第8話 王女救済願――未受理
それでも、読んで。
白紙の申請書に浮かんだその一文を見た瞬間、リディアは息をするのを忘れた。
助けてください。
お姉様を、殺さないで。
それでも、読んで。
紙に残っているのは、ただの文字ではなかった。
誰かが必死に伸ばした手。
誰にも掴まれなかった手。
それでも、十年もの間、折れずに残っていた願い。
リディアは、白紙の申請書に触れようとして、指を止めた。
「触れても、いいんですか」
そう尋ねると、ノアはすぐには答えなかった。
カウンターの向こうで、彼は白紙申請書を見つめている。
いつも静かな黒い瞳が、今だけは遠い場所を見ているようだった。
「おすすめはしません」
「でも、止めはしないんですね」
「止めたところで、あなたは読むでしょう」
「……そうですね」
リディアは否定しなかった。
読めてしまった。
見えてしまった。
だったら、ここで目を逸らせば、彼女自身が昼の庁舎と同じになる。
都合の悪いものを未受理にする側に。
リディアは、王女救済願の控えを白紙申請書の横に置いた。
さらに、ユリスの父ダリオが残した納品帳を開く。
十年前の日付。
王宮臨時受付へ納められた紙束。
そこに記された不気味な分類。
EX-04対応用紙 一束
セシリアの婚約破棄届にもあった。
リディアの解雇通知にもあるかもしれない。
そして十年前、王女救済願にも関わっている。
「EX-04とは、何なんですか」
リディアは、何度目かの問いを口にした。
ノアは、今度は逃げなかった。
「昼の庁舎に正式な分類として存在するものではありません」
「では、違法な分類ですか」
「違法というより、存在しないことにされている分類です」
「同じことでは?」
「似ていますが、少し違います」
ノアは台帳を開いた。
古い紙が、乾いた音を立てる。
「違法なものは、違法であると証明できれば裁けます。ですが、存在しないことにされたものは、まず“あった”と証明しなければなりません」
リディアは、胸の奥が冷えるのを感じた。
存在しないことにされる。
それは、罰よりも恐ろしい。
悪いと裁かれるのではなく、最初からいなかったことにされる。
書かなかったことにされる。
訴えなかったことにされる。
助けを求めなかったことにされる。
「EX-04は」
ノアは続けた。
「受理されると困る願いを、正式な不受理記録にも残さず、どこにも分類せず、ただ処理済みにするための印です」
「誰にとって困る願いですか」
「力を持つ者にとって、です」
答えは短かった。
けれど、それで十分だった。
セシリアの婚約破棄届。
商会の権利を奪いたい家にとって、受理されると困る願い。
ユリスの父が残した王女救済願の控え。
十年前の王宮にとって、受理されると困る願い。
リディアの解雇通知。
記録監査局にとって、真実を残されると困る書類。
すべてが、同じ仕組みの中にある。
リディアは白紙申請書に手を置いた。
その瞬間、受付室の灯りが揺れた。
壁の時計が止まる。
古い書架の影が伸びる。
カウンターの木目が、深い夜の水面のように歪む。
「リディア様」
ノアの声が遠くなる。
「強く引かれすぎないように」
「どうすれば」
「自分の名前を忘れないでください」
次の瞬間、リディアの視界が白く弾けた。
そこは、王宮だった。
白い大理石の廊下。
高い天井。
壁に並ぶ硝子灯。
遠くから聞こえる、大人たちの足音。
リディアは、自分がとても低い位置から世界を見ていることに気づいた。
子どもの視点だ。
小さな手が、しわになった申請書を握っている。
指は震え、紙の端は涙で少し濡れていた。
息が苦しい。
怖い。
でも、止まれない。
廊下の先に、明かりのついた部屋がある。
扉の横には、臨時受付と書かれた札。
そこへ行けば、誰かが受け取ってくれる。
そう信じて、少女は走っている。
リディアの口から、知らない声が漏れた。
「お姉様を……」
小さな声だった。
「お姉様を、助けて」
曲がり角の向こうで、大人の声がした。
「急病という形で発表する」
「改革案の写しは?」
「すべて回収済みです」
「嘆願書の束は」
「EX-04として処理します」
少女の足が止まる。
リディアの胸が冷たくなった。
その言葉を、少女は理解しきれていない。
けれど、危険な話だということだけは分かっている。
お姉様が危ない。
そう思った瞬間、少女はまた走り出した。
廊下の先。
臨時受付。
机の向こうに若い書記官がいる。
黒髪の青年。
今より少し幼い顔。
けれど、その目は見覚えがあった。
ノアだ。
十年前のノア。
少女は机に申請書を差し出す。
「お願いします」
声が震えている。
「これを、受け取ってください」
若いノアが立ち上がる。
その手が、申請書へ伸びる。
あと少し。
あと少しで、紙は受け取られる。
その時だった。
別の手が、横から申請書を奪った。
白い手袋。
整った袖口。
銀の留め具。
顔は見えない。
だが、その声は冷たかった。
