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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第13話 孤児院から消えた養子縁組願

 こん。


 扉を叩く音は、小さかった。


 けれど、夜間未受理窓口の中では、その音だけがやけにはっきり響いた。


 リディアは、受理印の木箱に手を置いたまま、扉を見た。


 マルタとリーナは、まだカウンターの脇にいる。

 絶縁届は受理された。リーナは屋敷から逃げ出せた。けれど、二人の顔には安堵だけでなく、別の不安が浮かんでいた。


 テオ。


 リーナが口にした少年の名前。


 バルツァー家旧書庫から持ち帰った書類束の中にあった、養子縁組願。

 対象者、テオ。

 申請者、エルザ・ミント。

 処理分類、EX-04。


 そして、そこに浮かんだ一文。


 あの子を、ここから出してください。


 リディアが「どうぞ」と声をかけると、扉がゆっくり開いた。


 入ってきたのは、少年だった。


 年は十二、三歳ほどだろうか。

 痩せていて、肩幅はまだ幼い。濃い茶色の髪は雨で濡れ、古びた上着の袖は手首より少し短い。靴は泥だらけで、片方の紐が切れている。


 彼は扉の前で立ち止まったまま、受付室の中を見回した。


 警戒している。


 逃げる準備をしたまま、ここに立っている。


 リディアは、その目を見てすぐに分かった。


 この子は、誰かを信じることに慣れていない。


「ここが……未受理窓口?」


 少年は、小さな声で尋ねた。


 ノアが静かに一礼する。


「夜間未受理窓口です。出せなかった書類、言えなかった願いを受け付けています」


 少年は眉をひそめた。


「本当にあったんだ」


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


 ノアの問いに、少年は少し迷った。


 それから、唇を尖らせるようにして答えた。


「テオ」


 リーナが息を呑んだ。


「テオ……!」


 少年――テオは、リーナを見て目を丸くした。


「リーナ姉?」


「やっぱり、あなた」


 リーナはマルタの腕から離れ、駆け寄ろうとした。

 だが、テオは反射的に一歩下がった。


 リーナは足を止める。


 その距離に、リディアは胸が痛んだ。


 知っている相手でも、すぐには近づけない。

 きっと彼らは、そういう場所で過ごしてきたのだ。


「リーナ姉、逃げたの?」


 テオが尋ねる。


 リーナは頷いた。


「うん。今、ここで……助けてもらった」


「ふうん」


 テオはそっぽを向いた。


「よかったじゃん」


 言葉はそっけない。

 だが、その声の奥に、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。


 リディアはカウンターの上に置かれた養子縁組願を見た。


 テオの名前がある書類。

 彼自身がここへ来た以上、もうただの回収書類ではない。


 正式な依頼人が来たのだ。


「テオさん」


 リディアは、できるだけ穏やかに声をかけた。


「あなたは、どうしてここへ?」


 テオはリディアを見た。


 その目は、大人を試すようだった。


「手紙が来た」


「手紙?」


「いや、手紙じゃないかも。紙切れ」


 テオは上着の内側から、くしゃくしゃになった紙を取り出した。


 それは、古い養子縁組願の控えだった。


 バルツァー家旧書庫から持ち帰ったものと同じ様式。

 だが、こちらはもっと小さい。申請者控えではなく、対象者確認用の写しだろう。


 紙には、ところどころ指の跡がついている。

 何度も読み返された痕だ。


 リディアは受け取る前に尋ねた。


「見せてもらってもいいですか」


 テオは少し驚いたように目を瞬いた。


 許可を求められると思っていなかったのかもしれない。


「……いいよ」


 リディアは紙を受け取った。


