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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第9話 未受理窓口を探してはいけない

「未受理窓口を探してはいけない」


 扉の向こうから聞こえた声は、昼間と同じだった。


 丁寧で、冷たくて、少しも揺れていない。


 記録監査局長、ヴァルター・グレイス。


 リディア・クラウスを王都庁舎から追い出した男が、夜間未受理窓口の扉の向こうに立っている。


 受付室の灯りが、じわりと弱まった。


 天井から下がる硝子灯の光が細くなり、壁一面の書架に並ぶ台帳の背表紙が、闇に沈みかける。


 リディアは、白紙の申請書を胸に抱いた。


 紙は冷たい。

 けれど、その奥に、まだ熱がある。


 それでも、読んで。


 その一文が、リディアの指先に残っていた。


「扉から離れてください」


 ノアが低い声で言った。


 彼は、いつもの管理官らしい落ち着いた顔をしている。

 だが、カウンターの上に置かれた手が、わずかに強く握られていた。


「ノアさん、あの人はここに入れるんですか」


「本来は、入れません」


「本来は?」


「夜間未受理窓口は、必要な人にしか見えません」


「では、あの人にも必要があるということですか」


 ノアは答えなかった。


 その沈黙が、リディアの胸を冷たくする。


 扉の向こうで、ヴァルターの声が続いた。


「リディア・クラウス。君は、自分が何に触れているのか理解していない」


 リディアは唇を引き結んだ。


 昼間なら、その声を聞いただけで背筋が伸びていた。

 書記官補佐として、局長に呼ばれれば返事をし、指示を受け、書類を抱えて廊下を走った。


 けれど今、彼女の手元には、王女救済願がある。


 十年前、幼い王女が差し出した書類。

 受理されなかった願い。

 今も誰かが消そうとしている記録。


 リディアは、扉に向かって声を返した。


「理解していないから、読もうとしているんです」


 ノアが、わずかにリディアを見る。


 扉の向こうで、短い沈黙が落ちた。


「君らしい答えだ」


 ヴァルターの声に、かすかなため息が混じる。


「帳簿の番号が一つ飛んでいれば気づく。印影がわずかに傾いていれば気づく。余白にあるはずの一文がなければ、見逃せない」


 リディアの心臓が、強く鳴った。


 それは、昼間の解雇理由とは違う。


 ヴァルターは知っている。


 リディアが何に気づき、何を見つけ、何を読めるのかを。


「だから、君を庁舎から出した」


 静かな声だった。


 あまりにも静かで、怒りより先に寒気がした。


「……やはり、私の解雇は処分ではなかったんですね」


「正式な手続き上は、処分だ」


「書類上は、ですね」


 リディアは、自分でも驚くほど冷静に言った。


「でも、本当は違う。私を、セシリア様の婚約破棄届から遠ざけるためだった」


 扉の外で、かすかに衣擦れの音がした。


「セシリア・レントの件か。やはり触れたか」


「彼女の届は、本人の意思確認もされないまま未受理にされていました。相手方へ先に照会され、EX-04として分類外処理されていた」


「君は、もうその言葉まで知ったのか」


 ヴァルターの声が、ほんの少し低くなる。


「EX-04」


 リディアは、その記号を口にした。


 セシリアの届。

 ダリオ・オルダの納品帳。

 王女救済願。

 そしておそらく、自分の解雇通知。


「受理されると困る願いを、存在しなかったことにするための処理ですね」


 扉の向こうで、ヴァルターは否定しなかった。


 その沈黙が、また一つの記録になった気がした。


 ノアが、カウンターの上で台帳を閉じる。


 白紙申請書、救済願控え、納品帳。

 それらをまとめて、古い木箱へ移す。


「リディア様。今はこれ以上、彼と言葉を交わすべきではありません」


「でも」


「ここは安全ではなくなりました」


