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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第11話 娘を守るための絶縁状

 娘を守るために、私はあの子を捨てたことにしたかったんです。


 マルタ・フェインは、そう言った。


 言葉の意味は分かる。

 けれど、リディアにはすぐに飲み込めなかった。


 守るために、捨てる。


 その二つの言葉は、本来、同じ場所に並ぶものではないはずだった。


 リディアは、カウンターの上に置かれた書類を見る。


 紙は高価なものではない。

 庶民が庁舎の窓口で買える、簡易申請用紙だ。


 だが、何度も書き直した跡がある。

 インクの濃さが違う。

 文字の一部が潰れている。

 強くペンを押しつけすぎて、紙の表面が毛羽立っている。


 上部には、乱れた字でこう書かれていた。


 絶縁届


 提出者欄には、マルタ・フェイン。

 対象者欄には、リーナ・フェイン。


 おそらく、娘の名だ。


 リディアは慎重に尋ねた。


「リーナさんは、今どちらに?」


 マルタの喉が動く。


「バルツァー家の屋敷です」


 その名が出た瞬間、リディアは指先が冷えるのを感じた。


 バルツァー家。


 セシリアの婚約者だったローレン・バルツァーの家。

 セシリアの婚約破棄届を未受理にし、商会の権利を奪おうとしていた家。


 そして、その書類の裏にはEX-04があった。


 ノアも、わずかに目を細める。


「リーナ様は、奉公人として?」


「はい」


 マルタは頷いた。


「二年前から、屋敷で働いています。最初は、いい話だと思いました。下町の仕立て屋の娘に、貴族屋敷で働ける口なんて滅多にありません。行儀も覚えられるし、給金もいい。そう言われて」


 彼女は乾いた唇を舐めた。


「でも、違いました」


 受付室の時計が、静かに針を進めている。


「月に一度は帰れるはずだったのに、半年に一度になりました。手紙も届かなくなりました。たまに帰ってきても、リーナは何も言わない。痩せて、手首に痣があって、それでも『大丈夫』としか言わないんです」


 マルタの声が震えた。


「私は、何度も屋敷に行きました。でも門前払いです。リーナはよく働いている、奥様も気に入っている、心配するなと」


「庁舎には?」


 リディアが尋ねると、マルタは頷いた。


「行きました。奉公契約の確認をしたいと。娘を家へ戻したいと」


「対応は?」


「契約上、親の同意に基づく奉公だから、本人の意思か雇用主の許可がなければ解除できない、と」


「リーナさん本人の意思確認は?」


「してもらえませんでした」


 マルタの手が、絶縁届の上で震える。


「屋敷の者が言うには、リーナは働き続けたいと。母親に会う時間はないと。……そんなはず、ないのに」


 リディアは、王都庁舎の奉公契約に関する処理を思い出した。


 未成年の奉公人の場合、親の同意があれば契約は成立する。

 だが解除には、本人の意思確認と雇用主の報告が必要になる。


 制度上は、保護のための仕組みだ。

 勝手に親が連れ戻したり、雇用主が追い出したりできないように。


 しかし、その仕組みが逆に檻になることもある。


 本人の意思確認を、雇用主側が握ってしまえば。


「それで、絶縁届を?」


 リディアが言うと、マルタは痛むように目を閉じた。


「はい」


 短い返事だった。


「どうして、絶縁を?」


「私が親でいる限り、リーナは『親の同意で奉公に出された娘』です。だから、屋敷は私の同意を盾にできます。でも、私があの子と法的に縁を切れば、屋敷はもう、親の同意を根拠にできない」


 リディアは息を呑んだ。


 マルタは続ける。


「一度、親子関係を切って、リーナを身元不明に近い状態にすれば、保護院に申し立てができます。遠い親戚のいる町へ逃がす手配もしていました。全部、うまくいくはずだったんです」


