王者が初めて味わう、生の恐怖。
激しい衝撃と共に、ドラゴンの巨体がぐらりと揺らいだ。
拘束していた氷と蔦が、ドラゴンののたうちによって粉砕される。
アグニは反動で地面に着地し、ザザッと滑りながら体勢を立て直した。
「やったか!?」
シャロが叫ぶ。
急所への渾身の一撃、並の魔物なら即死、ドラゴンであっても致命傷のはずだ。
ドラゴンはよろめき、口から血の混じった煙を吐き出している。
だが。
「グルルルル……ルアアアアッ!!」
レッドドラゴンは、倒れなかった。
充血した瞳でアグニを睨みつけ、怒りと殺意を倍増させて踏み止まったのだ。
その生命力は、理屈を超えていた。
「嘘……まだ倒れないの!?」
「チッ、化け物が……!」
ヨシュアが舌打ちする。
渾身の一撃を入れてもなお、王者は沈まない。
戦いはまだ、終わらない。
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