 ノアの言葉と同時に、受付室の壁にかかった時計が、逆向きに一つ音を立てた。


 かちり。


 針が、ほんの少し戻る。


 リディアは息を呑んだ。


 書架の文字が薄れ始めている。


 台帳の背表紙から金の文字が剥がれるように消え、棚の奥へ吸い込まれていく。


「記録が」


「外側から、窓口の所在を削られています」


 ノアの声には、わずかな緊張があった。


「旧棟の封鎖手続き。地下通路の閉鎖命令。部署一覧の修正。昼の庁舎側から、この窓口につながる記録を消しているのでしょう」


「そんなことをしたら、この場所は」


「弱まります」


 硝子灯が、また一つ暗くなる。


「完全に消えることはありません。未受理の願いがある限り、窓口はどこかに残ります。ですが、今夜ここにある入口は失われるかもしれません」


 リディアは木箱を見た。


 王女救済願。

 今、ここで消されれば、また沈む。


 十年前と同じように。


 扉の向こうで、ヴァルターが言った。


「リディア・クラウス。白紙申請書を渡しなさい」


 リディアは、木箱の上に手を置いた。


「渡したら、どうするんですか」


「正規の保管手続きを行う」


「未受理に戻す、という意味ですね」


「本来の位置に戻すという意味だ」


「その本来の位置が、間違っているんです」


 リディアの声が、少しだけ震えた。


 怒りのせいか、恐怖のせいか、自分でも分からない。


「十年前、ミリア王女は助けを求めた。王女救済願は受付に出された。それなのに、誰かが奪って未受理印を押した」


 ノアの肩が、わずかに動いた。


 リディアは続けた。


「その結果、アレリア王女は亡くなった。病死だったのか、そうではないのか。私はまだ知りません。でも、救済願があったなら、調べるべきです」


 扉の向こうの声は、静かだった。


「調べて、どうする」


「真実を記録します」


「それで死者が戻るのか」


 リディアは言葉に詰まった。


 ヴァルターは畳みかけるようには言わなかった。

 ただ、静かに問う。


「十年前の王女が戻るのか。受理されなかった願いを今さら拾い上げて、誰が救われる。ミリア殿下か。ノアか。君自身か。あるいは、民か」


 その声には、嘲笑はなかった。


 だからこそ、鋭かった。


「過去は変わらない。受理印は、死者を戻さない。君はそれを、もう学んだはずだ」


 リディアの脳裏に、ユリスの謝罪文がよみがえる。


 父は戻らなかった。

 喧嘩も消えなかった。

 それでも、母と息子の時間は動いた。


 エマの恋人も戻らなかった。

 セシリアの傷も消えなかった。


 けれど、それでも。


「受理印は、過去を変えません」


 リディアは言った。


「でも、過去をなかったことにはさせません」


 扉の向こうで、ヴァルターが息を吐いた気配がした。


「危ういな」


「何がですか」


「正しさを、救いだと思っている」


 その言葉は、リディアの胸を深く刺した。


 ノアが一歩前に出る。


「ヴァルター・グレイス」


 リディアは、はっとしてノアを見た。


 ノアが、初めて彼の名を呼んだ。


 局長でも、閣下でもなく。


 ヴァルター・グレイスと。


「これ以上、窓口へ干渉することは許されません」


「ノア・エルセイド」


 扉の向こうから返ってきた名前に、リディアは息を止めた。


 ノア・エルセイド。


 ノアの姓。


 これまで聞いたことのなかった、彼のフルネーム。


「君がそれを言うのか」


 ヴァルターの声は、ほんの少しだけ低かった。


「十年前、受け取れる場所にいながら、受け取らなかった君が」


 ノアの顔から、色が消えた。


 リディアは思わず声を上げそうになった。


 だが、ノアは片手で制した。


「その通りです」


 彼は言った。


「私は、受け取りませんでした」


 硝子灯の光が揺れる。


「だから今、同じことを繰り返させるわけにはいきません」


 扉の外で、沈黙が落ちた。


 それはほんの数秒だったのかもしれない。

 けれどリディアには、長い時間に感じられた。


 やがて、ヴァルターが言う。