「ですが、届は出せなかった」


「出しました」


 マルタは、かすれた声で言った。


「正確には、出そうとしました。王都庁舎の受付まで行って、書類を提出しました。でも……」


 彼女は絶縁届の右下を指さした。


 そこには、赤い印がある。


 未受理


「理由は?」


「親子関係を不当に偽装する疑いあり、と」


「偽装……」


 リディアは眉を寄せた。


 親子関係を切る書類に、偽装疑い。

 たしかに、財産逃れや借金逃れのために絶縁届を悪用する者はいる。


 だが、マルタの話を聞く限り、目的は娘の救出だ。


「他に説明は?」


「ありません。受付の人は、上から止められたとだけ」


「上?」


「貴族院関係の案件だから、これ以上扱えないと」


 ノアが台帳を開いた。


 そこには、すでに案件名が浮かんでいる。


 絶縁届――未提出

 提出者:マルタ・フェイン

 対象者:リーナ・フェイン

 提出理由:保護目的


 さらに下に、薄く文字がにじんだ。


 関連先:バルツァー家


 リディアは、静かに息を吐いた。


 また、バルツァー家。


 セシリアの届だけではなかった。

 奉公人の娘を逃がそうとする母の書類まで、未受理にされている。


「マルタさん」


 リディアは言った。


「この絶縁届に残された一文を、読み取ることができます。ただし、これまでの案件と同じように、表に書かれた言葉と、本当に残っている言葉が違う可能性があります」


 マルタは疲れた顔で頷いた。


「構いません」


「本当に、よろしいですか」


「私は、もう何が本当なのか自分でも分からないんです」


 彼女は、絶縁届を見下ろした。


「娘を捨てると書いた。あの子とはもう親子ではないと書いた。ひどい言葉を並べた。でも、その全部が、あの子を守るためだったはずなのに」


 声が震える。


「何度も読み返すうちに、私は本当に母親失格なのではないかと思えてきて」


 リディアは胸が痛んだ。


 書類の言葉は、時に書いた本人を傷つける。


 助けるために書いたはずの文言が、何度も目に入るうちに、心まで削っていく。


 リディアは、絶縁届にそっと指を置いた。


 紙は、ざらついていた。


 触れた瞬間、濃い感情が流れ込んでくる。


 怒鳴り声。

 門前払いされる音。

 鉄柵の向こうに見えた娘の横顔。

 細くなった手首。

 隠された痣。


 そして、夜の仕立て屋。


 油の少ない小さな灯りの下、マルタが一人で書類を書いている。


 涙は流していない。

 泣けば、手元がぶれるから。


 紙の上には、冷たい言葉が並んでいる。


 娘リーナ・フェインとは今後一切の親子関係を断つ。

 母としての権利を放棄する。

 同居、扶養、相続、身元保証の一切を行わない。


 ひどい言葉だ。


 だが、その文字の奥で、マルタは叫んでいる。


 逃げて。

 生きて。

 私の娘でなくなってもいいから、あの家から出て。


 リディアの指先が熱くなる。


 絶縁届の余白に、一文が浮かんだ。


 あの子が生きて逃げられるなら、母親でなくなってもいい。


 リディアは、すぐには声に出せなかった。


 胸の奥に、重いものが沈む。


 これは、捨てる書類ではない。


 抱きしめるために、手を離す書類だ。


「読めましたか」


 マルタが尋ねる。


 その声には、怖れがある。


 自分が本当に娘を捨てようとしていたのではないか。

 そう言われることを、彼女は恐れているのだ。


 リディアは、ゆっくり顔を上げた。


「この絶縁届に残された一文は、こうです」


 マルタが息を止める。


「あの子が生きて逃げられるなら、母親でなくなってもいい。」


 マルタの目が、大きく見開かれた。


 次の瞬間、彼女は両手で口元を覆った。


 声は出なかった。


 ただ、目から涙がこぼれた。


「……そうです」


 かすれた声が落ちる。


