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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第10話 消された書記官名簿

 扉をくぐると、そこはまた夜だった。


 王都庁舎の正門前には、たしかに朝の光が差していたはずだった。

 荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、門番が交代し、職員たちが出勤し始めていた。


 けれど、夜間未受理窓口へ一歩入った瞬間、リディアの周囲から朝は消えた。


 磨かれた木の床。

 丸い硝子灯。

 壁一面の古い書架。

 中央に据えられた受付カウンター。


 夜の静けさが、何事もなかったように戻っている。


 ただし、何もかもが同じではなかった。


 硝子灯の光は少し弱い。

 書架の一部は、墨を流したように暗い。

 カウンターの端には、昨夜まではなかった細い亀裂が入っている。


 封鎖手続きの名残だ。


 ヴァルター・グレイスは、昼の庁舎から、この窓口の入口を消そうとした。

 そしてリディアの名前も、職員名簿から消え始めていた。


 リディアは胸元から解雇通知を取り出した。


 雨に濡れ、角がふやけた紙。

 そこに浮かんだ小さな赤文字。


 EX-04


 受理されると困る願い。

 正式な不受理にもせず、どこにも分類せず、ただ存在を曖昧にするための印。


 セシリアの婚約破棄届にもあった。

 王女救済願にもあった。

 そして、今、自分の解雇通知にもある。


「ノアさん」


 リディアは、カウンターの向こうに立つ管理官を見た。


「私の書類を読ませてください」


 ノアは、リディアの手元の解雇通知を見た。


「今、ですか」


「はい」


「おすすめはしません」


「それは、また重すぎるからですか」


「はい」


 即答だった。


 リディアは唇を引き結んだ。


「自分の名前が消え始めているんです。重いから後回しに、とは言えません」


「後回しにしろとは申しません」


「では」


「準備が必要です」


 ノアは、カウンターの下から黒革の台帳を出した。

 いつもの未受理案件台帳ではない。


 もっと古い。

 厚く、重く、角が金具で補強されている。

 表紙には、かすれた銀文字でこう刻まれていた。


 夜間未受理窓口 職員記録


 リディアは息を呑んだ。


「職員記録……」


「ここで働いた受理官、管理官、補助記録係の名簿です」


「そんなものがあったんですか」


「存在しない部署にも、名簿は必要です」


「存在しないのに?」


「存在しないからこそ、です」


 ノアは台帳をカウンターに置いた。


 重い音がした。


「昼の記録から消された者でも、この窓口に関わった痕跡があるなら、こちらには残る場合があります」


「場合がある?」


「完全に消えてしまった名もあります」


 ノアは、淡々と言った。


 だが、その言葉にはわずかな影があった。


 リディアは台帳の表紙に触れた。


 冷たい。

 けれど、ただの紙の冷たさではない。


 長い年月、誰にも開かれなかったものの冷たさ。


「私の名前も、ここに載るんですか」


「正式に受理官となれば」


「今は?」


「臨時受理官として、仮記録の状態です」


 リディアは小さく息を吐いた。


 まだ完全には、この窓口の人間ではない。

 だが、もう昼の庁舎の人間でもなくなりかけている。


 どちらにも足場がない。


「リディア様」


 ノアが、いつもより少し低い声で言った。


「あなた自身の解雇通知を読む前に、知っておくべきことがあります」


「何ですか」


「あなたのように、昼の記録から消された書記官は、過去にもいます」


 リディアは顔を上げた。


「夜間未受理窓口に関わった人たち、ですね」


「はい」


 ノアは台帳を開いた。


 古い紙の匂いが、ふわりと立ちのぼる。


 最初のページには、整った文字でいくつもの名前が並んでいた。


 王都庁舎書記官。

 臨時受理官。

 保管係。

 夜間受付補助。


 だが、多くの名前には赤い線が引かれている。


 横一文字に、強く。


 ただの訂正線ではない。

 名前そのものを切り裂くような赤線だった。


「これは……」


「昼の記録から消された者です」


 ノアは言った。


「では、ここに赤線が引かれている人たちは」


「王都庁舎の正式な職員名簿には、もう存在しません」


 リディアは、ページを見つめた。


 名前がある。

 たしかに書かれている。


 けれど、赤線によって、読みにくくされている。

 残っているのに、消されている。


 まるで、まだそこにいるのに、声だけ奪われた人たちのようだった。


「この人たちは、どうなったんですか」


「それぞれです」


「それぞれ?」


「職を失い、王都を離れた者。別の名前で生きた者。完全に記録から消え、家族の記憶からも薄れた者。窓口に残った者」


 リディアの指先が冷えた。


「窓口に、残った……」


 ノアは答えず、ページをめくった。


 さらに古い頁。

 ところどころ、インクが薄れている。


 赤線の名前が続く。


 その中には、線が濃すぎて読めない名もある。

 逆に、赤線の下から、まだかろうじて読める名もある。


 リディアは、その一つに目を留めた。


 クラリス・ベルマン

 王都庁舎 嘆願受付係

 処理分類:EX-04

 記録状態:消失


 別の名前。


 イーヴァン・ロウ

 臨時受理官

 処理分類:EX-04

 記録状態:不明


 また別の名前。


 ミーナ・ハルト

 王宮嘆願処理補助

 処理分類:EX-04

 記録状態:家族記憶薄化


 リディアは唇を噛んだ。


 家族記憶薄化。


 文字として書かれているのに、意味がひどく残酷だった。


「家族の記憶まで、消えるんですか」


「完全に消えるとは限りません」


「でも、薄れる」


「はい」


 ノアの声は静かだった。


「名前が記録から剥がされると、その人が関わった出来事も曖昧になります。『いたような気がする』『誰かが言っていた気がする』『そういう職員がいたかもしれない』。そうした曖昧さに変わっていく」