「君も、まだそこにいるのだな」


 その言い方は、不思議だった。


 驚きではない。

 責めでもない。

 どこか、遠い過去を確認するような響き。


「未受理のまま残っている、とでも言えばいいのかな」


 ノアは答えなかった。


 リディアは、ノアの横顔を見た。


 未受理のまま残っている。


 それは、人にも起きることなのか。


 扉の金具が、かすかに鳴った。


 外側から、何かの印が押されるような音。


 次の瞬間、受付室の床に、赤い文字が浮かび始めた。


 封鎖手続開始


 ノアが鋭く息を吸う。


「記録監査局の封鎖印です」


「ここにまで?」


「入口を押さえられました。この扉からは出られません」


 リディアは背後を振り返る。


 奥の書架。

 カウンター。

 壁の時計。

 他に扉はない。


「では、どうすれば」


 ノアはカウンターの上の呼び鈴に手を伸ばした。


「未受理窓口の入口は、一つではありません」


 ちりん。


 鈴が鳴った。


 その音は、受付室の中ではなく、どこか遠くの夜へ響いていった。


 書架の一部が淡く光る。

 何冊もの台帳の背表紙がずれて、奥に細い通路が現れた。


 暗い。


 けれど、奥に小さな灯りが見える。


「行きます」


 ノアが木箱を持ち上げた。


「どこへ?」


「一時退避用の保管通路です」


「そんなものが」


「存在しない部署にも、非常口くらいはあります」


「冗談を言っている場合ですか」


「半分ほど」


 こんな時にまで、とリディアは思った。

 けれど、その淡々とした返答に、わずかに緊張が緩む。


 扉の外で、ヴァルターが言った。


「逃げるのか、ノア」


 ノアは振り返らなかった。


「保管替えです」


「言い方は変わらないな」


「書記官でしたので」


 ノアはリディアへ目を向ける。


「急いでください」


 リディアは頷き、通路へ踏み出そうとした。


 その時、扉の向こうから、ヴァルターの声が最後に届いた。


「リディア・クラウス。君は、自分の名前を守りたいなら、王女救済願から手を引きなさい」


 リディアの足が止まる。


「名前……」


「今日、君の職員記録はすでに削除手続きへ回した。だが、まだ完全には消えていない。今なら、戻せる」


 胸の奥が冷える。


 職員記録。


 自分が王都庁舎にいた証。

 何年も働いた記録。

 書類を整え、台帳を管理し、毎日同じ廊下を歩いた証。


 それが、消えようとしている。


「未受理窓口に関わり続ければ、君はただ職を失うだけでは済まない」


 ヴァルターの声は、どこまでも事務的だった。


「名前が消える。経歴が消える。君が告発者であった事実も、誰かを受理した記録も、順に薄れていく」


 リディアは、無意識に胸元の解雇通知を握った。


 雨に濡れた紙。


 今もそこにあるはずの、自分を追い出した書類。


「戻りたければ、白紙申請書を置いて去れ」


 ヴァルターは言った。


「君を、正式な告発者として扱う余地はまだある」


 リディアの中で、何かが揺れた。


 告発者。


 その言葉は、彼女の解雇通知に本来あるべき一文なのかもしれない。


 彼女は改ざん者ではない。

 不正を見つけた者だ。

 それが正式に認められるなら。


 職を失わずに済むかもしれない。

 名誉を回復できるかもしれない。

 自分の名前を守れるかもしれない。


 その誘惑は、想像以上に強かった。


「リディア様」


 ノアの声がした。


 責める声ではなかった。


 急かす声でもない。


 ただ、確認する声。


「どうしますか」


 どうしますか。


 受理官は、依頼人の代わりに決めない。

 けれど、これは自分の選択だ。


 リディアは、胸の前で白紙申請書を抱き直した。


 この紙を置いて去れば、自分の名前は守れるかもしれない。


 だが、この紙はまた未受理になる。


 ミリア王女の声。

 アレリア王女の死。

 ダリオが残した控え。

 ノアの沈黙。

 そして、今夜受理した人たちの顔。