「王女殿下の混乱による書類だ。受理の必要はない」
少女が叫ぶ。
「違います! 本当です! お姉様が――」
「静かに」
大人の声が、少女の声を押しつぶす。
若いノアは動けない。
申請書は机の上に置かれる。
赤い印が取り出される。
少女の視界で、印面が大きくなる。
未受理
赤い文字が、紙に押された。
その瞬間、少女の声が、世界から切り離された。
リディアは息を呑んだ。
視界が揺れる。
大理石の廊下が崩れ、受付室の木のカウンターが戻ってくる。
リディアは、自分の手が白紙申請書を強く握っていることに気づいた。
「リディア様」
ノアの声が近くで聞こえる。
「名前を」
「……リディア」
彼女は震えながら答えた。
「リディア・クラウスです」
ようやく、呼吸が戻った。
ノアはカウンターの向こうで、青ざめた顔をしていた。
リディアは彼を見た。
「あなたが、いました」
ノアは何も言わない。
「十年前の臨時受付に」
沈黙。
時計の止まった部屋で、その沈黙はあまりにも重かった。
やがてノアは、静かに答えた。
「いました」
たった一言だった。
それでも、リディアには十分だった。
「では、あの少女は」
「第二王女ミリア殿下です」
ノアの声は、低かった。
「亡くなられた第一王女アレリア殿下の妹君です」
「ミリア王女は、今も?」
「公式には、病弱のため公務を退いておられます」
「公式には」
リディアは繰り返した。
ノアは、それ以上言わなかった。
公式には、という言葉の奥に、十年分の沈黙がある。
リディアは白紙申請書を見た。
さきほど見た少女の小さな手。
震えながら、それでも差し出した申請書。
お姉様を、殺さないで。
その願いは、受け取られなかった。
「アレリア王女は、本当に病で亡くなったのですか」
リディアは尋ねた。
ノアは答えなかった。
代わりに、王女救済願の控えに指を置く。
紙片の上に、新しい文字が浮かび上がる。
王女救済願――未受理
提出者:ミリア・エル・ラウゼリア
対象者:第一王女アレリア・エル・ラウゼリア
処理分類:EX-04
リディアの喉が乾いた。
王女の名前。
妹の名前。
そして、EX-04。
「王女様の命に関わる救済願が、分類外処理されたんですか」
「記録上は、存在していません」
「でも、ここにあります」
「夜間未受理窓口には、残っています」
「なぜ、昼の記録には残らないのに、ここには残るんですか」
ノアは、少しだけ目を伏せた。
「未受理のまま残された願いは、消えきらないからです」
その言葉は、第2話で聞いた説明と同じだった。
だが今は、重さが違う。
消えきらない。
つまり、消そうとした者がいる。
リディアは納品帳をめくった。
ダリオ・オルダの記録。
王宮臨時受付へ納めた紙。
EX-04対応用紙。
その横に、小さな書き込みがあることに気づく。
インクが薄い。
だが、読める。
白紙十枚、うち一枚返却なし。
「一枚返却なし……」
リディアが呟くと、ノアも覗き込んだ。
「それが、この白紙申請書かもしれません」
「ダリオ様は、その一枚が戻らなかったことを記録していた」
「おそらく」
「だから控えを隠した」
「はい」
リディアは、文具店の父親の姿を思い出した。
息子に謝られなかった父。
息子に何も言えなかった父。
けれど、十年前の夜、消されるはずだった紙片を残した人。
人は、一つの後悔だけでできているわけではない。
ノアも、そうなのだろうか。
リディアは、彼に視線を戻した。
「ノアさん。あなたは、なぜ受理しなかったのですか」
問いは、鋭すぎたかもしれない。
ノアの表情が、ほんの少しだけ崩れた。
それは痛みだった。
「命令がありました」
「命令なら、何でも従うんですか」
言ってから、リディアは自分の言葉の強さに気づいた。
ノアは怒らなかった。
「その通りです」
静かに、彼は言った。
「命令だったから。怖かったから。自分の立場を失うのが嫌だったから。理由はいくらでも並べられます」
彼は、白紙申請書を見た。
「ですが、結果は一つです。私は、差し出された願いを受け取りませんでした」
受付室の空気が沈む。
リディアは何も言えなかった。
責めたい気持ちはある。
だが、十年前のあの場に自分がいたら、受け取れたのか。
王宮。
高官。
命令。
王女の命に関わる書類。
自分の職と命が危うくなるかもしれない状況。
それでも、受け取れたと胸を張って言えるだろうか。
分からない。
だからこそ、ノアの言葉が重かった。
迷わない受理官が、一番危険です。
リディアは、白紙申請書にそっと手を置いた。
「この書類は、今からでも受理できますか」
「分かりません」
「分からない?」
「王女救済願は、通常の未受理案件ではありません。十年の間に、多くの記録が消され、多くの人が口を閉ざし、多くの後悔が絡みついています」
「それでも、読めと書いてあります」
「はい」
「なら、読みます」
リディアは言った。
声は震えていた。
けれど、引くつもりはなかった。