 そこには、こう書かれていた。


 養子縁組願

 申請者:エルザ・ミント

 対象者:テオ

 申請先:王都庁舎 家族関係窓口


 右下には、赤い印。


 未受理


 そして、その下に小さく浮かぶ分類。


 EX-04


 リディアは眉をひそめた。


「この紙は、どこで?」


「孤児院の焼却箱」


 テオは淡々と言った。


「燃やす前の紙を拾った。俺の名前があったから」


 リーナが青ざめる。


「テオ、まだあそこにいるの?」


「いるよ」


「逃げてきたの?」


「ちょっと抜けてきただけ」


 テオは肩をすくめた。


「朝までに戻らないと、面倒になる」


 リディアは胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 戻るつもりなのか。


 いや、戻らなければならないと思っているのだ。


「テオさん。この養子縁組願について、知りたいのですね」


 リディアが尋ねると、テオは唇を噛んだ。


「知りたいっていうか」


 彼は、カウンターの上の紙を睨む。


「エルザさんは、俺を引き取りたいって言ってた」


「エルザ・ミントさんですね」


「うん。パン屋のおばさん。孤児院に時々、売れ残りのパンを持ってきてくれてた」


 テオの声が、少しだけ柔らかくなった。


「俺が小さい頃から知ってる。口うるさくて、パンの耳ばっかりくれる人。でも、冬に熱を出したとき、毛布を持ってきてくれた」


 リディアは黙って聞いていた。


「ある日、エルザさんが言った。うちの子にならないかって」


 テオの視線が揺れる。


「俺、笑ったんだ。そんな冗談やめろって。でも、本当だった。書類も出してくれた。院長にも話したって」


「その後、どうなったのですか」


「急に来なくなった」


 短い答えだった。


「エルザさんが?」


「うん」


 テオは、紙を指さした。


「院長は、エルザさんが気を変えたって言った。引き取るのはやっぱり無理だって。俺みたいなのを家に入れたら店の評判が悪くなるって」


 リーナが震えた。


「そんなこと」


「でも、そう言われた」


 テオは、なんでもないことのように言った。


 なんでもないはずがないのに。


「だから、俺も別にいいって言った。最初から期待してないし。孤児院にいる方が慣れてるし」


 彼は笑った。


 強がりの笑いだった。


「でも、紙を拾ったら、未受理って書いてあった。意味分かんないだろ。エルザさんがやめたなら、未受理じゃなくて取り下げだろ」


 リディアは、思わず息を止めた。


 この子は分かっている。


 書類の違和感に気づいている。


 たぶん、誰もきちんと説明してくれなかったのに。


「それで、ここへ?」


「この紙の裏に、夜になったら窓口を探せって浮かんだ」


 テオは少し気味悪そうに言った。


「本当に出るとは思わなかった」


 ノアが台帳を開く。


 すでに新しいページが浮かんでいた。


 養子縁組願――未受理

 対象者:テオ

 申請者:エルザ・ミント

 申請理由:保護目的

 処理分類:EX-04


 リディアは、その一行を見つめた。


 保護目的。


 マルタの絶縁届と同じだ。


 誰かを家に迎える書類。

 誰かを守るための書類。


 それが、またEX-04にされている。


「テオさん」


 リディアは言った。


「この書類に残された未受理の一文を読むことができます。ただし、あなたが思っていることと違う言葉が出るかもしれません」


「別にいいよ」


 テオはすぐに言った。


「どうせ、ろくなことじゃない」


「それでも、聞きますか」


「聞く」


 その返事は、強かった。


 だがリディアは、そこに自棄も感じた。


 傷つかないように、先に自分でひどい結果を想像しておく。

 そうすれば、本当に傷ついた時、少しだけ耐えられる。


 そんな子どもの防御。


 リディアは、養子縁組願の写しにそっと指を置いた。


 紙は薄く、少し焦げた匂いがした。


 触れた瞬間、視界に別の場所が浮かぶ。