 リディアは、朝の門番の顔を思い出した。


 ――あの、どちら様ですか。


 昨日、確かに彼はリディアを見ていた。

 雨の中で解雇通知を握る彼女を、見ていた。


 それなのに、もう覚えていなかった。


 記憶は、こんなに簡単に剥がされてしまうのか。


「怖いですね」


 リディアは正直に言った。


「はい」


 ノアは否定しなかった。


「だから、ヴァルター局長はあなたを止めようとしているんですか」


「それもあるでしょう」


「それも?」


「彼は、消えることの恐ろしさを知っています」


 リディアは、ノアを見る。


「なぜ、知っているんですか」


 ノアはページをめくる手を止めた。


「十年前、彼も見ていますから」


「何を」


「消される者を」


 その答えに、リディアは胸の奥がざわついた。


 十年前。


 王女救済願。

 王宮臨時受付。

 幼いミリア王女。

 若いノア。

 そして、ヴァルター。


 すべてがそこに集まっている。


 ノアは、さらに台帳をめくった。


「ここです」


 彼の声が、ほんのわずかに硬くなった。


 リディアはページを覗き込んだ。


 十年前の日付。

 王宮臨時受付関連。


 そこに、いくつかの名前が並んでいる。


 その一つに、リディアの視線は吸い寄せられた。


 ノア・エルセイド

 王都庁舎 書記官補

 王宮臨時受付補助

 処理分類:EX-04

 記録状態:死亡扱い


 時間が止まったようだった。


 リディアは、ゆっくりとノアを見た。


 ノアは、自分の名前を見ても表情を変えなかった。


 いや、変えないようにしているのだと、今なら分かる。


「ノアさん」


 声がかすれた。


「あなたは、十年前に死亡扱いになっているんですか」


「はい」


「でも、ここにいます」


「います」


「生きているんですか」


 ノアは、すぐには答えなかった。


 硝子灯の光が、彼の黒い制服を淡く照らしている。

 その姿は、確かにそこにある。


 だが今、リディアには分かってしまった。


 ノアは、普通にそこにいる人ではない。


 記録から消され、死亡扱いにされ、それでも夜間未受理窓口に残っている人。


「正確には」


 ノアは静かに言った。


「未受理のまま残されています」


 リディアは言葉を失った。


 未受理のまま残される。


 それは、書類だけではなかった。

 人もまた、どこにも受け取られないまま、残ることがある。


「どうして」


 リディアは尋ねた。


「どうして、あなたは死亡扱いに」


「王女救済願の控えを、残そうとしたからです」


 その答えは、静かだった。


 けれど、受付室の空気が重く沈んだ。


「十年前、私はミリア殿下の救済願を受理しませんでした」


「……はい」


「その後、アレリア殿下の急病が発表されました。救済願の原本は未受理処理され、関係記録は回収されました」


 ノアは、自分の名に引かれた赤線を見つめる。


「私は、控えの一部を残そうとしました」


「ダリオ様のように」


「はい。ダリオ・オルダ氏が残した紙片とは別に、私も処理記録の写しを作ろうとした」


「それが見つかったんですか」


「見つかりました」


 リディアは息を詰めた。


「それで、殺された……?」


「記録上は」


「記録上は?」


 ノアは、少しだけ首を傾けた。


「私の死亡届が作成されました。事故死という扱いです。遺体確認記録も、葬送記録も、すべて整えられていました」


「でも、実際には」


「実際に、何が起きたのかは、私にも完全には分かりません」