「ただし」
ノアが遮る。
「これ以上読むには、あなた自身の記録も危うくなります」
「もう消え始めているんでしょう」
「おそらく」
「だったら、今さらです」
「今さらではありません」
ノアの声が、少しだけ強くなった。
リディアは目を見開く。
ノアが感情を見せたのは、これが初めてに近かった。
「名前が消えるということは、あなたがしたことだけでなく、あなたを覚えていた人たちの記憶からも、少しずつ居場所がなくなるということです」
リディアの胸が冷えた。
「……私を覚えている人なんて、多くありません」
「それでも、います」
「誰が」
「少なくとも、今夜ここであなたに受理された人たちは、あなたを覚えています」
エマ。
セシリア。
ユリス。
ユリスの母。
リディアは、その顔を思い浮かべた。
胸の奥に、温かさと痛みが同時に広がる。
「その人たちの中からも、私が消えるかもしれないんですか」
「王女救済願に深く関われば、可能性はあります」
ノアは正直だった。
いつも通り、甘いことは言わない。
リディアは目を閉じた。
自分の名前が消える。
職員名簿から。
庁舎の記録から。
誰かの記憶から。
恐ろしくないと言えば嘘になる。
でも、目の前の白紙申請書には、十年間誰にも受け取られなかった少女の声が残っている。
助けてください。
お姉様を、殺さないで。
それでも、読んで。
それを見なかったことにして、自分の名前だけ守るのか。
リディアは、静かに目を開けた。
「ノアさん」
「はい」
「私は、まだ正式な受理官ではありません」
「はい」
「今日、ここへ来たばかりで、分からないことばかりです」
「はい」
「怖いです」
ノアは黙って聞いていた。
「でも、読めてしまったんです」
リディアは白紙申請書を見つめる。
「この子が、助けを求めたことを。誰かが、それを受け取らなかったことを。それでもまだ、読んでほしいと思っていることを」
彼女は顔を上げた。
「だから私は、見なかったことにはできません」
ノアは、長い間、何も言わなかった。
やがて、静かに頭を下げた。
「承知しました」
その声音は、管理官としてのものだった。
けれど、どこかにかすかな痛みが混じっていた。
「では、王女救済願を仮受付します」
ノアは台帳を開く。
白紙申請書。
救済願控え。
納品帳。
三つの書類が、カウンターの上で淡く光り始める。
リディアは仮受付印を手に取った。
受理印ではない。
まだ完全には受理できない。
けれど、もう存在しないとは言わせない。
「王女救済願」
ノアが読み上げる。
「提出者、ミリア・エル・ラウゼリア。対象者、アレリア・エル・ラウゼリア。処理分類、EX-04。現状、未受理」
リディアは白紙申請書の端に、仮受付印を押した。
淡い朱色の印が、紙に沈む。
その瞬間、受付室の奥の書架が激しく揺れた。
何冊もの台帳が開く。
ページがめくれる。
文字が浮かんでは消える。
そして、王女救済願に関わる記録が、一斉に薄れ始めた。
「何が」
リディアが叫ぶ。
ノアが書架へ駆け寄る。
「記録が消されています」
「今?」
「はい」
ノアは台帳を押さえた。
「誰かが、今もこの案件を消そうとしている」
リディアは、ぞっとした。
十年前の事件ではない。
終わった過去ではない。
今も、誰かがこの願いを未受理にし続けている。
白紙申請書の中央に、文字が浮かぶ。
今度は、幼い文字ではなかった。
もっと薄く、もっと静かで、それでも確かに意志のある一文。
これは、終わった書類ではありません。
リディアの背筋が震えた。
ノアも、その文字を見ている。
「アレリア王女の……」
彼の声は、ほとんど聞こえなかった。
その瞬間、受付室の扉が、外側から叩かれた。
こん、ではない。
今度は、はっきりとした強い音だった。
ノアが表情を変える。
「今夜は、もう依頼人を受け付ける時間ではありません」
「では、誰が」
扉の向こうから、男の声がした。
冷静で、丁寧で、少しも揺れていない声。
「リディア・クラウス」
リディアの血が凍る。
その声を、彼女は知っている。
「そこにいるのだろう」
記録監査局長、ヴァルター・グレイス。
昼間、リディアを解雇した男。
ノアが低く言った。
「扉から離れてください」
リディアは動けなかった。
扉の向こうで、ヴァルターの声が続く。
「未受理窓口を探してはいけない」
その一言で、受付室の灯りが一斉に弱まった。
ノアがカウンターの上の書類を素早くまとめる。
リディアは白紙申請書を胸に抱いた。
ヴァルターは、さらに静かに告げた。
「そこに関わった書記官は、全員記録から消える」
扉の隙間から、冷たい風が流れ込む。
リディアは、自分の名前がどこか遠くで薄れていくような感覚に襲われた。
それでも、白紙申請書を離さなかった。
紙の奥で、もう一度、あの一文が光る。
それでも、読んで。
リディアは悟った。
これは誰かの過去ではない。
今もまだ、受理されるのを待っている願いなのだ。




