第26食 タルト
遺跡の中の石造りの回廊は、似たような景色が延々と続いていた。
崩れかけた柱、風化したレリーフ、苔むした床。
目印になりそうなものは少なく、不用意に進めば一瞬で方向感覚を失うだろう。
「この道は……右だね」
先頭を歩くシャロが、迷うことなく指示を出す。
彼女の歩調には一点の曇りもない。まるで、自分の家の庭を歩いているかのようだ。
「ダメだ、アタシにゃさっぱりわからん。ここもまるで迷路みたいだナ。さっき通った道と同じに見えるゾ」
中衛を歩くアグニが、目を回したように頭を振った。
「ダンジョンというのは人を迷わせるように作られているからな。物があるかどうかの違いしかない」
しんがりを歩くヨシュアが、淡々と言った。
「それにしても、よく迷わないよなシャロは」
アグニが感心したように、前を行く小柄な背中を見つめる。
シャロの背中からは、感情に合わせて揺れる茨や、美しい花飾りが覗いている。
「アタシなんか、二つ曲がった時点でもうどっちが北かもわかんなくなるゾ」
「シャロの記憶力は凄いからな。一度覚えた道や地形は決して忘れない」
ヨシュアが同意するように頷いた。
かつてパーティを組んでいた頃、幾度となくその能力に助けられた記憶が蘇る。
「俺達も何度助けられたことか。魔術師の俺が言うのもなんだが、探知魔法よりもシャロの脳内地図の方が信頼できる」
「へぇー、すっげぇなぁ。やっぱシャロが居ないとダメだなアタシ達は」
アグニがニカッと笑い、自分の角をポリポリと掻いた。
その言葉には、相棒への全幅の信頼と、自分への卑下が入り混じっている。
それを聞いたヨシュアは、鼻で笑って冷たく言い放った。
「……お前と一緒にすんな、木偶の棒」
「ぶっ!?」
アグニが噴き出した、巨体がガクンと揺れる。
「で、木偶の棒って……!お前、またサラッと酷いこと言ったナ!?」
「事実だろ。脳みそまで筋肉でできているお前と、俺を同列に語るな」
「なんだとコラァ!この筋肉が役に立ってるんだろうガ!」
ギャーギャーと騒ぎ始める二人。
遺跡の静寂を破るその喧噪は、しかし冒険者らしい頼もしさでもあった。
シャロは苦笑しながら振り返ろうとした、その時だ。
「……ストップ!二人とも静かに!」
シャロの鋭い声に、アグニとヨシュアが瞬時に口を閉ざし、臨戦態勢をとる。
冗談交じりの空気は霧散し、ヒリつくような緊張感が場を支配した。
「何か来る……正面、広間の奥!」
シャロが指差した先。
暗闇の奥から、ジャリ……ジャリ……という、何かを引きずるような音が近づいてくる。
そして、鳥の鳴き声を低く歪ませたような不気味な咆哮。
闇の中から姿を現したのは、三体の異形だった。
鶏のトサカと鋭い嘴を持ちながら、尻尾は巨大な蛇の頭になっている。
二体はおおよそ3メートルと言ったほどのサイズか。
だが、中央にいる一体は違った。
一回りも二回りも大きい。
そして何より、その眼球が異様なほど大きく、真っ赤にギラついていた。
「……バジリスクと、コカトリスか」
ヨシュアが呻くように言った。声に焦りが滲む。
バジリスク、鶏の身体に蛇の尾を持つ狂暴な魔物だ。
猛毒を持ち、動きも素早い。
「で、あのデカいのが親玉ってわけカ?」
アグニが拳を鳴らす。
「ああ。バジリスクの上位種、コカトリスだ。バジリスクが長い年月を経て進化し、更に大きく強くなった個体……そして、最悪の能力を備えている」
ヨシュアが警告を発する。
「『石化の魔眼』だ。あいつの目から放たれる光線は、生物を瞬時に石に変える。いいか、絶対に受けるなよ?今の俺達に石化を治す手段はないからな!」
石化、高価な治療薬か高位の聖魔法がなければ永遠に石像として朽ち果てることになる、恐ろしい状態異常だ。
「アグニは左右のバジリスク二体をお願い!私は……あのコカトリスを抑える!」
「おう!わかったゾ!」
すかさず魔物たちが襲いかかってきた。
「シャアアアアッ!!」
バジリスクとコカトリスが同時にこちらへ向かって来る。
「まずは挨拶代わり!《リーフ・カッター》!」
シャロが展開した緑の刃が弾丸となって射出される。
風切り音が鳴るが、コカトリスの反応速度は異常だった。
巨体に見合わぬ敏捷性で横に跳び、攻撃を回避する。
「速い……!」
驚くシャロの頭上から、巨大な影が落ちてくる。
コカトリスが跳躍し、鎌のような鋭い爪を振り下ろしてきたのだ。
「っ!」
シャロは素早く横に跳んだ。
ガガガガッ!