 リディアは眉を寄せた。


「分からない?」


「気づいた時には、この窓口にいました」


 ノアは、受付室を見回した。


「夜間未受理窓口の管理官として」


「それまでの記憶は」


「あります。受理できなかったことも、控えを残そうとしたことも、ヴァルターに止められたことも」


「ヴァルター局長に」


「はい」


 リディアは、朝のヴァルターの言葉を思い出した。


 ――君も、まだそこにいるのだな。


 あの声には、驚きではなく、確認のような響きがあった。


 ヴァルターは、ノアが消えたことを知っていた。

 そして、今も未受理窓口に残っていることも、薄々知っていたのかもしれない。


「ノアさんは、ヴァルター局長を恨んでいるんですか」


 問いは自然に出た。


 ノアは、少しだけ考えた。


「分かりません」


「分からない?」


「恨みだけで説明できるほど、単純ではありません」


「でも、彼はあなたを消した側ですよね」


「はい」


「あなたは、王女救済願を受理しなかったことを悔いている」


「はい」


「そして、控えを残そうとした」


「はい」


「それなのに、あなたは死亡扱いにされた」


「はい」


 ノアの返事は、一つ一つ正確だった。


 正確すぎて、リディアの方が苦しくなる。


「怒っていいと思います」


 リディアは言った。


 ノアは、ほんの少しだけ目を見開いた。


「怒る?」


「はい」


「私が?」


「そうです」


 リディアは、台帳に記されたノアの名前を見る。


 赤線で消され、死亡扱いと記された名前。


「自分の名前を消されたんです。怒っていいと思います」


 ノアはしばらく黙っていた。


 やがて、視線を落とす。


「怒る資格があるのでしょうか」


「資格?」


「私は、受理しなかった側です」


 ノアの声は低かった。


「差し出された願いを受け取らなかった。命令に従い、沈黙した。後になって控えを残そうとしたところで、間に合わなかった事実は変わりません」


「それでも」


 リディアは言った。


「あなたが消されていい理由にはなりません」


 ノアの表情が、ほんのわずかに揺れた。


「罪がある人は、消されてもいいんですか」


 リディアは続けた。


「間違えた人は、名前を奪われてもいいんですか。後悔している人は、未受理のまま残されて当然なんですか」


 ノアは何も言わない。


「私は、そうは思いません」


 リディアは、自分の解雇通知を思い出した。


 改ざん者として処理され、告発者である事実を抜き取られた紙。


 もし自分が本当に何か間違えていたとしても、正しく記録されるべきだ。

 罪も、功績も、弱さも、後悔も。


 都合よく切り取られていいものではない。


「ノアさんの記録も、いつか読みます」


 リディアは言った。


 ノアが顔を上げる。


「それは、おすすめしません」


「またですか」


「はい」


「理由は?」


「私自身が、まだ読む準備をしていません」


 その答えは、初めて少し人間らしかった。


 リディアは、思わず小さく笑いそうになった。


「分かりました。今は読みません」


「ありがとうございます」


「でも、いつか読みます」


「……やはり、そうなりますか」


「はい」


 リディアは、もう一度名簿に目を落とした。


 ノア・エルセイド。


 死亡扱い。


 その文字の下に、薄く別の一文が隠れているように見えた。


 まだ読めない。

 けれど、そこに何かがある。


 ノア自身の未受理の声。


