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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第14話 未受理は、制度として悪用されている

 これはもう、偶然ではありません。


 ノアの言葉は、静かだった。


 けれど、リディアにはその静けさの奥に、深く沈んだ怒りのようなものがある気がした。


 セシリアの婚約破棄届。

 マルタの絶縁届。

 テオの養子縁組願。

 バルツァー家旧書庫に隠されていた王宮嘆願処理記録。

 そして、そのすべてに浮かぶ分類記号。


 EX-04


 受理されると困る願いを、存在しなかったことにするための分類。


 それが、一件や二件ではない。

 貴族の婚約にも、奉公契約にも、孤児院にも、十年前の王女救済願にもつながっている。


 リディアは、手の中の受理印を見下ろした。


 赤い印面は、何も語らない。

 けれど、今夜だけで何度も、誰かの人生の上に押されてきた。


 受理印は、過去を変えない。


 だが、未受理のまま止められていたものを動かす力はある。


「聖ユレーネ孤児院へ行きましょう」


 リディアはもう一度言った。


 テオは、焼きたてのパンを両手で持ったまま、固く頷いた。


 エルザ・ミントのパン屋には、朝の光が差し込み始めている。

 石窯の火は赤く、作業台には丸められた生地が並んでいた。


 本来なら、ここでテオを休ませるべきなのだろう。


 彼はつい先ほど、自分が捨てられたのではなかったと知ったばかりだ。

 ずっと迎えに来るはずだったエルザの腕の中で、ようやく泣くことができたばかりだ。


 だが、テオはパンを握りしめたまま言った。


「俺も行く」


 エルザがすぐに振り向いた。


「駄目だよ。あんたはもう、あそこに戻らなくていいんだ」


「戻るんじゃない」


 テオは、エルザを見上げた。


「取りに行くんだ。あそこにある書類を」


「書類なら、大人が」


「俺が場所を知ってる」


 その声は、まだ子どものものだった。

 けれど、その中に、さっきまでの諦めはなかった。


 エルザは言葉に詰まった。


 止めたい。

 抱きしめて、このままパン屋の奥に隠してしまいたい。

 そんな顔をしていた。


 リディアには、その気持ちが分かる気がした。


 マルタも同じだった。

 娘を守るために、娘の選択をまた奪いそうになった。


 守りたい人の意思を尊重することは、ときどき、守ることより難しい。


「テオさん」


 リディアは膝を折り、彼と目線を合わせた。


「孤児院に戻れば、怖い思いをするかもしれません」


「知ってる」


「院長に見つかるかもしれません」


「知ってる」


「あなたを、また連れ戻そうとする人もいるかもしれません」


 テオは少しだけ唇を噛んだ。


 それでも、目を逸らさなかった。


「でも、保管庫の鍵の場所を知ってるのは俺だ」


「鍵?」


「院長室の机の裏。右側の板が外れる。そこに小さい鍵束がある」


 エルザが目を丸くする。


「あんた、そんなことまで」


「何かあった時のために覚えてた」


 テオはそっけなく言った。


 リディアは、その言葉の裏にある日々を想像して胸が痛んだ。


 何かあった時のため。


 子どもが、逃げ道や鍵の場所を覚えなければならない場所。

 それだけで、十分におかしい。


 ノアが言う。


「では、テオ様には案内をお願いします。ただし、危険があれば即時退避します」


「分かった」


「約束できますか」


 テオは少し不満そうにしたが、最後には頷いた。


「約束する」


 エルザは、しばらく彼を見つめていた。


 そして、パン屋の奥から厚手の外套を持ってきた。


「着ていきな」


「いらない」


「いらないじゃないよ。朝方は冷えるんだ」


「でも」


「うちの子になるなら、まず言うことを聞く」


 テオは、言い返そうとして、口を閉じた。


 うちの子。


 その言葉が、彼の胸のどこかを不意に突いたのだろう。


 テオは俯きながら、外套に袖を通した。


「……まだ、受理されたばっかりだし」


「されたんだろ?」


 エルザはそう言って、彼の襟元を直した。


「なら、うちの子だ」


 テオは何も言わなかった。


 ただ、パンをかじった。


 その頬が少し赤くなっているのを、リディアは見なかったことにした。


 ノアが呼び鈴を取り出す。


 パン屋の店内には、夜間未受理窓口のカウンターはない。

 それでも、鈴は彼の手の中にある。