 白い壁。

 長い食堂。

 薄いスープ。

 古い毛布。

 窓の外で鳴る鐘。


 聖ユレーネ孤児院。


 子どもたちの声がする。

 笑い声ではない。

 叱責を避けるために小さく話す声。足音を殺して歩く音。皿を落として怒鳴られる音。


 その中に、テオがいる。


 幼いテオ。

 もっと小さく、もっと痩せている。


 彼はパンの耳を両手で持っていた。

 目の前には、ふくよかな女性。


 エルザ・ミント。


 赤ら顔で、腕が太く、声が大きい。

 笑うと目尻が下がる。


 彼女はテオに言う。


 ――うちに来るかい。


 テオは笑う。


 ――変な冗談。


 エルザは怒ったような顔をする。


 ――冗談でこんな書類、書くもんかね。


 その手には、養子縁組願があった。


 リディアの胸が温かくなる。


 エルザは、本気だった。


 その気持ちは、紙の端に残っている。


 けれど次の記憶で、空気が変わる。


 孤児院長の部屋。

 暗い木の机。

 壁に飾られた慈善者たちの名札。

 その中に、バルツァー家の名がある。


 エルザが書類を差し出している。


 院長は微笑んでいる。

 だが、その目は笑っていない。


 ――テオは、すでに別の奉公先が決まりかけています。


 ――そんな話、本人から聞いてないよ。


 ――孤児の進路は、院が責任をもって管理します。


 ――あの子は物じゃない。


 エルザの声が怒りに震える。


 その時、部屋の隅にいた誰かが、こっそりと書類に手を伸ばす。


 若い女性。

 修道服に似た簡素な服。

 孤児院の手伝いだろうか。


 彼女の指が震えている。


 書類の端に、目には見えないほど小さく、何かを書きつける。


 そして、声にならない願いを残す。


 リディアの指先に熱が集まった。


 養子縁組願の余白に、一文が浮かぶ。


 あの子を、ここから出してください。


 リディアは息を吸った。


 これは、エルザの言葉ではない。


 もちろん、エルザの願いでもある。

 だが、この一文は、孤児院の中にいた誰かのものだ。


 テオを見ていた誰か。

 逃がしたいと思いながら、表立っては言えなかった誰か。


「読めた?」


 テオが言った。


 強い声を出そうとしているのに、喉が震えている。


 リディアは、ゆっくり頷いた。


「この書類に残された一文は、こうです」


 テオは身構えた。


「あの子を、ここから出してください。」


 テオの目が揺れた。


「……誰が」


「おそらく、エルザさんだけではありません」


「どういう意味」


「この養子縁組願には、エルザさんの願いも残っています。けれど、この一文は孤児院の中にいた誰かが残したものです」


「孤児院の中に?」


「はい。あなたを、そこから出したいと思っていた人がいた」


 テオは、理解できないという顔をした。


「そんな人、いない」


「本当に?」


「いないよ」


 語気が強くなる。


「みんな自分のことで精一杯だ。先生たちは院長の顔色ばっかり見てる。子どもたちだって、誰かが怒られてても見ないふりする」


 リーナが、小さく言った。


「それは、見捨てたいからじゃないよ」


 テオはリーナを睨んだ。


「分かってるよ」


 その声は、怒っているのではなく、泣きそうだった。


「分かってるけど、だったら何なんだよ。誰かが助けたいって思ってたなら、どうして俺はまだあそこにいるんだよ」


 リディアは答えられなかった。


 助けたいと思うことと、実際に助けられることの間には、深い溝がある。


 ノアが静かに言う。


「未受理の願いは、弱かったから残るのではありません」


 テオがノアを見る。


「届かなかったから、残るのです」


 テオは黙った。


 カウンターの上で、養子縁組願が淡く光っている。


 リディアは、もう一度書類を見た。


 申請者、エルザ・ミント。

 対象者、テオ。

 必要書類は揃っている。


 保証人欄もある。

 収入証明も添付済み。