「そう、です。私は……私は、あの子を捨てたかったんじゃない」


「はい」


「でも、捨てると書かなければ、助けられなかった」


「はい」


 マルタの体が震える。


「母親でなくなってもいいなんて、本当は思っていません。でも、あの子が生きて逃げられるなら、それでもいいと思ったんです」


 リディアは頷いた。


 言葉の表面だけ見れば、これは絶縁届だ。

 娘を切り捨てる書類だ。


 だが、本当は違う。


 母親であることを諦めるほど、娘を守ろうとした願いだった。


 ノアが静かに口を開く。


「この案件は、受理によって現実の契約関係に影響します」


 マルタが顔を上げる。


「リーナは、助かりますか」


「受理すれば、少なくともバルツァー家が『親の同意に基づく奉公』を根拠に、彼女を屋敷へ留める力は弱まります」


「では」


「ですが、過去は変わりません」


 ノアの声は冷静だった。


「リーナ様がすでに受けた扱いも、あなたが届を未受理にされた時間も、消えません。また、絶縁届が正式に通れば、あなたは一時的に母としての権利を手放すことになります」


 マルタは、小さく頷いた。


「分かっています」


「本当に?」


 リディアは思わず聞いた。


 マルタは、涙を拭わずにリディアを見た。


「分かっているつもりです。でも、きっと本当には分かっていません」


 正直な答えだった。


「あとで後悔すると思います。あの子が私を恨むかもしれない。母親に捨てられたと思うかもしれない。もう戻ってこないかもしれない」


 彼女は絶縁届の端を握る。


「でも、あの屋敷にいるよりはいい」


 リディアは、何も言えなかった。


 マルタは続ける。


「後悔はします。でも、あの子が生きている後悔の方がいい」


 その一文は、リディアの胸に深く刺さった。


 後悔しない選択ではない。

 後悔すると分かっていて、それでも生きていてほしいと願う選択。


 ノアが受理印の箱を開ける。


 赤い印が、硝子灯の下で鈍く光った。


「マルタ様」


 ノアが言う。


「受理には、対象者リーナ様の現状確認が必要です。絶縁届は提出者の意思だけで進められるものではありません」


「リーナに会えるんですか」


「可能性はあります」


 マルタの顔に、初めて必死な光が宿る。


「会わせてください」


 リディアはノアを見た。


「必要な場所へ、道は開きますか」


「開くでしょう」


「危険は?」


「あります」


「バルツァー家の屋敷ですよね」


「はい」


 ノアは、いつものように淡々と答える。


「夜間未受理窓口は、依頼人の願いに関わる場所へ通じることがあります。ただし、こちらから物理的に誰かを救出することはできません」


「でも、書類の受理で状況を変えることはできる」


「その通りです」


 リディアは頷いた。


 受理官は、剣を持たない。

 扉を破らない。

 誰かを屋敷から引きずり出すこともできない。


 けれど、書類で人を閉じ込めているなら、書類でその根拠を崩せるかもしれない。


 リディアは、絶縁届を丁寧に畳まず、そのまま台帳の上に置いた。


「リーナさんの意思確認をしましょう」


 マルタの唇が震える。


「お願いします」


 ノアが呼び鈴を鳴らした。


 ちりん。


 小さな音が、受付室の奥へ流れていく。


 書架の一部が淡く光った。

 台帳がひとりでにめくれ、やがて、壁際に細い扉が現れる。


 その扉の向こうから、冷たい風が吹き込んだ。


 雨の匂い。

 濡れた庭木。

 遠くで鳴る犬の声。


 ノアが扉を開く。


「バルツァー家使用人棟の裏手につながっています」


「裏手……」


「正面から入るのは避けるべきです」


 それはそうだろう。

 リディアは、胸元の解雇通知を押さえた。


 記録監査局長が関わる未受理案件。

 バルツァー家。

 EX-04。


 自分がここへ入ったことが知られれば、また記録が削られるかもしれない。


