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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第12話 絶縁状の本当の宛先

 王宮嘆願処理記録――所在不明

 関連先:バルツァー家旧書庫


 台帳に浮かんだその文字を、リディアは見つめていた。


 リーナを連れ戻したばかりだった。


 マルタはまだ、娘の肩を抱いている。

 リーナの顔は青白く、雨に濡れた髪が頬に貼りついていた。けれど、先ほどまで屋敷の裏庭で見せていた怯えは、少しだけ薄れている。


 逃げてきたのだ。


 それだけで、十分なはずだった。


 今夜はもう、この親子を休ませるべきだ。

 リディアの理性はそう言っている。


 だが、台帳に浮かぶ文字は消えない。


 バルツァー家旧書庫。


 リーナが見たという、古い台帳を燃やしていた部屋。

 そこに、十年前の王宮嘆願処理記録があるかもしれない。


 ノアは台帳を閉じずに、静かに言った。


「燃やされる前に読む必要があります」


 リディアはマルタとリーナを見た。


「今すぐ、ですか」


「今すぐでなければ、残らない可能性があります」


 その答えは分かっていた。


 リーナが顔を上げる。


「私、場所なら分かります」


 マルタが娘の肩を強く抱いた。


「リーナ、もういい。あなたはもう、あの屋敷に戻らなくていいの」


「戻りたいわけじゃない」


 リーナは首を横に振った。


「でも、あそこにはまだ、帰りたいって言えない子がいる。私だけ逃げて、全部終わりにはできない」


 その声は震えていた。


 怖くないはずがない。

 たった今まで閉じ込められていた場所に、また意識を向けるだけで苦しいだろう。


 それでも、リーナは逃げた先で、自分だけではないと言った。


 リディアは、受理印の入った木箱に目を落とした。


 受理された願いは、その人の人生の続きを動かす。

 だが、動き出した人が次に何を選ぶかは、受理官が決めることではない。


「リーナさん」


 リディアは言った。


「あなたを屋敷へ連れ戻すことはしません。ですが、旧書庫の位置と、あなたが見たものを教えてください」


 リーナは頷いた。


 ノアが呼び鈴を鳴らす。


 ちりん。


 音は、今夜何度も聞いたはずなのに、毎回少し違って響く。

 今回は、遠くの閉じた部屋の鍵穴に落ちていくような音だった。


 書架の一部がゆっくりと動く。


 現れたのは、先ほどの裏庭へ続く扉ではなかった。

 もっと狭い、古い木扉。


 扉の隙間から、焦げた紙の匂いがした。


「バルツァー家旧書庫の近くです」


 ノアが言った。


「ただし、長くは開けておけません。向こう側の記録が消されかけている」


「私も行きます」


 リーナが言う。


 マルタが止めようとしたが、リーナは母の手を握った。


「場所を案内するだけ。中に入ったら、すぐ戻る」


「リーナ……」


「お母さん」


 リーナは、涙の残る目で母を見た。


「私、さっき帰りたいって言えた。だから、今度は、あの子たちの分も言いたい」


 マルタは唇を噛んだ。


 止めたい。

 でも、止めればまた娘の声を奪うことになる。


 その迷いが、顔に出ていた。


 リディアは静かに言った。


「危なくなったら、すぐ戻します」


 マルタは、長い間娘を見つめたあと、小さく頷いた。


「絶対に、戻ってきて」


「うん」


 リーナは、母の手を一度強く握ってから離した。


 リディア、ノア、リーナの三人は、古い木扉をくぐった。


 そこは、暗い廊下だった。


 石壁に囲まれた、屋敷の裏側の通路。

 壁にかかった燭台の火はほとんど消えかかり、床には薄く灰が積もっている。


 空気が重い。


 紙を燃やした匂い。

 古い革表紙の焦げる匂い。

 それに、湿った地下の冷気が混じっている。


 リーナが小声で言った。


「こっちです」


 彼女は慣れた様子で廊下を進む。