石畳の床が爪によって抉られ、火花と粉塵が舞い上がる。
直撃すれば、植物の身体など容易く切り裂かれる威力だ。
シャロは起き上がりざまに、一本の草の剣を生成した。
鋼鉄に匹敵する硬度を持たせた緑の剣。
それを手に持ち、コカトリスの身体へと斬りかかる。
だが、コカトリスは素早い。
軽やかに横に跳んでシャロの攻撃を避けると、尾を鞭のようにしならせた。
シャロはバックステップで距離を取る。
攻防は一進一退。
だが、シャロには常に「目」への警戒が必要だった。
神経を極限まで研ぎ澄ます。
そんな攻防が数合続いた時だった。
コカトリスのその淀んだ赤い瞳が、ドクンと脈打つように強く輝き始める。
魔力の収束。
来る!
「ッ!!」
シャロは真後ろへ大きく身を引いた。
刹那、コカトリスの両目から、禍々しい深紅の光線が放たれた。
光線はシャロが先ほどまでいた空間を通り、ジュッという音と共に床の石畳を焼き尽くす。
あの光線は決して受けてはいけない、本能がそう叫んでいる。
万一あれを受けたら、身体が石に変わってしまう。
想像するだけで背筋が凍る。
シャロは冷や汗を拭う暇もなく、再び動き出す。
距離を取れば光線の的になる、接近戦で懐に入り続けるしかない。
だが、コカトリスもそれを理解しているのか、爪と尾、そして嘴を使った波状攻撃でシャロを寄せ付けない。
速い、決定打が入らない、このままではジリ貧だ。
「だったら……!」
シャロは走りながら、手のひらに魔力を集中させた。
生成したのは剣ではない。
数個の、硬くて重い『種子』だ。
「《シード・バレット》!」
シャロが腕を振るい、種子をコカトリスの足元へ撃ち抜く。
種子は石畳の隙間に潜り込むと、シャロの魔力に呼応して爆発的に発芽した。
極太のツタが瞬時に成長し、コカトリスの太い脚に絡みつく。
さらに蛇の尾をも縛り上げ、地面に縫い付けた。
「クェッ!?」
コカトリスが体勢を崩す。
動けない。
今だ!
「今だっ!!」
シャロは好機を逃さず、剣を構えて突っ込む。
だが、コカトリスは拘束され、逃げ場を失った状態で、奴は首だけをギョロリと動かした。
その視線が、突っ込んでくるシャロを捉える。
「しまっ――!?」
一瞬判断が遅れた、回避が間に合わない。
コカトリスの赤い瞳がカッと見開かれる。
ドオオオオオン!!
コカトリスの頭部付近で、小さな爆発が起きた。
炎と爆風が奴の顔面を打ち据える。
「ギャッ!?」
コカトリスがけぞり、光線の射線が天井へと逸れた。
「ボサッとするなシャロ!切れ!!」
後方からの怒号、ヨシュアだ。
バジリスクと交戦中のアグニを援護しながら、ギリギリのタイミングで火球を放ってくれたのだ。
その絶妙なアシストに、シャロの闘志が再点火する。
「ありがとうヨシュア!」
シャロは爆風を突き抜け、無防備になったコカトリスの胴体へと肉薄した。
右手の草の剣に、ありったけの魔力を込める。
「はあああああっ!《リーフ・ブレード》!」
横薙ぎの一閃。
ザシュッ!!
