第13話 孤児院から消えた養子縁組願
こん。
扉を叩く音は、小さかった。
けれど、夜間未受理窓口の中では、その音だけがやけにはっきり響いた。
リディアは、受理印の木箱に手を置いたまま、扉を見た。
マルタとリーナは、まだカウンターの脇にいる。
絶縁届は受理された。リーナは屋敷から逃げ出せた。けれど、二人の顔には安堵だけでなく、別の不安が浮かんでいた。
テオ。
リーナが口にした少年の名前。
バルツァー家旧書庫から持ち帰った書類束の中にあった、養子縁組願。
対象者、テオ。
申請者、エルザ・ミント。
処理分類、EX-04。
そして、そこに浮かんだ一文。
あの子を、ここから出してください。
リディアが「どうぞ」と声をかけると、扉がゆっくり開いた。
入ってきたのは、少年だった。
年は十二、三歳ほどだろうか。
痩せていて、肩幅はまだ幼い。濃い茶色の髪は雨で濡れ、古びた上着の袖は手首より少し短い。靴は泥だらけで、片方の紐が切れている。
彼は扉の前で立ち止まったまま、受付室の中を見回した。
警戒している。
逃げる準備をしたまま、ここに立っている。
リディアは、その目を見てすぐに分かった。
この子は、誰かを信じることに慣れていない。
「ここが……未受理窓口?」
少年は、小さな声で尋ねた。
ノアが静かに一礼する。
「夜間未受理窓口です。出せなかった書類、言えなかった願いを受け付けています」
少年は眉をひそめた。
「本当にあったんだ」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
ノアの問いに、少年は少し迷った。
それから、唇を尖らせるようにして答えた。
「テオ」
リーナが息を呑んだ。
「テオ……!」
少年――テオは、リーナを見て目を丸くした。
「リーナ姉?」
「やっぱり、あなた」
リーナはマルタの腕から離れ、駆け寄ろうとした。
だが、テオは反射的に一歩下がった。
リーナは足を止める。
その距離に、リディアは胸が痛んだ。
知っている相手でも、すぐには近づけない。
きっと彼らは、そういう場所で過ごしてきたのだ。
「リーナ姉、逃げたの?」
テオが尋ねる。
リーナは頷いた。
「うん。今、ここで……助けてもらった」
「ふうん」
テオはそっぽを向いた。
「よかったじゃん」
言葉はそっけない。
だが、その声の奥に、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。
リディアはカウンターの上に置かれた養子縁組願を見た。
テオの名前がある書類。
彼自身がここへ来た以上、もうただの回収書類ではない。
正式な依頼人が来たのだ。
「テオさん」
リディアは、できるだけ穏やかに声をかけた。
「あなたは、どうしてここへ?」
テオはリディアを見た。
その目は、大人を試すようだった。
「手紙が来た」
「手紙?」
「いや、手紙じゃないかも。紙切れ」
テオは上着の内側から、くしゃくしゃになった紙を取り出した。
それは、古い養子縁組願の控えだった。
バルツァー家旧書庫から持ち帰ったものと同じ様式。
だが、こちらはもっと小さい。申請者控えではなく、対象者確認用の写しだろう。
紙には、ところどころ指の跡がついている。
何度も読み返された痕だ。
リディアは受け取る前に尋ねた。
「見せてもらってもいいですか」
テオは少し驚いたように目を瞬いた。
許可を求められると思っていなかったのかもしれない。
「……いいよ」
リディアは紙を受け取った。
そこには、こう書かれていた。
養子縁組願
申請者:エルザ・ミント
対象者:テオ
申請先:王都庁舎 家族関係窓口
右下には、赤い印。
未受理
そして、その下に小さく浮かぶ分類。
EX-04
リディアは眉をひそめた。
「この紙は、どこで?」
「孤児院の焼却箱」
テオは淡々と言った。
「燃やす前の紙を拾った。俺の名前があったから」
リーナが青ざめる。
「テオ、まだあそこにいるの?」
「いるよ」
「逃げてきたの?」
「ちょっと抜けてきただけ」
テオは肩をすくめた。
「朝までに戻らないと、面倒になる」
リディアは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
戻るつもりなのか。
いや、戻らなければならないと思っているのだ。
「テオさん。この養子縁組願について、知りたいのですね」