 だが、角を曲がるたび肩が震えるのが分かった。


 リディアは少し後ろからついていった。


 代わりに怖がってやることはできない。

 代わりに歩いてやることもできない。


 ただ、何かあれば手を伸ばせる距離にいる。


 廊下の奥に、分厚い扉があった。


 扉の下から、細い煙が漏れている。


「ここです」


 リーナが囁いた。


「夜になると、奥様がここへ来ます。書類を運ばせるのは、いつも私たち下働きでした。でも、中へ入れるのは奥様と、バルツァー様の書記だけで」


 ノアが扉に手をかざす。


「鍵はかかっています」


「開けられますか」


「開けるのではなく、受け取ります」


 ノアはそう言って、リディアを見る。


「リディア様。絶縁届を」


 リディアは、マルタの絶縁届を取り出した。


 受理済みとなったその紙は、淡く赤い光を帯びている。

 母が娘を守るために、親子関係を一度切る覚悟をした書類。


 ノアは扉の鍵穴に、その絶縁届の端を近づけた。


 すると、紙の余白に浮かんでいた一文が、細い光となって鍵穴へ流れ込む。


 あの子が生きて逃げられるなら、母親でなくなってもいい。


 かちり、と鍵が開いた。


 リディアは息を呑む。


「絶縁届で、鍵が」


「この書庫は、同じ種類の書類で閉じられています」


「同じ種類?」


「誰かを守るために出された書類を、握りつぶして閉じ込めた場所です」


 リディアの胸が冷えた。


 ノアが扉を開く。


 中は、広い書庫だった。


 壁一面に棚があり、古い台帳が積まれている。

 しかし、棚の一部はすでに空になっていた。


 部屋の中央には鉄の火鉢があり、そこに何冊もの台帳が投げ込まれている。


 まだ火はくすぶっていた。


 黒く焦げた紙が、ぱち、と小さく音を立てる。


「ひどい……」


 リディアは思わず呟いた。


 紙が燃えている。

 ただの紙ではない。


 誰かが出した願い。

 誰かが書いた訴え。

 誰かが、それでも読んでほしくて残した言葉。


 それが、灰になっていく。


 リーナが震える声で言った。


「私たち、何度も運びました。古い書類だから処分するって言われて。でも、表紙に『嘆願』って」


 リディアは火鉢へ駆け寄った。


 燃え残った台帳の端を、慎重に引き出す。


 熱い。

 指先が焼けそうになる。


 ノアがすぐに手袋を差し出した。


「素手では危険です」


「ありがとうございます」


 リディアは手袋をはめ、焦げた台帳を取り出した。


 表紙の一部は焼け落ちている。

 だが、かろうじて文字が読めた。


 王宮嘆願処理記録

 補助分類:EX-04


 リディアの心臓が強く鳴った。


「これです」


 ノアが台帳に触れる。


 すると、焦げかけたページの上に、薄い文字が浮かび上がった。


 すでに焼けて読めないはずの部分から、紙に残った最後の声だけが立ち上がってくる。


 奉公解除願――未受理

 養子縁組願――未受理

 負傷届――未受理

 賃金未払い嘆願――未受理

 婚約破棄届――未受理

 絶縁届――未受理


 同じ言葉が、何度も続く。


 未受理。

 未受理。

 未受理。


 リディアは唇を噛んだ。


「こんなに……」


「これでも一部でしょう」


 ノアの声は低かった。


 リーナは棚の一角を指さした。


「あの奥に、赤い紐でまとめた束がありました。奥様が特に燃やすなって言っていたものです」


 リディアは棚へ向かう。


 そこには、確かに赤い紐で括られた書類束があった。

 古いが、火鉢には入れられていない。


 表紙には、貴族院の印。


 そして、バルツァー家の家印。


 リディアは束を開いた。


 最初に出てきたのは、雇用契約書の控えだった。


 リーナのものではない。

 別の少女。別の少年。

 いくつもの名前がある。


 年齢は十二歳、十三歳、十五歳。


「子どもばかり……」


 リディアが呟くと、リーナが顔を青くした。