深々と刃が食い込み、緑の鱗と肉を切り裂く。
大量の血が噴出し、コカトリスが絶叫を上げた。
「ギョエエエエエエッ!!」
大きな一撃だが、倒れない。
痛みで狂乱したコカトリスは、拘束していたツタを無理やり引きちぎり、滅茶苦茶に暴れ出した。
鋭い爪が乱舞し、尾がハンマーのように振り回される。
「くっ!」
シャロは必死に回避行動をとる。
先ほどまでの洗練された動きではない、死に物狂いの暴走だ。
予測不能な攻撃がシャロを襲う。
そして、暴れるコカトリスが、体勢を崩して着地したシャロの方へ、その血走った顔を向ける。
赤い瞳が、限界まで見開かれる。
「しまっ……!」
回避が、間に合わない。
体勢が悪い、足場が悪い。
赤い閃光が、シャロの左腕を直撃した。
熱くはない、むしろ冷たい。
絶対零度の冷気が骨の髄まで侵入してくるような、おぞましい感覚。
「うっ……!?」
シャロは目を見開いて自分の左腕を見た。
指先から、色が失われていく。
肌が瞬く間に無機質な灰色へと変色し、石へと変わっていく。
感覚がない、重い。
そして、その侵食は止まらない。
手首を超え、肘へと、恐ろしい速度で這い上がってくる。
このままでは肩まで、そして頭まで届く。
石化したら終わりだ、治せず死ぬ。
思考する時間はコンマ一秒。
シャロの決断は、冒険者としての本能によるものだった。
「……っ!!」
シャロは右手の剣を逆手に持ち替えた。
そして、躊躇なく、自らの左腕目掛けて、刃を振り下ろした。
ザンッ!!
鈍く、重い音がした。
自分の肉を断つ感触。
鮮血ではなく、緑色の樹液のような体液が噴き出す。
半分ほど石化した左腕が、床に落ちて砕けた。
「がああっ……!!」
遅れてやってくる激痛。
焼けるような、引き裂かれるような痛みが脳髄を走り抜ける。
シャロは顔をしかめ、歯を食いしばって悲鳴を殺した。
痛い、痛い。
だが、生きている、石化の心配はない。
「まだだ……!まだ終わってない!」
目の前には、まだ暴れ回るコカトリスの姿。
相手もまた、傷から大量に出血している。
だが、様子がおかしい。
あれほど俊敏だった動きが、明らかに鈍っている。
息が荒く、足元がふらついている。
痙攣するように首を振っている。
「……やっと効いてきたようだね。私の『毒』が」
シャロは脂汗を流しながら、ニヤリと笑った。
彼女が先ほど脇腹を切り裂いた際、ただ切っただけではない。
生成した『草の長剣』には、彼女が生成した『マンドレイクの毒』をたっぷりと付与していたのだ。
回れば身体の自由を奪い、死に至らしめる猛毒。
コカトリスの毒耐性の為、毒が回るのにだいぶ時間がかかったが、ようやく効き始めたようだ。
「これで……終わりだっ!」
シャロは最後の力を振り絞り、地面を蹴った。
片腕を失ったバランスの悪さに耐えながら、跳躍する。
動きの鈍ったコカトリスの懐へ、無防備な胸元へ。
「貫けぇぇぇッ!!」
右手の剣を突き出す。
ズプッ!!
剣先がコカトリスの身体へと深々と突き刺さった。
「グエエエエエエエッ……!」
コカトリスが最後の咆哮を上げる。
だが、魔物の生命力は凄まじかった。
身体を深々と突かれてなお、その闘争本能は消えていない。
死に際の暴走、コカトリスは身体を激しく捩じり、突き刺さった剣ごとシャロを振り払った。
「がはっ!?」
シャロが空中に放り出され、地面に叩きつけられる。
受け身を取る余裕もない。
見上げれば瀕死のコカトリスが、その巨大な鉤爪を振り上げ、シャロを踏み潰そうとしていた。
重力に任せた、回避不能のプレス。
(動け……ない……!)
シャロの身体は限界だった。
死の影が落ちる。
爪が迫る。
ズドオオオオン!!