 だが、マルタはすでに扉の向こうを見つめている。


 母親の顔だった。


 怖れてはいる。

 けれど、娘がいる方向から目を逸らさない。


「行きましょう」


 リディアが言うと、マルタは深く頷いた。


 扉を抜けると、そこは貴族屋敷の裏庭だった。


 夜の空気が肌に冷たい。


 高い塀。

 手入れされた庭木。

 遠くに見える本館の明かり。

 使用人棟らしき細長い建物の窓には、わずかに灯りが残っている。


 リディアは、思わず息を潜めた。


 昼の王都庁舎とは違う種類の圧力がある。

 静かで、豪奢で、誰かの声が吸い込まれていくような場所。


「リーナ……」


 マルタが小さく呟く。


 その時、使用人棟の裏口がそっと開いた。


 中から出てきたのは、十六、七歳ほどの少女だった。


 細い体。

 粗末ではないが、古びた使用人服。

 髪はきちんと結われているが、顔色が悪い。


 彼女は桶を抱えていた。

 夜中に水を捨てに出てきたのだろう。


 マルタが息を呑む。


「リーナ」


 少女が、びくりと肩を震わせた。


 桶が地面に落ちる。

 水が石畳に広がった。


「お母さん……?」


 その声は、驚きより先に恐怖を含んでいた。


 リディアは胸が痛くなった。


 会いたかった母が目の前にいる。

 それなのに、最初に浮かぶのが恐怖。


 それだけで、ここで何が起きていたのかが少し分かってしまう。


 マルタが駆け寄ろうとした。


 だが、リーナは一歩下がった。


「来ちゃだめ」


 小さな声だった。


「ここに来ちゃだめ。見つかったら、お母さんまで」


「リーナ」


 マルタの声が震える。


「迎えに来たの」


 リーナは首を振る。


「無理だよ。契約がある。奥様が、私は自分でここに残るって書類に」


「あなたは、本当に残りたいの?」


 リディアは静かに尋ねた。


 リーナが、はじめてリディアを見る。


「誰……?」


「夜間未受理窓口の臨時受理官です」


「未受理……」


 リーナの顔に、かすかな反応が走る。


 知っているのかもしれない。

 ここへ来られなくても、出せなかった願いは、どこかでその窓口の気配を感じるのだ。


 ノアが一歩前に出る。


「リーナ・フェイン様。あなたの意思を確認します。あなたは、バルツァー家での奉公を継続したいと望んでいますか」


 リーナの唇が震えた。


 本館の方を振り返る。

 窓に人影はない。


 それでも、彼女は声を落とした。


「そんなこと、言えません」


「ここでの発言は、夜間未受理窓口の記録として扱われます」


「でも、屋敷に知られたら」


「あなたの意思を聞いています」


 ノアの声は冷静だった。


 冷たいほどに。


 けれど、その冷たさが、今はリーナの支えになっているようにも見えた。


 リーナは、両手を握りしめた。


「帰りたい」


 消えそうな声だった。


 だが、確かに聞こえた。


「帰りたい。お母さんのところに帰りたい。でも、帰ったら、お母さんの店を潰すって。奉公契約の違約金を払わせるって」


 マルタの顔が歪む。


「そんなこと」


「言われたの。私が我慢すればいいって思った。お母さんの仕立て屋まで取られたら、もう」


 リーナの目から涙がこぼれた。


「だから、手紙にも大丈夫って書いた。帰りたいなんて書かなかった。お母さんが来た時も、平気なふりをした」


 リディアは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。


 母は娘を守るために捨てようとした。

 娘は母を守るために帰りたいと言えなかった。


 互いに守ろうとして、互いの声を未受理にしていた。


 マルタが、絶縁届を取り出す。


「リーナ」


 その紙を見た瞬間、リーナの顔が強張った。


「それ、なに?」


 マルタは言葉に詰まる。


 リディアは、そっと言った。