 住居確認も完了している。


 不備はない。


 それなのに、未受理。


「この書類は、なぜ未受理に?」


 リディアはノアに尋ねた。


 ノアは処理痕写しを取り出し、養子縁組願の上に重ねた。


 透明な紙に、処理の痕跡が浮かび上がる。


 受付準備完了

 申請者資格確認済

 対象者面談予定

 孤児院長意見書未提出


 そこまでは、正常な手続きだった。


 しかし次の行で、文字が歪む。


 進路調整中につき保留

 出資者確認要

 分類外:EX-04へ移管


 リディアは目を細めた。


「出資者確認」


 ノアが頷く。


「孤児院の出資者が、養子縁組を止めた可能性があります」


「バルツァー家ですね」


 答えは分かっていた。


 処理痕の次の行に、赤い印が浮かぶ。


 照会先:バルツァー家代理人室


 テオは、意味が分からないという顔をしていた。


「なんで、俺が養子に行くのをバルツァー家が止めるんだよ」


 リーナの顔が青ざめる。


「奉公先……」


 リディアは彼女を見る。


「リーナさん?」


「屋敷で聞いたことがあります。孤児院の子は、身寄りがないから扱いやすいって」


 マルタがリーナを抱く腕に力を込めた。


 リーナは震えながら続けた。


「親がいない子なら、文句を言う人がいない。契約も院長と屋敷で決められる。そう、使用人頭が言っていました」


 テオの顔から、血の気が引いた。


「俺も、奉公に出される予定だったってこと?」


 誰もすぐには答えなかった。


 それが答えになってしまった。


 テオは唇を噛んだ。


「エルザさんがやめたんじゃ、なかったのかよ」


 声が震えた。


「俺がいらなくなったんじゃ」


「違います」


 リディアは、はっきりと言った。


「この書類を見る限り、エルザさんは手続きを進めていました。不備もありません。止められたのは、申請者の意思ではなく、孤児院と出資者側の都合です」


 テオは目を見開いた。


 その瞳に、怒りより先に戸惑いが浮かぶ。


 信じたい。

 けれど、信じたら、これまで自分を守るために作ってきた諦めが崩れる。


「じゃあ、エルザさんは……」


「あなたを迎えるつもりだった可能性が高いです」


「でも、来なかった」


「来られなかったのかもしれません」


 テオの顔が歪んだ。


「なんで、誰も言わないんだよ」


 彼は小さく吐き捨てた。


「なんで、俺にだけ、捨てられたって思わせるんだよ」


 その声は、受付室の床に落ちた。


 リディアは何も言えなかった。


 未受理は、ただ書類を止めるだけではない。

 人に、違う物語を信じさせる。


 セシリアは、自分が捨てられた令嬢にされた。

 テオは、自分が引き取られなかった子にされた。


 そして、リディア自身も、改ざん者にされた。


 書類を握りつぶすことは、その人の人生の意味を書き換えることなのだ。


 ノアが台帳に手を置いた。


「この案件は、申請者エルザ・ミント様の確認が必要です」


「エルザさんに会えるんですか」


 テオの声が、かすかに上ずった。


「道は開く可能性があります」


 リディアはテオを見る。


「会いたいですか」


 テオはすぐには答えなかった。


 唇を噛み、うつむく。


「会って、もし本当にいらないって言われたら?」


 それは、少年の一番深い恐怖だった。


 未受理のままなら、まだ想像できる。

 期待しないふりもできる。


 だが、本人に会って拒まれたら、もう逃げ場がない。


 リディアは、テオの目線に合わせるように少し身をかがめた。


「怖いなら、今すぐ会わなくてもいいです」


 テオが驚いたように顔を上げる。


「いいの?」


「はい。受理は、急がせることではありません」


 ノアが、わずかにリディアを見る。


 リディアは続けた。


「でも、このまま孤児院へ戻れば、あなたの書類はまた消されるかもしれない。あなたが奉公に出される手続きも進むかもしれない」


「……分かってる」