 エマは、部屋の窓を開けると言った。

 セシリアは、自分の届を受け取った。

 ユリスは、父の知らなかった一面を受け取った。


 彼らの書類を受け取ったリディアが、自分の怖さだけを理由に、今ここで手を離すのか。


 リディアは、扉に向かって言った。


「私は、改ざん者ではありません」


 ヴァルターは答えない。


「そして、あなたに戻してもらわなくても、私はそれを読みに行きます」


 自分の声が震えているのが分かった。


 それでも、言い切った。


「私の名前が消されるなら、まず私自身が、私に何が起きたのか読みます」


 扉の向こうで、短く沈黙が落ちる。


 やがて、ヴァルターが言った。


「それは、王女と同じ道だ」


「なら、王女様がどこで道を塞がれたのか、確かめます」


 リディアは振り返らず、書架の奥の通路へ踏み込んだ。


 背後で、封鎖印の赤い文字が強く光る。


 受付室が遠ざかる。


 硝子灯。

 カウンター。

 受理印。

 古い台帳。


 すべてが闇の向こうへ沈んでいく。


 ノアが通路の奥で待っていた。


 彼の腕には、王女救済願の入った木箱がある。


「よろしいのですか」


「よろしいわけではありません」


 リディアは正直に答えた。


「怖いです。名前が消えるのは、怖い」


「はい」


「でも」


 彼女は胸元の解雇通知に触れた。


「見なかったことにして戻ったとしても、その名前はもう私のものではない気がします」


 ノアは、少しだけ目を伏せた。


「強いですね」


「違います」


 リディアは首を横に振った。


「今、震えています」


「それでも進むなら、十分です」


 その言葉は、ほんの少しだけ温かかった。


 通路の奥に、小さな扉がある。

 ノアがそれを開けると、外の冷たい空気が流れ込んだ。


 そこは、王都庁舎の旧棟裏ではなかった。


 見慣れた石畳。

 広い通り。

 朝靄に沈む王都庁舎の正門。


 空が、うっすら白み始めている。


「朝……」


 リディアは呟いた。


 夜間未受理窓口の中では、時間の感覚が曖昧だった。

 外ではもう、夜が明けかけている。


 通りには、早朝の荷馬車が走り始めていた。

 庁舎の門番が交代し、職員たちが少しずつ出勤してくる。


 リディアは、思わず庁舎を見上げた。


 昨日まで、自分の職場だった場所。


 今は、入ることを禁じられた場所。


 ノアが言う。


「ここからは、昼の記録も動きます」


「昼の記録」


「あなたの名前が、どう扱われているのか確認できます」


 リディアは頷いた。


 ちょうどその時、庁舎前の掲示板に職員名簿の更新票が貼り出された。


 早朝の担当職員が、紙を貼り替えていく。


 リディアは、吸い寄せられるように近づいた。


 職員名簿。


 王都庁舎書記官補佐の欄。


 昨日までそこにあったはずの名前を探す。


 リディア・クラウス。


 ない。


 目を滑らせる。

 もう一度見る。

 上から、下まで。


 ない。


 代わりに、空白が一つあった。


 奇妙な空白。


 行間が不自然に空き、そこだけ紙が薄く擦れている。


 まるで、名前を剥がし取った跡のように。


 リディアは、指先が冷たくなるのを感じた。


「……本当に」


 声がかすれた。


「消えている」


 背後で、門番の一人がリディアに気づいた。


 若い門番だ。

 昨日も正門に立っていた。

 リディアが雨の中、追い出される時にも、目を逸らしていた男。


 彼はリディアを見て、眉をひそめる。


「あの、どちら様ですか」


 リディアの胸が、音を立てて冷えた。


「私です。リディア・クラウスです」


 門番は困ったように名簿を見る。


「クラウス……? 職員の方ですか」


「昨日まで、書記官補佐でした」


「申し訳ありませんが、名簿にありません」


 昨日、彼は自分を見ていた。


 雨に濡れた解雇通知を握るリディアを、確かに見ていたはずだ。


 それなのに、彼の目には何も残っていない。