リディアが尋ねると、テオは唇を噛んだ。
「知りたいっていうか」
彼は、カウンターの上の紙を睨む。
「エルザさんは、俺を引き取りたいって言ってた」
「エルザ・ミントさんですね」
「うん。パン屋のおばさん。孤児院に時々、売れ残りのパンを持ってきてくれてた」
テオの声が、少しだけ柔らかくなった。
「俺が小さい頃から知ってる。口うるさくて、パンの耳ばっかりくれる人。でも、冬に熱を出したとき、毛布を持ってきてくれた」
リディアは黙って聞いていた。
「ある日、エルザさんが言った。うちの子にならないかって」
テオの視線が揺れる。
「俺、笑ったんだ。そんな冗談やめろって。でも、本当だった。書類も出してくれた。院長にも話したって」
「その後、どうなったのですか」
「急に来なくなった」
短い答えだった。
「エルザさんが?」
「うん」
テオは、紙を指さした。
「院長は、エルザさんが気を変えたって言った。引き取るのはやっぱり無理だって。俺みたいなのを家に入れたら店の評判が悪くなるって」
リーナが震えた。
「そんなこと」
「でも、そう言われた」
テオは、なんでもないことのように言った。
なんでもないはずがないのに。
「だから、俺も別にいいって言った。最初から期待してないし。孤児院にいる方が慣れてるし」
彼は笑った。
強がりの笑いだった。
「でも、紙を拾ったら、未受理って書いてあった。意味分かんないだろ。エルザさんがやめたなら、未受理じゃなくて取り下げだろ」
リディアは、思わず息を止めた。
この子は分かっている。
書類の違和感に気づいている。
たぶん、誰もきちんと説明してくれなかったのに。
「それで、ここへ?」
「この紙の裏に、夜になったら窓口を探せって浮かんだ」
テオは少し気味悪そうに言った。
「本当に出るとは思わなかった」
ノアが台帳を開く。
すでに新しいページが浮かんでいた。
養子縁組願――未受理
対象者:テオ
申請者:エルザ・ミント
申請理由:保護目的
処理分類:EX-04
リディアは、その一行を見つめた。
保護目的。
マルタの絶縁届と同じだ。
誰かを家に迎える書類。
誰かを守るための書類。
それが、またEX-04にされている。
「テオさん」
リディアは言った。
「この書類に残された未受理の一文を読むことができます。ただし、あなたが思っていることと違う言葉が出るかもしれません」
「別にいいよ」
テオはすぐに言った。
「どうせ、ろくなことじゃない」
「それでも、聞きますか」
「聞く」
その返事は、強かった。
だがリディアは、そこに自棄も感じた。
傷つかないように、先に自分でひどい結果を想像しておく。
そうすれば、本当に傷ついた時、少しだけ耐えられる。
そんな子どもの防御。
リディアは、養子縁組願の写しにそっと指を置いた。
紙は薄く、少し焦げた匂いがした。
触れた瞬間、視界に別の場所が浮かぶ。
白い壁。
長い食堂。
薄いスープ。
古い毛布。
窓の外で鳴る鐘。
聖ユレーネ孤児院。
子どもたちの声がする。
笑い声ではない。
叱責を避けるために小さく話す声。足音を殺して歩く音。皿を落として怒鳴られる音。
その中に、テオがいる。
幼いテオ。
もっと小さく、もっと痩せている。
彼はパンの耳を両手で持っていた。
目の前には、ふくよかな女性。
エルザ・ミント。
赤ら顔で、腕が太く、声が大きい。
笑うと目尻が下がる。
彼女はテオに言う。
――うちに来るかい。
テオは笑う。
――変な冗談。
エルザは怒ったような顔をする。
――冗談でこんな書類、書くもんかね。
その手には、養子縁組願があった。
リディアの胸が温かくなる。
エルザは、本気だった。
その気持ちは、紙の端に残っている。
けれど次の記憶で、空気が変わる。
孤児院長の部屋。
暗い木の机。
壁に飾られた慈善者たちの名札。
その中に、バルツァー家の名がある。
エルザが書類を差し出している。
院長は微笑んでいる。
だが、その目は笑っていない。
――テオは、すでに別の奉公先が決まりかけています。
――そんな話、本人から聞いてないよ。
――孤児の進路は、院が責任をもって管理します。
――あの子は物じゃない。
エルザの声が怒りに震える。
その時、部屋の隅にいた誰かが、こっそりと書類に手を伸ばす。
若い女性。
修道服に似た簡素な服。
孤児院の手伝いだろうか。
彼女の指が震えている。