轟音と共に、コカトリスの巨体が真横へ弾き飛ばされた。
いや、串刺しにされたのだ。
遺跡の壁をも貫通するような、巨大な氷の槍が、コカトリスの胴体を貫き、吹き飛ばした。
「させるかよ、駄鳥が」
冷徹な声が響く。
ヨシュアだった。
彼女は杖を突き出し、最大出力の氷魔法を放ったのだ。
コカトリスは串刺しにされたまま、ビクンビクンと痙攣し……やがて、その瞳から光が消え、完全に動かなくなった。
「はぁ……はぁ……やった……」
激闘の末、なんとかコカトリスを撃破したのだった。
「……シャロ!シャロ!」
ドタドタという重い足音が近づいてくる。
アグニだ、彼女もまた全身傷だらけだった。
爪で切り裂かれたのか、嘴で突っつかれたのか、あちこちから血を流しているが、二体のバジリスクをねじ伏せてきたらしい。
アグニはシャロの元へ駆け寄り、そして、凍りついた。
「な……お前……腕……!」
アグニの視線が、シャロの左肩に釘付けになる。
あるはずのものが、ない。
切断面からは緑の体液が滲み、足元には灰色の石と化した「腕」が転がっている。
「……っ!シャロ!」
遅れてヨシュアも駆けつけ、その惨状に息を呑んだ。
常に冷静な魔術師の顔が、蒼白に歪む。
「馬鹿野郎……!なんてことを……!」
「あはは……ごめん、ちょっと失敗しちゃった」
シャロは力なく笑おうとして、顔をしかめた。
激痛は続いている。
「すぐに手当てを!アグニ、ポーションだ!早く!」
「お、おう!わかった!」
アグニは震える手でリュックをまさぐり、ポーションの瓶を取り出した。
栓を引き抜き、シャロの口元へ運ぶ。
ポーションの液体が喉を通ると、カッと熱い感覚が広がり、体力が少しずつ戻ってくるのがわかった。
傷口にポーションをかけると、光と共に切断面が塞がって行く。
痛みは徐々に引いていく。
だが、失われた腕が生えてくることはない。
ポーションはあくまで「傷を癒やす」ものであり、「欠損を再生する」ものではないからだ。
「くそっ……傷は塞がったが、腕は……」
アグニが悔しそうに拳を握りしめる。
ヨシュアも沈痛な面持ちで、シャロの肩を支えていた。
「俺がもっとしっかりしてれば……すまない、シャロ」
「アタシがもっと早く雑魚を片付けてれば……!」
二人の自責の念に、シャロは首を横に振った。
「ううん。二人がいてくれなかったら、私は死んでたよ。腕一本で済んだなら、安いものだよ」
シャロは上半身を起こした。
身体はまだ鉛のように重いが、動くことはできる。
彼女は自分の左肩を見つめた、肩から先が何もない。
ショックがないと言えば嘘になる。
料理をするにも、生活するにも不便になるだろう。
だが、彼女はアルラウネ、植物の魔物だ。
「それに、ツタを生やせば物も掴めるし、戦いもできる。なんなら前よりリーチが伸びて便利かもね」
シャロはツタを生やし、ゆっくり左右に振る。
それは強がりかもしれない。
魔力消費もあるだろうし、感覚も生身とは違うはずだ。
けれど、その前向きな笑顔こそが、今のチームには必要だった。
「……お前って奴は」
ヨシュアが呆れたように、しかし安心したようにため息をついた。
「へへっ、すげぇなシャロ!」
アグニも涙を拭って笑った。
「さてと!」
シャロはアグニの手を借りて立ち上がった。
足元のコカトリスの死体を見下ろす。
強敵だった、多くの代償を払った。
だからこそ、得るものも大きいはずだ。
「戦闘も終わったし、お腹も空いたし……食事にしようか」
シャロの言葉に、二人は顔を見合わせ、そして大きく頷いた。
生き残った者たちの、勝利の宴の時間だ。
シャロはコカトリスの亡骸に歩み寄ると、残った右手をそっと添えた。
すると、コカトリスの身体から緑の芽が一斉に吹き出した。
それは瞬く間に成長し、黄金色に輝く小麦の穂を垂れ、白く艶やかな卵を生み、さらに色とりどりのフルーツ、真っ赤なイチゴ、紫のブドウ、橙色のミカン、黄色いバナナとレモンを実らせた。
そして、硬い殻に覆われたアーモンドの実が鈴なりになった。