「だから、決めるために、まずエルザさんの話を聞く。そういう選び方もあります」


 テオは黙った。


 長い沈黙だった。


 やがて、小さく頷く。


「聞く」


「はい」


「でも、俺、一人じゃ無理」


 その言葉に、リディアは胸が詰まった。


 この子は、強がるのを一度やめた。


 それだけで、大きな一歩だった。


「一緒に行きます」


 リディアが言うと、テオは目を逸らした。


「別に、頼んでない」


「はい」


「でも、来てもいい」


「分かりました」


 リーナが少しだけ笑った。


 テオはそれに気づいて、耳を赤くした。


「笑うなよ」


「笑ってない」


「笑った」


「ちょっとだけ」


 そのやり取りに、受付室の空気がほんの少し緩んだ。


 だが、ノアは台帳を見つめたまま、静かに言った。


「エルザ・ミント様の居所へ道を開きます」


 呼び鈴が鳴る。


 ちりん。


 今度の音は、パンを焼く石窯の奥へ届くような、かすかに温かい響きだった。


 受付室の壁に、小さな扉が現れる。


 その隙間から、焼きたてのパンの香りがした。


 テオの顔が、ほんの少しだけ変わった。


 懐かしさと、怖さが同時に浮かぶ顔。


 リディアは言った。


「行きましょう」


 扉を開けると、そこは王都の下町にある小さなパン屋の裏口だった。


 夜明け前なのに、店の中は明るい。

 石窯の火が赤く燃え、作業台にはこねられた生地が並んでいる。


 腕まくりをした女性が一人、粉まみれの手で生地を丸めていた。


 彼女は物音に気づき、振り返る。


 ふくよかな体。

 赤ら顔。

 鋭そうな目。

 けれど、その目がテオを見た瞬間、大きく見開かれた。


「テオ……?」


 テオは、入口で固まった。


「エルザさん」


 エルザは粉のついた手を拭くことも忘れて、作業台を回り込もうとした。


 だが、テオが一歩下がる。


 エルザは足を止めた。


 その目に、痛みが浮かぶ。


「来てくれたのかい」


「別に」


 テオは強がるように言った。


「俺が来たかったわけじゃない。紙が、変なところに連れてきただけ」


 エルザは、リディアとノアを見た。


「あなた方は」


「夜間未受理窓口の者です」


 ノアが言うと、エルザの顔が変わった。


「未受理……」


 彼女は、作業台の端を強く掴んだ。


「やっぱり、あの書類は」


 リディアは養子縁組願を差し出した。


「エルザ・ミント様。こちらの養子縁組願について、確認させてください」


 エルザは紙を見るなり、目に涙を浮かべた。


「捨ててなかったのかい」


「孤児院の焼却箱にありました」


 テオが言った。


 エルザの顔が歪む。


「あの院長……!」


 怒りの声だった。


 それだけで、テオの肩が小さく震えた。


「エルザさんは」


 テオは、必死に声を出した。


「俺を、やっぱりいらないって思ったんじゃないの」


 エルザは、殴られたような顔をした。


「馬鹿言うんじゃないよ」


 その声は大きかった。


 だが、怒りの矛先はテオではない。


「いらない子に、毎朝余分にパンを焼くもんかね。いらない子のために、役所へ何度も頭を下げるもんかね。いらない子の毛布を、冬の前に縫い直すもんかね」


 テオの目が揺れる。


「じゃあ、なんで来なくなったんだよ」


「止められたんだよ」


 エルザの声が震えた。


「孤児院から、あんたに会わせないって言われた。私が騒げば、あんたの奉公先に悪い噂を流すって。パン屋なんて潰すのは簡単だって」


「奉公先……」


「そんな話、私は聞いてなかった。あんたはうちに来るはずだった」


 エルザは養子縁組願を見つめた。


「全部揃えた。保証人も、部屋も、収入証明も。役所の人も、不備はないって言った。それなのに、急に受付記録がないと言われたんだ」


 リディアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 やはり。


 エルザは取り下げていない。