 リディアは一歩後ずさった。


 名前が記録から消えるということは、その人が正しかった証拠まで消えるということだった。


 ノアが、そっと横に立つ。


「まだ、完全ではありません」


「これで?」


「あなた自身が覚えています。私も覚えています。今夜受理された人たちも、おそらくは」


「おそらく」


「時間がありません」


 ノアの声は静かだったが、厳しかった。


「記録が完全に消える前に、あなた自身の未受理を見つける必要があります」


「私自身の未受理……」


 リディアは胸元から、解雇通知を取り出した。


 雨でにじんだ紙。


 だが、朝の薄い光の下で見ると、昨日は見えなかった小さな文字が浮かんでいる。


 紙の右下。


 処理分類欄。


 そこに、赤い細文字が滲むように現れた。


 EX-04


 リディアは、唇を噛んだ。


 自分もまた、分類外にされた。


 受理されると困る願いとして。


 その時、庁舎の正門が開いた。


 ヴァルター・グレイスが、ゆっくりと外へ出てくる。


 朝の光の中でも、彼は変わらない。

 黒い上着。銀縁の眼鏡。整った姿勢。


 彼はリディアを見ても、驚かなかった。


「やはり、出てきたか」


 リディアは、解雇通知を握りしめる。


「私の名前を消したんですね」


「まだ途中だ」


「途中?」


「君が戻る余地を残してあると言ったはずだ」


 ヴァルターは、掲示板の空白を見た。


「未受理窓口から手を引けば、君の処分は訂正できる。告発者として再登録することも可能だ」


「その代わり、王女救済願を渡せと」


「そうだ」


「断ります」


 即答だった。


 ヴァルターは、目を細める。


「考えが浅い」


「そうかもしれません」


「君は、自分が守ろうとしているものの重さを知らない。王女救済願は、ただの哀れな少女の訴えではない。あれは、国の記録を割る」


「割れて困る記録なら、最初から割れていたんです」


 リディアの声は震えていた。


 けれど、引かなかった。


 ヴァルターは、静かに彼女を見つめた。


「君は、王女と同じ過ちを犯す」


「王女様は、何をしたんですか」


「読もうとした」


 短い答え。


 リディアの胸が鳴る。


「民の嘆願を。貴族の不正を。王家が見ないことにしてきた書類を。すべて読もうとした」


 ヴァルターの声に、初めてわずかな感情が混じった。


 怒りではない。


 疲労に似たもの。


「願いは、すべて受け取ればよいというものではない」


 そう言って、彼は背を向ける。


「リディア・クラウス。最後の忠告だ」


 彼は振り返らずに告げた。


「王女救済願に深入りすれば、君は職員名簿だけでは済まない。家族の記憶、友人の記憶、受理した者たちの記憶からも、少しずつ剥がれていく」


 リディアは、息を止めた。


「未受理窓口を探してはいけない。そこに残っているのは、救いだけではない」


 ヴァルターは庁舎の中へ戻っていった。


 正門が閉まる。


 朝の光が、石畳を照らし始める。


 リディアは、その場に立ち尽くした。


 名簿には、自分の名前がない。

 解雇通知には、EX-04が浮かんでいる。

 王女救済願は、木箱の中でまだ熱を持っている。


 ノアが静かに言った。


「戻りますか」


「どこへですか」


「夜間未受理窓口へ」


 リディアは、掲示板の空白を見た。


 そこには、確かに何かがあった。

 今は消されかけている。


 でも、完全に消えたわけではない。


 空白は、まだ空白として残っている。


 リディアは解雇通知を折りたたみ、胸元へしまった。


「戻ります」


 そして、はっきりと言った。


「私の名前が消される前に、私の書類を読みます」


 ノアは頷いた。


 その背後、王都の朝のざわめきの中で、誰にも見えない小さな扉が開いた。


 夜間未受理窓口へ続く扉。


 リディアは、迷わずその中へ入った。


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