 ちりん。


 小さな音が鳴る。


 石窯の火が揺れ、パン屋の裏口が、別の場所へつながる。


 そこから流れ込んできたのは、冷えた空気だった。


 消毒薬のような匂い。

 古い木の床の匂い。

 薄いスープと濡れた布の匂い。


 テオの顔が強張った。


「孤児院の裏庭だ」


 ノアが扉を開く。


「行きましょう」


 リディアは受理印を胸元にしまい、テオと共に扉をくぐった。


 聖ユレーネ孤児院は、王都の北東区にあった。


 石造りの古い建物。

 高い塀。

 狭い裏庭。

 壁には、慈善を示す白い紋章が掲げられている。


 だが、その白はくすんでいた。


 朝靄の中で見る孤児院は、静かすぎた。


 子どもが暮らす場所なら、早朝でも少しくらい声がしていい。

 寝起きの足音。小さな笑い声。叱られる声。


 けれど、ここには息を潜めるような沈黙がある。


 テオは裏庭の隅を指さした。


「厨房口はあっち。今の時間は、年長組が朝食の準備をしてる。保管庫は院長室の奥」


「人に見つからず行けますか」


「たぶん」


 彼はそう言ってから、少しだけ肩をすくめた。


「見つかったら、俺が勝手に戻ってきたことにすればいい」


「それはしません」


 リディアは即座に言った。


 テオは驚いたように彼女を見る。


「あなた一人に責任を押しつけるために来たのではありません」


 テオは目を逸らした。


「大人って、だいたいそうするから」


「そうではない大人もいます」


「……本当に?」


 その問いに、リディアはすぐ答えられなかった。


 王都庁舎。

 記録監査局。

 孤児院。

 貴族院。


 大人たちが、どれほど子どもや弱い人の書類を未受理にしてきたか、今のリディアは知り始めている。


 それでも。


「少なくとも、そうでありたいと思っている人はいます」


 リディアは言った。


 テオは何も言わず、歩き出した。


 裏庭の水桶の陰を抜け、厨房口の横を通る。

 中から、子どもたちの小さな声が聞こえた。


「早くしなさい」


 年配の女性の声。


「今日は貴族院の視察があるのよ。汚れた皿を出したら、全員夕食抜きです」


 テオの肩が小さく跳ねた。


 リディアは、その声の方を見た。


 厨房の中では、十歳にも満たない子が、木の椅子に乗って大鍋をかき混ぜている。

 別の子は、眠そうな顔で硬いパンを切っている。


 孤児院の朝の仕事。


 それ自体は珍しくない。

 だが、子どもたちの動きには怯えがあった。


 失敗したら怒られる。

 怒られたら食事を抜かれる。

 そういう緊張。


 ノアが小さく言った。


「長くは留まれません」


 リディアは頷いた。


 院長室は、一階の奥にあった。


 扉には、聖ユレーネ孤児院院長室と書かれた札。

 中から人の気配はない。


 テオは周囲を確認し、小さく息を吸った。


「朝の祈りの時間は、院長は礼拝室。十分くらいなら戻らない」


「鍵は?」


「ここ」


 テオは院長室の扉の横にある飾り棚へ手を伸ばした。

 一見ただの木製の棚だが、右側の板を押すと、かすかな音を立てて外れる。


 中に、小さな鍵束があった。


 リディアは、思わず息を呑んだ。


「本当にあった……」


「何かあった時のために覚えてたって言っただろ」


 テオは鍵を取り出す。


 その手つきは慣れていた。

 慣れていることが、悲しかった。


 院長室へ入ると、部屋の中は整いすぎていた。


 磨かれた机。

 整った帳簿。

 壁には慈善家たちの肖像。

 棚には寄付記録と表彰状。


 表向きは、立派な施設。


 だが、机の奥に隠された鍵束が、その立派さの裏側をすでに語っている。


 テオは迷わず奥の扉へ向かった。


「保管庫はここ」


 鍵束の中から、小さな黒い鍵を選ぶ。


 かちり、と音がして扉が開いた。


 中は、狭い部屋だった。


 だが、書類の量は想像以上だった。


 壁一面の棚。

 箱。

 紐で括られた紙束。

 古い台帳。

 そして、床に置かれた焼却予定の木箱。


 リディアは、一歩入った瞬間、息苦しさを覚えた。


 ここは、ただの保管庫ではない。


 声を閉じ込める場所だ。


 ノアが台帳を一冊手に取る。


 表紙には、こう書かれていた。


 進路調整簿


 その言葉に、リディアは眉をひそめた。


「進路調整……」


 ページを開くと、子どもたちの名前が並んでいた。


 年齢。

 性別。

 健康状態。

 読み書き能力。

 奉公適性。

 引受候補。