「絶縁届です」


 リーナの瞳が揺れた。


「お母さんが……私を?」


「違う!」


 マルタが叫ぶように言った。


「違うの。違うのよ、リーナ」


「でも」


「あなたを捨てるためじゃない。あなたを、あの家から逃がすために」


 マルタは、震える手で書類を差し出した。


「私が母親でいる限り、あの人たちは親の同意を盾にする。だから、一度、私がその盾を壊そうとしたの」


 リーナは書類を見つめる。


 涙が頬を伝う。


「そんなの……」


「ひどいでしょう」


 マルタの声も震えていた。


「ひどい母親だと思っていい。でも、私は、あなたが生きて逃げられるなら、母親でなくなってもいいと思った」


 リディアは、その一文を聞いて胸が震えた。


 さっき紙の上に浮かんだ言葉を、今度はマルタ自身が口にしている。


 リーナは泣きながら首を振った。


「いやだよ」


 小さな声だった。


「お母さんじゃなくなるなんて、いやだよ」


 マルタの顔が崩れる。


「ごめんね」


「捨てないで」


「捨てない。捨てたくない。でも、あなたをここに置いておけない」


 リーナは泣きながら、マルタに抱きついた。


 マルタも、ようやく娘を抱きしめた。


 細い体を、壊れないように、それでも離さないように。


 リディアは、目を伏せた。


 これで終わればいい。


 そう思った。


 だが、書類はまだ終わっていない。


 ノアが静かに言う。


「リーナ様。確認します」


 リーナは涙を拭いながら顔を上げた。


「あなたは、バルツァー家での奉公継続を望みませんか」


 リーナは、今度ははっきりと答えた。


「望みません」


「母マルタ・フェイン様のもとへ戻ることを望みますか」


「はい」


「ただし、絶縁届が受理された場合、一時的に法的な親子関係が切れる可能性があります」


 リーナの手が、マルタの服を握った。


 マルタも震えている。


「それでも、この届を手続きのために用いることを認めますか」


 長い沈黙。


 やがて、リーナはマルタの胸に顔を押しつけたまま言った。


「……戻れるなら」


 声は小さい。


「また親子になれるなら」


 マルタが、泣きながら頷く。


「なる。必ず、また手続きする。何度でも」


 リーナは、ゆっくりと頷いた。


「なら、認めます」


 その瞬間、絶縁届の余白が淡く光った。


 リディアは受理印を取り出した。


 夜の裏庭に、受理印の赤が浮かぶ。


 手が震える。


 これは、ただの救出ではない。

 親子を一度切る書類だ。


 たとえ目的が保護でも、痛みは本物だ。


「マルタ様。リーナ様」


 リディアは言った。


「この受理によって、過去は変わりません。リーナ様がここで過ごした時間も、マルタ様が届を未受理にされたことも、消えません」


 二人は頷いた。


「それでも、今ここから先の扱いを変えるために、この絶縁届を保護目的の未受理案件として受理します」


 リディアは、絶縁届に受理印を押した。


 赤い印が紙に沈む。


 その瞬間、屋敷の方で何かが割れるような音がした。


 遠くの本館で、明かりが一つ、二つと灯る。


 ノアが言った。


「関連契約に反映されました」


「どうなったんですか」


「リーナ様の奉公契約から、親の同意による拘束根拠が消えます。屋敷側は、本人の意思確認なしに彼女を留めることができません」


 マルタがリーナを抱いたまま、震える声で言った。


「逃げられるの?」


「今なら」


 ノアは短く答えた。


 その時、使用人棟の奥から声がした。


「誰かいるのか!」


 男の声。


 リーナが怯える。


 ノアが裏庭の扉を指す。


「戻ります」


 リディア、マルタ、リーナは急いで扉へ向かった。


 だが、リーナが一度だけ振り返った。


 使用人棟の小さな窓。

 そこには、同じ年頃の少女たちの影がいくつか見えた。