書類の端に、目には見えないほど小さく、何かを書きつける。
そして、声にならない願いを残す。
リディアの指先に熱が集まった。
養子縁組願の余白に、一文が浮かぶ。
あの子を、ここから出してください。
リディアは息を吸った。
これは、エルザの言葉ではない。
もちろん、エルザの願いでもある。
だが、この一文は、孤児院の中にいた誰かのものだ。
テオを見ていた誰か。
逃がしたいと思いながら、表立っては言えなかった誰か。
「読めた?」
テオが言った。
強い声を出そうとしているのに、喉が震えている。
リディアは、ゆっくり頷いた。
「この書類に残された一文は、こうです」
テオは身構えた。
「あの子を、ここから出してください。」
テオの目が揺れた。
「……誰が」
「おそらく、エルザさんだけではありません」
「どういう意味」
「この養子縁組願には、エルザさんの願いも残っています。けれど、この一文は孤児院の中にいた誰かが残したものです」
「孤児院の中に?」
「はい。あなたを、そこから出したいと思っていた人がいた」
テオは、理解できないという顔をした。
「そんな人、いない」
「本当に?」
「いないよ」
語気が強くなる。
「みんな自分のことで精一杯だ。先生たちは院長の顔色ばっかり見てる。子どもたちだって、誰かが怒られてても見ないふりする」
リーナが、小さく言った。
「それは、見捨てたいからじゃないよ」
テオはリーナを睨んだ。
「分かってるよ」
その声は、怒っているのではなく、泣きそうだった。
「分かってるけど、だったら何なんだよ。誰かが助けたいって思ってたなら、どうして俺はまだあそこにいるんだよ」
リディアは答えられなかった。
助けたいと思うことと、実際に助けられることの間には、深い溝がある。
ノアが静かに言う。
「未受理の願いは、弱かったから残るのではありません」
テオがノアを見る。
「届かなかったから、残るのです」
テオは黙った。
カウンターの上で、養子縁組願が淡く光っている。
リディアは、もう一度書類を見た。
申請者、エルザ・ミント。
対象者、テオ。
必要書類は揃っている。
保証人欄もある。
収入証明も添付済み。
住居確認も完了している。
不備はない。
それなのに、未受理。
「この書類は、なぜ未受理に?」
リディアはノアに尋ねた。
ノアは処理痕写しを取り出し、養子縁組願の上に重ねた。
透明な紙に、処理の痕跡が浮かび上がる。
受付準備完了
申請者資格確認済
対象者面談予定
孤児院長意見書未提出
そこまでは、正常な手続きだった。
しかし次の行で、文字が歪む。
進路調整中につき保留
出資者確認要
分類外:EX-04へ移管
リディアは目を細めた。
「出資者確認」
ノアが頷く。
「孤児院の出資者が、養子縁組を止めた可能性があります」
「バルツァー家ですね」
答えは分かっていた。
処理痕の次の行に、赤い印が浮かぶ。
照会先:バルツァー家代理人室
テオは、意味が分からないという顔をしていた。
「なんで、俺が養子に行くのをバルツァー家が止めるんだよ」
リーナの顔が青ざめる。
「奉公先……」
リディアは彼女を見る。
「リーナさん?」
「屋敷で聞いたことがあります。孤児院の子は、身寄りがないから扱いやすいって」
マルタがリーナを抱く腕に力を込めた。
リーナは震えながら続けた。
「親がいない子なら、文句を言う人がいない。契約も院長と屋敷で決められる。そう、使用人頭が言っていました」
テオの顔から、血の気が引いた。
「俺も、奉公に出される予定だったってこと?」
誰もすぐには答えなかった。
それが答えになってしまった。
テオは唇を噛んだ。
「エルザさんがやめたんじゃ、なかったのかよ」
声が震えた。
「俺がいらなくなったんじゃ」
「違います」
リディアは、はっきりと言った。
「この書類を見る限り、エルザさんは手続きを進めていました。不備もありません。止められたのは、申請者の意思ではなく、孤児院と出資者側の都合です」
テオは目を見開いた。
その瞳に、怒りより先に戸惑いが浮かぶ。
信じたい。
けれど、信じたら、これまで自分を守るために作ってきた諦めが崩れる。
「じゃあ、エルザさんは……」
「あなたを迎えるつもりだった可能性が高いです」
「でも、来なかった」
「来られなかったのかもしれません」
テオの顔が歪んだ。
「なんで、誰も言わないんだよ」
彼は小さく吐き捨てた。