「屋敷には、私より小さい子もいます。孤児院から来たって言っていました」


「孤児院?」


「はい。バルツァー家が支援している孤児院だって」


 ノアが書類束を見て、眉を寄せる。


「出資者名簿があります」


 リディアはページをめくった。


 そこには、孤児院の名が記されていた。


 聖ユレーネ孤児院


 その下に、出資者一覧。


 バルツァー・レント。

 バルツァー家代理人室。

 貴族院福祉委員補佐。


 そして、小さな文字で処理分類。


 EX-04関連監督対象


 リディアは、胸の奥が冷えていくのを感じた。


「孤児院まで……」


 リーナが小さく言った。


「テオって子がいました」


 リディアは振り向く。


「テオ?」


「私より小さい男の子です。屋敷に来るはずだったけど、急に来なくなりました。厨房の人が、養子に出るはずだったのに手続きが止まったって話していて」


 ノアが書類束をさらにめくる。


 やがて、一枚の控えを引き出した。


 養子縁組願――未受理

 対象者:テオ

 申請者:エルザ・ミント

 処理分類:EX-04


 リディアは、その書類を見つめた。


 次の未受理案件が、すでにそこにある。


 まだ出会っていない少年。

 養子に出るはずだったのに、手続きが止められた子。


 そして、孤児院。


 バルツァー家の影は、婚約破棄届だけでも、絶縁届だけでも終わらない。


「この書類は持ち帰ります」


 リディアは言った。


 ノアが頷く。


「必要です」


 その時、廊下の向こうで足音がした。


 複数人。


 リーナがびくりと震える。


「見回りです」


 ノアが素早く書類束をまとめる。


「退避します」


 だが、火鉢の中の台帳が、まだくすぶっている。


 リディアは一瞬迷った。


 持っていけるものには限りがある。

 燃え残った台帳をすべて救うことはできない。


 でも、せめて。


 リディアは、焦げた王宮嘆願処理記録の一冊を抱えた。


 熱が手袋越しに伝わる。


「リディア様、早く」


「はい」


 リーナが扉へ向かおうとした、その時だった。


 部屋の奥の棚から、ひらりと一枚の紙が落ちた。


 リディアの足元に滑ってくる。


 何かに呼ばれたように、彼女はそれを拾った。


 それは、マルタの絶縁届とよく似た様式の書類だった。


 ただし、古い。


 十年前の日付。


 提出者欄は焼けて読めない。

 対象者欄も半分欠けている。


 だが、宛先欄だけが残っていた。


 王宮嘆願受付 第一王女アレリア殿下宛


 リディアの息が止まる。


「絶縁届……?」


 ノアが紙を見る。


 その表情が硬くなった。


「これは、ただの絶縁届ではありません」


「どういうことですか」


「宛先が王女です」


 リディアは紙を見直した。


 たしかに、絶縁届の本来の宛先は庁舎の戸籍係や家族関係窓口だ。

 王女宛てに出すものではない。


 だが、ここには第一王女アレリア殿下宛とある。


 絶縁状の本当の宛先。


 それは、家族関係を切るための役所ではなかった。


 助けを求めるために、王女へ向けられた手紙だった。


 紙の余白に、一文が浮かび上がる。


 この子を私の娘でなくしてでも、あの家から逃がしてください。


 リディアは息を呑んだ。


 マルタの絶縁届と同じだ。


 十年前にも、同じように子どもを守るため、自分が親でなくなる覚悟をした人がいた。


 その書類は、アレリア王女へ届くはずだった。


 ノアが低く言った。


「アレリア殿下は、こうした嘆願を読んでいたのでしょう」


「民の絶縁届まで?」


「表向きは絶縁届。実際は救済願です」


 足音が近づく。


 ノアが扉を開く。


「戻ります」


 リディアは、古い絶縁状を胸に抱えた。


 リーナと共に扉をくぐる。


 次の瞬間、三人は夜間未受理窓口へ戻っていた。


 扉が閉まる直前、向こう側で男の声が聞こえた。


「誰か入ったか?」


 次いで、何かを蹴る音。

 棚を乱暴に開ける音。