 リーナは、唇を震わせた。


「私だけじゃない」


 その言葉に、リディアは足を止めた。


 リーナはリディアを見る。


「他にも、帰りたい子がいます。でも、誰も言えない」


 男の足音が近づいてくる。


 ノアが厳しい声で言った。


「今は退避を」


 リディアは頷いた。


 だが、リーナの言葉は胸に刻まれた。


 私だけじゃない。


 扉をくぐると、三人とノアは夜間未受理窓口へ戻っていた。


 受付室の灯りが、少し強くなる。


 マルタとリーナは、カウンターの前で抱き合ったまま泣いていた。


 リディアは、受理済みとなった絶縁届を台帳に記録する。


 絶縁届――受理済

 提出者:マルタ・フェイン

 対象者:リーナ・フェイン

 提出理由:保護目的


 その下に、あの一文が浮かぶ。


 あの子が生きて逃げられるなら、母親でなくなってもいい。


 リディアはしばらく、その文字を見つめていた。


 すると、絶縁届の宛先欄に隠れていた薄い文字が浮かび上がる。


 照会先:貴族院議員 バルツァー・レント


 リディアの眉が動いた。


「バルツァー・レント……」


 セシリアの相手方。

 ローレン・バルツァーの家。

 そして、今回のリーナの奉公先。


 また同じ名前だ。


 ノアが、その文字を見て顔を硬くした。


「その名は」


「知っているんですか」


「十年前の王女救済願にも出てきます」


 リディアは息を止めた。


 ノアの声は低い。


「アレリア王女が調べていた民の嘆願。その中に、バルツァー家に関するものが複数ありました」


 マルタが、不安げに顔を上げる。


「王女様……?」


 ノアは答えない。


 リディアは台帳を見る。


 セシリアの婚約破棄届。

 マルタの絶縁届。

 リーナの奉公契約。

 そして、十年前の王女救済願。


 別々の書類が、一つの名前へつながっていく。


 その時、リーナが震える声で言った。


「屋敷の奥に、古い部屋があります」


 全員が彼女を見る。


「使われていない書類部屋です。夜になると、奥様がそこへ行きます。そこで、古い台帳を燃やしているのを見ました」


 リディアの胸が、強く鳴った。


「どんな台帳ですか」


「分かりません。でも、一度だけ表紙を見ました」


 リーナは不安そうに記憶をたどる。


「そこに、王宮嘆願……処理……と」


 ノアの表情が変わった。


 リディアも、すぐに理解した。


 王宮嘆願処理記録。


 十年前、アレリア王女が読もうとしていた民の嘆願に関わる記録かもしれない。


 リーナは、さらに続けた。


「それと、赤い文字がありました」


 リディアは、無意識に呟いた。


「EX-04」


 リーナが目を見開く。


「そうです。その文字です」


 受付室の空気が、重く沈んだ。


 ノアが台帳を閉じる。


「第十一案件、完了。ただし、関連未受理記録あり」


 リディアは、リーナの震える手を見た。


 ようやく逃げてきた少女。

 けれど、その背後には、まだ逃げられていない人たちがいる。


 そして燃やされようとしている記録がある。


 リディアは受理印を木箱に戻した。


 重さは、もう指に馴染み始めている。

 それが少し怖かった。


 迷わない受理官が一番危険。


 ノアの言葉を思い出す。


 リディアは、あえて深く息を吸った。


 怒りだけで動いてはいけない。

 でも、見なかったことにもできない。


 台帳の余白に、新しい文字が浮かぶ。


 王宮嘆願処理記録――所在不明


 その下に、さらに一行。


 関連先:バルツァー家旧書庫


 リディアは顔を上げた。


 ノアも同じ文字を見ている。


「次は」


 リディアが言うと、ノアが静かに頷いた。


「燃やされる前に、読む必要があります」


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