「なんで、俺にだけ、捨てられたって思わせるんだよ」
その声は、受付室の床に落ちた。
リディアは何も言えなかった。
未受理は、ただ書類を止めるだけではない。
人に、違う物語を信じさせる。
セシリアは、自分が捨てられた令嬢にされた。
テオは、自分が引き取られなかった子にされた。
そして、リディア自身も、改ざん者にされた。
書類を握りつぶすことは、その人の人生の意味を書き換えることなのだ。
ノアが台帳に手を置いた。
「この案件は、申請者エルザ・ミント様の確認が必要です」
「エルザさんに会えるんですか」
テオの声が、かすかに上ずった。
「道は開く可能性があります」
リディアはテオを見る。
「会いたいですか」
テオはすぐには答えなかった。
唇を噛み、うつむく。
「会って、もし本当にいらないって言われたら?」
それは、少年の一番深い恐怖だった。
未受理のままなら、まだ想像できる。
期待しないふりもできる。
だが、本人に会って拒まれたら、もう逃げ場がない。
リディアは、テオの目線に合わせるように少し身をかがめた。
「怖いなら、今すぐ会わなくてもいいです」
テオが驚いたように顔を上げる。
「いいの?」
「はい。受理は、急がせることではありません」
ノアが、わずかにリディアを見る。
リディアは続けた。
「でも、このまま孤児院へ戻れば、あなたの書類はまた消されるかもしれない。あなたが奉公に出される手続きも進むかもしれない」
「……分かってる」
「だから、決めるために、まずエルザさんの話を聞く。そういう選び方もあります」
テオは黙った。
長い沈黙だった。
やがて、小さく頷く。
「聞く」
「はい」
「でも、俺、一人じゃ無理」
その言葉に、リディアは胸が詰まった。
この子は、強がるのを一度やめた。
それだけで、大きな一歩だった。
「一緒に行きます」
リディアが言うと、テオは目を逸らした。
「別に、頼んでない」
「はい」
「でも、来てもいい」
「分かりました」
リーナが少しだけ笑った。
テオはそれに気づいて、耳を赤くした。
「笑うなよ」
「笑ってない」
「笑った」
「ちょっとだけ」
そのやり取りに、受付室の空気がほんの少し緩んだ。
だが、ノアは台帳を見つめたまま、静かに言った。
「エルザ・ミント様の居所へ道を開きます」
呼び鈴が鳴る。
ちりん。
今度の音は、パンを焼く石窯の奥へ届くような、かすかに温かい響きだった。
受付室の壁に、小さな扉が現れる。
その隙間から、焼きたてのパンの香りがした。
テオの顔が、ほんの少しだけ変わった。
懐かしさと、怖さが同時に浮かぶ顔。
リディアは言った。
「行きましょう」
扉を開けると、そこは王都の下町にある小さなパン屋の裏口だった。
夜明け前なのに、店の中は明るい。
石窯の火が赤く燃え、作業台にはこねられた生地が並んでいる。
腕まくりをした女性が一人、粉まみれの手で生地を丸めていた。
彼女は物音に気づき、振り返る。
ふくよかな体。
赤ら顔。
鋭そうな目。
けれど、その目がテオを見た瞬間、大きく見開かれた。
「テオ……?」
テオは、入口で固まった。
「エルザさん」
エルザは粉のついた手を拭くことも忘れて、作業台を回り込もうとした。
だが、テオが一歩下がる。
エルザは足を止めた。
その目に、痛みが浮かぶ。
「来てくれたのかい」
「別に」
テオは強がるように言った。
「俺が来たかったわけじゃない。紙が、変なところに連れてきただけ」
エルザは、リディアとノアを見た。
「あなた方は」
「夜間未受理窓口の者です」
ノアが言うと、エルザの顔が変わった。
「未受理……」
彼女は、作業台の端を強く掴んだ。
「やっぱり、あの書類は」
リディアは養子縁組願を差し出した。
「エルザ・ミント様。こちらの養子縁組願について、確認させてください」
エルザは紙を見るなり、目に涙を浮かべた。
「捨ててなかったのかい」
「孤児院の焼却箱にありました」
テオが言った。
エルザの顔が歪む。
「あの院長……!」
怒りの声だった。
それだけで、テオの肩が小さく震えた。
「エルザさんは」
テオは、必死に声を出した。
「俺を、やっぱりいらないって思ったんじゃないの」
エルザは、殴られたような顔をした。
「馬鹿言うんじゃないよ」
その声は大きかった。
だが、怒りの矛先はテオではない。
「いらない子に、毎朝余分にパンを焼くもんかね。いらない子のために、役所へ何度も頭を下げるもんかね。いらない子の毛布を、冬の前に縫い直すもんかね」