 リディアは、解雇通知をカウンターに置いた。


「では、私の書類は」


「読みましょう」


 ノアは台帳を閉じた。


「ただし、完全受理ではなく、確認だけです」


「確認?」


「あなた自身の処理がEX-04であること。どの記録が抜かれているのか。まずはそこまでです」


「分かりました」


 リディアは解雇通知を広げた。


 雨でにじんだ文字。

 解雇。

 立入禁止。

 改ざん疑い。


 その下に、処理分類EX-04。


 ノアが透明な処理痕写しを重ねる。


 紙が淡く光る。


 最初に浮かんだのは、リディアの署名だった。

 その次に、王都庁舎書記官補佐としての職員番号。

 さらに、処分理由。


 決裁文書の不適切な修正

 保管記録の改ざん疑い


 リディアは、その文字を見るだけで胸が痛んだ。


 身に覚えのない罪。

 それでも、書類に書かれた瞬間、世界はその形で彼女を見る。


 ノアが言う。


「深く呼吸を」


 リディアは言われた通り、息を吸った。


 処理痕写しの上に、さらに薄い文字が浮かぶ。


 原処理:内部告発受付準備

 告発対象:婚約関連文書不正処理

 告発者保護申請:未完了


 リディアの目が見開かれた。


「告発者保護申請……」


「本来、あなたの報告は処分ではなく、内部告発として処理されるはずだったようです」


 ノアの声は静かだった。


 だが、リディアの中では、何かが崩れる音がした。


 やはり。


 自分は間違っていなかった。


 少なくとも、最初の手続きでは、自分は告発者として扱われるはずだった。


 しかし、その先が書き換えられている。


 処理痕写しの文字が乱れ、黒く滲む。


 そこに、別の赤文字が割り込む。


 分類外:EX-04へ移管

 告発者保護申請:削除

 処分通知作成


 リディアは拳を握った。


 告発者保護申請が削除され、処分通知に変えられた。


 自分が見つけた不正を、不正ではなく、自分の罪にすり替えた。


「承認者は」


 リディアは尋ねた。


 声が震えている。


 ノアは処理痕を追う。


 承認者欄に、黒い塗りつぶしがある。


 セシリアの書類と同じだ。


 だが、今回は塗りつぶしの下から、ほんの少しだけ文字が見えた。


 記録監査局長 ヴァ――


 そこまで浮かび、すぐに消える。


 リディアは目を閉じた。


 分かっていた。

 それでも、見てしまうと痛い。


 ヴァルター・グレイス。


 彼はリディアを守れる立場にいた。

 告発者として保護できる立場にいた。


 それなのに、彼女をEX-04へ移した。


「リディア様」


 ノアが静かに呼ぶ。


「続けますか」


 リディアは目を開けた。


「はい」


「本当の一文が、見えるかもしれません」


「読みます」


 ノアは、それ以上止めなかった。


 リディアは解雇通知に指を置く。


 冷たい紙。


 だが、指先の奥で、何かが震えている。


 これは自分自身の未受理だ。

 他人の書類を読む時とは違う。


 紙に触れた瞬間、自分の胸の中まで開かれるような感覚があった。


 王都庁舎の廊下。

 保管庫の匂い。

 昼間の机。

 数字の並ぶ台帳。

 不自然な空白。


 リディアが見つけた番号抜け。


 彼女は報告書を書いている。


 手は震えていない。

 正しい手順に従っているだけだと思っている。


 上司に提出する。

 記録監査局へ回される。

 そして、どこかで紙の向きが変わる。


 告発者保護申請。


 そこに、本来あるべき一文が浮かびかける。