 そして、火鉢に新しい紙束が投げ込まれる音。


 扉が閉じた。


 受付室に戻ると、マルタが駆け寄ってきた。


「リーナ!」


 リーナは母の胸に飛び込んだ。


「大丈夫。大丈夫だから」


 そう言いながら、彼女の声は震えていた。


 リディアは、持ち帰った書類をカウンターに並べた。


 焦げた王宮嘆願処理記録。

 バルツァー家の雇用契約書。

 聖ユレーネ孤児院の出資者名簿。

 テオという少年の養子縁組願。

 そして、十年前の古い絶縁状。


 ノアは、それぞれを台帳へ仮登録していく。


「関連未受理案件、多数」


 彼の声は静かだった。


「王宮嘆願処理記録、部分回収。聖ユレーネ孤児院関連書類、確認。十年前の絶縁状、仮受付」


 リディアは古い絶縁状に触れた。


 紙の奥に、母親らしき誰かの手が震えている。


 マルタの時と同じ。

 けれど、これは十年前のものだ。


 宛先は、アレリア王女。


「王女様は」


 マルタが小さく言った。


 リディアは彼女を見る。


「マルタさん?」


「私、昔、聞いたことがあります。母の知り合いが王宮の下働きをしていて……第一王女様は、民の嘆願を自分で読んでくださる方だったと」


 マルタは、古い絶縁状を見つめた。


「身分の低い者の書類でも、ちゃんと目を通してくださったって」


 ノアは何も言わない。


 リディアも、静かに聞いていた。


「でも、ある時から急に、王女様へ書類を出すことができなくなったそうです。受付で止められて、理由も言われず返されて……そのうち、王女様は病で亡くなられたと」


 マルタの声が、少し震える。


「王女様も、誰かを守ろうとして切り捨てられたんじゃないでしょうか」


 受付室に、深い沈黙が落ちた。


 その言葉は、白紙申請書の奥に沈んでいたものを少しだけ揺らした。


 アレリア王女。


 民の嘆願を読んでいた王女。

 絶縁届の形をした救済願を受け取ろうとしていた王女。

 EX-04で消された書類に触れていた王女。


 彼女は、何を知ったのだろう。


 何を守ろうとしたのだろう。


 リディアは、焦げた台帳のページをめくった。


 焼け残った欄に、かすれた文字がある。


 王宮嘆願制度改正案――草案添付


 ノアの息が、ほんのわずかに止まった。


「改正案……」


 リディアが呟く。


 台帳の文字は、すぐに薄れかけた。


 だが、確かにあった。


 アレリア王女は、ただ嘆願を読んでいたのではない。

 制度を変えようとしていた。


 その時、カウンターの上の養子縁組願が淡く光った。


 養子縁組願――未受理

 対象者:テオ

 申請者:エルザ・ミント


 その下に、新しい一文が浮かぶ。


 あの子を、ここから出してください。


 リディアは、その一文を見つめた。


 まだ見ぬ少年の声。

 あるいは、彼を助けようとした誰かの声。


 マルタとリーナの案件は、終わった。

 けれど、そこから次の未受理が顔を出している。


 この窓口の仕事に、本当の意味での終わりはないのかもしれない。


 ノアが台帳を閉じる。


「次の案件が、来ます」


 リディアは頷いた。


「聖ユレーネ孤児院ですね」


「はい」


 リーナが震える手で、リディアの袖を掴んだ。


「テオを、助けてください」


 その声には、自分が助かったばかりの人の、切実な願いがあった。


 リディアは、彼女の目を見て頷いた。


「まず、お話を聞きます」


 そう言った瞬間、夜間未受理窓口の扉が、小さく鳴った。


 こん。


 遠慮がちな、けれど必死な音。


 ノアが扉へ目を向ける。


「来たようです」


 リディアは受理印の木箱を開けた。


 赤い印が、静かにそこにある。


 過去は変えられない。


 でも、未受理のまま止まっている今なら、まだ動かせるかもしれない。


 リディアは、扉に向かって言った。


「どうぞ」


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