 テオは捨てられていない。


 ただ、書類を消された。


 ノアが確認する。


「エルザ様。現在も、テオ様を養子として迎える意思はありますか」


 エルザは、テオを見る。


 テオは顔をそむけたまま、ちらりと彼女を見ている。


 エルザは、ゆっくりと言った。


「あるよ」


 テオの肩が震える。


「今さら?」


「今さらでも」


「俺、もう小さい子じゃないし」


「知ってるよ」


「口も悪いし」


「前からだよ」


「手伝いだって、うまくできるか分からない」


「パン生地は、失敗して覚えるもんだ」


 テオは唇を噛んだ。


「俺、本当に行っていいの」


 エルザは、粉のついた手をエプロンで拭いた。


 それから、両手を広げた。


「来るかい」


 テオは、すぐには動かなかった。


 一歩。

 また一歩。


 ゆっくり近づいて、最後は走るようにエルザの胸に飛び込んだ。


 エルザは、彼を強く抱きしめた。


「遅くなって、ごめんよ」


 テオは何も言わなかった。


 ただ、エルザのエプロンを握りしめ、声を殺して泣いた。


 リディアは、そっと目を伏せた。


 受理印は、過去を変えない。

 テオが孤児院で過ごした時間は戻らない。

 エルザが会えなかった時間も消えない。


 けれど、捨てられたと思い込まされた物語は、今ここで書き換わった。


 ノアがリディアへ受理印を差し出す。


「リディア様」


 リディアは頷いた。


 エルザとテオが顔を上げる。


「この養子縁組願を受理すれば、過去は変わりません」


 リディアは言った。


「未受理にされた時間も、孤児院での扱いも、消えません。ですが、エルザ様がテオさんを迎えようとした事実と、テオさんがそれを受ける意思は、正式な場所を持ちます」


 エルザは力強く頷いた。


「受け付けてください」


 テオも、小さく頷いた。


「俺も……行く」


 リディアは養子縁組願に受理印を押した。


 赤い印が、紙に沈む。


 その瞬間、パン屋の窓の外に朝の光が差し込んだ。


 石窯の火がぱちりと鳴る。


 カウンターの上に置かれていた小さなパンが、ふわりと温かい香りを立てた。


 エルザが笑いながら泣いた。


「ほら、朝ごはんだよ。あんた、どうせ何も食べてないんだろ」


 テオは涙を拭きながら、むっとした顔をした。


「食べたし」


「嘘お言い」


「ちょっとは食べた」


「じゃあ、たくさん食べな」


 リディアは、その光景を見て胸が温かくなった。


 だが、安心したのも束の間だった。


 受理済みとなった養子縁組願の裏に、新しい文字が浮かび始めた。


 関連未受理案件:聖ユレーネ孤児院保管庫


 リディアの表情が引き締まる。


 ノアも同じ文字を見ていた。


 さらに、処理痕写しに別の記録が浮かぶ。


 出資者:バルツァー・レント

 未成年奉公予定者名簿 複数

 分類外:EX-04


 テオがパンを握ったまま、声を落とした。


「俺だけじゃない」


 リーナと同じ言葉だった。


 リディアは、テオを見る。


 彼の目には、さっきまでの諦めとは違うものが宿っていた。


 怒りだ。


 そして、恐怖を抱えたままの決意。


「孤児院には、まだいる。エルザさんみたいな人が来てた子もいた。でも、みんな急に話がなくなった」


 エルザも険しい顔になる。


「私以外にもいたのかい」


「いた。たぶん」


 テオは養子縁組願を見つめた。


「俺、院長が鍵をかけてる部屋を知ってる。保管庫って呼んでる。子どもには絶対近づくなって」


 リディアは、ノアを見る。


 ノアは小さく頷いた。


「次に向かうべき場所です」


 リディアは、受理印を木箱に戻さなかった。


 手の中に、その重さを残したまま言う。


「聖ユレーネ孤児院へ行きましょう」


 ノアは静かに答えた。


「はい。これはもう、偶然ではありません」


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