 けれど、読み切る前に、強い黒い影がかぶさった。


 リディアは息を詰める。


 無理に読もうとした瞬間、胸の奥を掴まれるような痛みが走った。


「っ……」


 ノアがすぐに彼女の手首を取った。


「そこまでです」


「でも」


「これ以上読むと、あなた自身の記録が引きずられます」


 リディアは肩で息をした。


 見えかけた。


 本来あるべき一文。


 だが、完全には読めなかった。


 ノアが処理痕写しを外す。


「今日分かったのは、ここまでです」


「私の報告は、内部告発として処理されるはずだった」


「はい」


「それがEX-04へ移管され、告発者保護申請が削除された」


「はい」


「承認者は、ほぼ間違いなくヴァルター局長」


「可能性は非常に高いです」


 リディアは、解雇通知を見つめた。


 自分を追い出した紙。

 自分を消そうとした紙。


 でも、その奥には、まだ消えていない一文がある。


「いつか、読めますか」


 リディアは尋ねた。


「はい」


 ノアは答えた。


「あなたが、自分の未受理を受け取る準備ができれば」


 リディアは、小さく頷いた。


 悔しい。

 怖い。

 でも、少しだけ足場ができた気もした。


 自分は、改ざん者ではなかった。


 少なくとも、書類の奥はそう言っている。


 その時、受付室の呼び鈴が鳴った。


 ちりん。


 小さな音。


 リディアは顔を上げた。


「依頼人ですか」


 ノアが台帳を見る。


 ページがひとりでにめくれる。


 新しい案件名が浮かんだ。


 絶縁届――未提出


 その下に、細い文字が続く。


 提出者、来訪。

 対象者、生存。

 提出理由、保護目的。


 リディアは眉を寄せた。


「絶縁届なのに、保護目的?」


 ノアは答える前に、扉の方を見た。


 こん、と扉が鳴る。


 今度の音は、ひどく疲れていた。


 開けてほしいというより、もうここ以外に叩く場所がない、という音。


 ノアが言った。


「どうぞ」


 扉が開いた。


 入ってきたのは、中年の女性だった。


 年は四十代半ばほど。

 肩までの髪には白いものが混じり、手は荒れている。

 濡れた外套の裾には、下町の泥が跳ねていた。


 貴族ではない。

 庁舎の職員でもない。


 けれど、その目には、これまでの依頼人たちとは違う切迫があった。


 女性はカウンターまで来ると、震える手で一枚の書類を差し出した。


「ここで……出せなかった書類を受け付けてもらえると」


「夜間未受理窓口です」


 ノアが答える。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「マルタ・フェインです」


「本日のご相談は」


 マルタは、書類を見下ろした。


 そこには、太く、乱れた字でこう書かれていた。


 絶縁届


 リディアは、思わず息を呑んだ。


 マルタの指が、紙の端を強く握っている。


 破れそうなほどに。


「娘を」


 彼女の声は、かすれていた。


「娘を守るために、私はあの子を捨てたことにしたかったんです」


 リディアは、解雇通知をそっと畳んだ。


 自分の未受理は、まだ終わっていない。


 けれど今、目の前にもまた、誰かの未受理が差し出されている。


 受け取らなければならない書類がある。


 リディアは背筋を伸ばした。


「お話を、聞かせてください」


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