テオの目が揺れる。
「じゃあ、なんで来なくなったんだよ」
「止められたんだよ」
エルザの声が震えた。
「孤児院から、あんたに会わせないって言われた。私が騒げば、あんたの奉公先に悪い噂を流すって。パン屋なんて潰すのは簡単だって」
「奉公先……」
「そんな話、私は聞いてなかった。あんたはうちに来るはずだった」
エルザは養子縁組願を見つめた。
「全部揃えた。保証人も、部屋も、収入証明も。役所の人も、不備はないって言った。それなのに、急に受付記録がないと言われたんだ」
リディアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
やはり。
エルザは取り下げていない。
テオは捨てられていない。
ただ、書類を消された。
ノアが確認する。
「エルザ様。現在も、テオ様を養子として迎える意思はありますか」
エルザは、テオを見る。
テオは顔をそむけたまま、ちらりと彼女を見ている。
エルザは、ゆっくりと言った。
「あるよ」
テオの肩が震える。
「今さら?」
「今さらでも」
「俺、もう小さい子じゃないし」
「知ってるよ」
「口も悪いし」
「前からだよ」
「手伝いだって、うまくできるか分からない」
「パン生地は、失敗して覚えるもんだ」
テオは唇を噛んだ。
「俺、本当に行っていいの」
エルザは、粉のついた手をエプロンで拭いた。
それから、両手を広げた。
「来るかい」
テオは、すぐには動かなかった。
一歩。
また一歩。
ゆっくり近づいて、最後は走るようにエルザの胸に飛び込んだ。
エルザは、彼を強く抱きしめた。
「遅くなって、ごめんよ」
テオは何も言わなかった。
ただ、エルザのエプロンを握りしめ、声を殺して泣いた。
リディアは、そっと目を伏せた。
受理印は、過去を変えない。
テオが孤児院で過ごした時間は戻らない。
エルザが会えなかった時間も消えない。
けれど、捨てられたと思い込まされた物語は、今ここで書き換わった。
ノアがリディアへ受理印を差し出す。
「リディア様」
リディアは頷いた。
エルザとテオが顔を上げる。
「この養子縁組願を受理すれば、過去は変わりません」
リディアは言った。
「未受理にされた時間も、孤児院での扱いも、消えません。ですが、エルザ様がテオさんを迎えようとした事実と、テオさんがそれを受ける意思は、正式な場所を持ちます」
エルザは力強く頷いた。
「受け付けてください」
テオも、小さく頷いた。
「俺も……行く」
リディアは養子縁組願に受理印を押した。
赤い印が、紙に沈む。
その瞬間、パン屋の窓の外に朝の光が差し込んだ。
石窯の火がぱちりと鳴る。
カウンターの上に置かれていた小さなパンが、ふわりと温かい香りを立てた。
エルザが笑いながら泣いた。
「ほら、朝ごはんだよ。あんた、どうせ何も食べてないんだろ」
テオは涙を拭きながら、むっとした顔をした。
「食べたし」
「嘘お言い」
「ちょっとは食べた」
「じゃあ、たくさん食べな」
リディアは、その光景を見て胸が温かくなった。
だが、安心したのも束の間だった。
受理済みとなった養子縁組願の裏に、新しい文字が浮かび始めた。
関連未受理案件:聖ユレーネ孤児院保管庫
リディアの表情が引き締まる。
ノアも同じ文字を見ていた。
さらに、処理痕写しに別の記録が浮かぶ。
出資者:バルツァー・レント
未成年奉公予定者名簿 複数
分類外:EX-04
テオがパンを握ったまま、声を落とした。
「俺だけじゃない」
リーナと同じ言葉だった。
リディアは、テオを見る。
彼の目には、さっきまでの諦めとは違うものが宿っていた。
怒りだ。
そして、恐怖を抱えたままの決意。
「孤児院には、まだいる。エルザさんみたいな人が来てた子もいた。でも、みんな急に話がなくなった」
エルザも険しい顔になる。
「私以外にもいたのかい」
「いた。たぶん」
テオは養子縁組願を見つめた。
「俺、院長が鍵をかけてる部屋を知ってる。保管庫って呼んでる。子どもには絶対近づくなって」
リディアは、ノアを見る。
ノアは小さく頷いた。
「次に向かうべき場所です」
リディアは、受理印を木箱に戻さなかった。
手の中に、その重さを残したまま言う。
「聖ユレーネ孤児院へ行きましょう」
ノアは静かに答えた。
「はい。これはもう、偶然ではありません」