シャロは手早く収穫を済ませると、小麦を丁寧に挽いていく。
小麦粉に挽いたら、そこに砂糖と塩を少々。
粉の山の中央に窪みを作り、油とミルクを注ぎ入れる。
切るように、そして擦り合わせるように混ぜていき、生地がポロポロとした状態になったら、手のひらで押し付けるようにしてひとまとめにする。
艶のある、滑らかな生地の玉ができあがった。
シャロはそれを平たく伸ばすと、大きな葉で包んだ。
「ヨシュア、これを冷やして」
「はいはい」
冷蔵庫扱いにも慣れたヨシュアが絶妙な出力の氷魔法で生地を包み込む。
生地を冷やして休ませることで、焼き縮みを防ぐのだ。
生地を休ませている間に、中身を作る。
アーモンドを、すり鉢で粉状になるまで挽く。
香ばしいナッツの香りが立ち上り、アグニが鼻をひくつかせた。
ボウルにアーモンド粉を入れ、砂糖、油、ミルク、そして全卵を割り入れる。
そして空気を含ませるように、白っぽくなるまで攪拌すると、濃厚なアーモンドクリームの完成だ。
今度はカスタード作りへ。
鍋にミルク、油、卵黄、砂糖、そして少量の小麦粉を入れて、火にかける前によく混ぜ合わせる。
ダマがなくなったら、弱火にかける。
木べらで絶えず底をこするように混ぜ続ける。
やがて、サラサラだった液体が、とろりと重くなってくる。
ふつふつと沸騰し、艶が出てきたら火から下ろす。
仕上げにレモンの果汁をギュッと絞り入れる。
「ヨシュア、今度はこっちを一気に冷やして!」
「おう」
液体を一気に冷ますことで、コシのあるクリームに仕上げる。
ぷるんとした、黄金色のカスタードクリームの完成だ。
いよいよ焼きの工程だ。
休ませておいたタルト生地を麺棒で薄く伸ばし、タルト型に形を成型する。
底が膨らまないように、フォークで空気穴を開けて、そこに先ほど作ったアーモンドクリームを平らに流し込む。
予熱しておいた厚手の鍋に型を入れ、蓋をして火にかける。
オーブン代わりの蒸し焼きだ。
じっくりと火を通すこと数十分。
鍋の隙間からバターに似た香りとアーモンドの焦げるたまらない香りが漏れ出してくる。
「うぅぅ……いい匂いだぁ……」
アグニがヨダレを拭う。
焼き上がったタルト台はこんがりと美しいキツネ色。
サクサクのクッキー生地と、ふっくら焼き上がったアーモンドクリームの層ができている。
これを冷ました後、仕上げのデコレーションだ。
冷めたタルトの上に、冷やしておいたカスタードクリームをたっぷりと盛り付ける。
その上に、一口大にカットした色とりどりのフルーツ、イチゴ、ブドウ、ミカン、バナナを、宝石箱のように隙間なく並べていく。
「できた!特製フルーツタルト!」
目の前に現れたのは遺跡の無骨さとは無縁の、輝くようなフルーツタルト。
シャロがナイフを入れると、ザクッという小気味よい音が響いた。
「はい、どうぞ!」
切り分けられたタルトを、アグニが待ちきれずに受け取る。
「いっただっきまぁーす!」
大口を開けて、先端の尖った部分をガブリ。
ザクッ、ホロッ、トロッ。
「んん~っ!!んめええええっ!」
アグニが目を見開き、身体をくねらせて喜びを表現した。
「生地がサクサクで、中の茶色いところがフワッとしてて、カスタードがトロトロだ!それにフルーツが甘酸っぱくて、全部混ざると最高に美味い!」
「レモンの酸味が効いてるな。重すぎず、いくらでも食べられそうだ」
ヨシュアも一口食べて、満足げに目を細めた。
戦闘の疲れ、左腕を失ったショック、それら全てが甘い幸福感で塗り替えられていく。
魔物の生命力を凝縮したフルーツは、ただ甘いだけでなく、枯渇した魔力と体力を急速に充填してくれる。
「我ながらいい出来だ」
シャロ自身も頬張り、自画自賛ながらその味に癒やされた。
三人は夢中でタルトを食べ進め、ホール丸ごとをあっという間に完食してしまった。
食後の余韻に浸り、お腹が満たされ、力が全身にみなぎってきた、その時だった。
「……ん?」
シャロが自身の異変に気づいた。
身体の奥底から、熱い塊が湧き上がってくる。
「う、わ……っ!?」
カッ――!!
シャロの全身が、淡い翠色の光に包まれた。
光は脈打ち、周囲の空間を震わせる。
「おい、シャロどうした!?なんだその光は!?」
「シャロ、その光、まさか!」
ヨシュアが杖を構えて警戒する。
一方シャロとアグニには、その光には心当たりがあった。
そう、進化の予兆。
やがて、光が収束した。
あたりに元の薄暗さが戻る。
シャロは自分の姿を確認しようとした。
近くに遺跡の水路から水が溜まっている水飲み場があったはずだ。
立ち上がろうとして、バランスを崩した、足がない。
代わりに腰から下が何か重く、長い一本の器官に変わっている。
シャロはジャンプしながらなんとか水飲み場まで移動し、水面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、かつての「花の妖精」のようなアルラウネの姿ではなかった。
髪の色はより鮮やかなエメラルドグリーンに変わり、花飾りの代わりに、珊瑚のような髪飾りと、美しい半透明のヒレが耳の位置についている。
肌は瑞々しく、微かに鱗のような光沢を帯びている。
そして何より――
シャロは視線を下ろした。
下半身、そこには人間の足の代わりに、太くしなやかな、魚の尾びれが伸びていた。
美しい翠と青のグラデーションを描く鱗。
その体つきはアルラウネの頃よりも一回り大きく、大人びて、豊満になっている。
シャロが呆然としていると、追いついてきたアグニが横から覗き込み、驚愕の声を上げた。
「すげぇ!魚ダ!シャロ、今度は人魚に進化したのカ!?」
確かに、誰がどう見てもそれは人魚『マーメイド』の姿だった。
遺跡の水場に佇む姿は、神話から抜け出してきたかのように神秘的だ。
だが。
「いや、違う、あり得ない」
遅れてやってきたヨシュアが、冷静かつ断定的に否定した。
「魔物の進化には法則がある。魔物の進化は『近い種族』にしかならない。植物の魔物であるアルラウネから、水棲生物である人魚に種族が変わることは絶対にない」
「じゃあ、一体何に進化したんだヨ?どう見ても人魚じゃんカ!」
そう言い返すアグニに、少し考え込むヨシュア。
ヨシュアは学者のような顔で、シャロのヒレや鱗を観察する。
「……多分、これは『マリンバロメッツ』だ」
「マリン……バロメッツ?」
アグニが首を傾げ聞き返した。
「ああ。『バロメッツ』という魔物を知っているか?植物でありながら、羊のような姿をし、蹄や毛を持つ奇妙な植物魔物だ。そして『マリンバロメッツ』は、その水棲亜種。植物でありながら魚のような姿をし、水中での活動に適応した植物魔物だ」
「でもヨシュア、マリンバロメッツって、もっとこう……魚そのものって感じで、人の形はしてなかったと思うんだけど」
シャロが疑問を呈する。
本来のマリンバロメッツはほぼほぼ魚と同じ見た目をしているはずだ。
「そこがお前の特殊なところだ」
ヨシュアは興味深そうに頷いた。
「お前は元々アルラウネ、つまり『人型』の植物魔物だった。恐らく、その時に人化の能力を得たんだろう。それで『人型のマリンバロメッツ』と言う、見た目は人魚に近い姿になったんだろう」
「なるほど……」
シャロは納得し、自分の新しい身体をしげしげと眺めた。
植物のしなやかさと、魚の流線型を併せ持つボディ。
そして。
「あ……」
シャロは気づいた。
左手、先ほどまでツタで誤魔化していた失われたはずの左腕が、今は白く滑らかな肌と、小さな水かきのついた綺麗な腕として、そこにあった。
「腕……治ってる!」
シャロは左手をグーパーと握ったり開いたりした。
感覚がある、温かい、魔力の通りもスムーズだ。
「進化すれば、身体の欠損も修復されるんだ……!」
喜びが爆発した。
石化の恐怖も、切断の痛みも、この感動の前には吹き飛んでしまう。
シャロは嬉しさのあまり、尾びれをバシバシと床に打ち付け、両手を上げて喜んだ。
「やったぁ!戻ったよアグニ!ヨシュア!元通りだよ!」
「おう!よかったなシャロ!」
アグニも相棒の回復を心から喜んだ。
シャロはニカッと笑い、ブンブンと両腕を振り回してみせた。
「ふふっ、これで多少無茶しても大丈夫だね!腕の一本くらい、また進化すれば生えてくるってわかったし!」
その軽口が出た瞬間。
「「それはやめろ」」
アグニとヨシュアの声が、完璧にハモった。
二人は真顔で、同時にシャロを指差した。
「こっちがハラハラするんだヨ!心臓に悪いゾ!」
「全くだ。魔術的観点から見ても、進化はそう何度も都合よく起こるものじゃない。命を大事にしろ、この馬鹿」
珍しく意見が合った二人。
「は、はい……冗談です……」
シャロは二人の剣幕に押され、小さくなった。
新たな姿、新たな力、そして取り戻した左腕。
シャロたちはまた一つ強くなり、結束を深めた。
遺跡の奥深く、三人の冒険はまだまだ続く。
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