 まるで、商品目録だった。


 リディアの指先が冷たくなる。


「これは」


 テオが横から覗き込み、顔をしかめた。


「俺の名前もある」


 リディアはページをめくる。


 テオ

 年齢十二

 読み書き可

 反抗傾向あり

 体力良

 候補:バルツァー家使用人見習い


 その下に、小さく赤い文字。


 養子縁組願あり。EX-04へ移管済。


 テオが、ぎゅっと拳を握った。


「やっぱり」


 リディアは、言葉を失った。


 養子縁組願があった。

 テオを家族として迎えたい人がいた。


 それなのに、孤児院は彼を奉公先へ回すために、その願いをEX-04へ移した。


「これは、進路調整ではありません」


 リディアの声は低かった。


「子どもを、都合のいいところへ送るための台帳です」


 ノアが別の箱を開く。


 そこには、未受理印の押された書類が束になって入っていた。


 養子縁組願。

 里親申請。

 奉公解除願。

 医療費援助願。

 面会希望届。


 どれにも、赤い印がある。


 未受理


 そして多くに、同じ分類。


 EX-04


 リディアは、紙束を一枚ずつ確認した。


 申請者は、下町の商人。

 職人夫婦。

 遠縁の親戚。

 元奉公先の女中。

 亡くなった親の友人。


 子どもたちを引き取りたい、会いたい、助けたいと願った人たちの書類。


 それらが、まとめてここにある。


 どこにも届かず、処理済みにされたまま。


「こんなに……」


 リディアの声が震えた。


 テオは、別の棚の前で一枚の紙を見つけた。


「これ、ミナのだ」


「ミナ?」


「厨房にいた子。八歳。叔母さんが迎えに来たって聞いたけど、院長が追い返した」


 紙には、面会希望届と書かれている。


 右下には未受理印。


 理由:対象児童の精神安定のため面会不適


 リディアは、その理由文を見て唇を噛んだ。


 もっともらしい。

 いかにも子どもを守るための理由に見える。


 だが、本当に守っていたのは誰だ。


 子どもか。

 孤児院か。

 出資者か。


 テオの手が震える。


「ミナ、叔母さんが来なかったって泣いてた。自分のこと嫌いになったんだって」


 リディアは、その書類をそっと取り上げた。


「違います」


 テオが顔を上げる。


「叔母さんは、来ていたんです」


 その言葉は、テオ自身にも刺さったのだろう。


 彼は何も言わず、顔を歪めた。


 ノアが保管庫の奥から、大きな台帳を見つけた。


「リディア様」


 リディアは近づく。


 表紙には、こう記されていた。


 分類外処理台帳

 補助分類:EX-04


 リディアの喉が渇いた。


 ノアがページを開く。


 そこには、孤児院だけではない名前が並んでいた。


 聖ユレーネ孤児院。

 バルツァー家奉公契約。

 レント家婚約関連文書。

 下町奉公解除願。

 王宮嘆願処理記録。


 同じ分類。

 同じ流れ。


 受理されると困る願いを、個別の不備としてではなく、まとめて隔離する仕組み。


 リディアは、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた気がした。


「ノアさん」


「はい」


「これは、偶然でも、個別の不正でもありませんね」


「はい」


「未受理は」


 リディアは、台帳を見つめた。


「制度として悪用されている」


 その言葉を口にした瞬間、保管庫の空気が重く震えた。


 棚の書類が、ざわりと揺れる。


 まるで、ずっと誰かが言ってくれるのを待っていたように。


 テオが小さく言った。


「じゃあ、俺たちだけじゃないんだ」


「はい」


 リディアは認めた。


「あなたたちだけではありません」


「それ、よかったって思っていいのか、最悪って思えばいいのか分かんないな」


「どちらも、だと思います」


 テオは、苦い顔をした。


「嫌な答え」


「私もそう思います」


 その時、院長室の向こうで足音がした。


 複数人ではない。


 一人。


 だが、その歩き方には迷いがなかった。


 テオの顔が強張る。


「院長だ」


 ノアが素早く台帳を閉じる。


「持てる分だけ持ちます」


 リディアは分類外処理台帳を抱えた。


 重い。

 紙の重さではない。


 この中に閉じ込められた声の重さだ。


 テオは、ミナの面会希望届と、自分の進路調整簿の写しを掴む。


 ノアはEX-04の書類束をまとめる。


 その時、保管庫の扉が開いた。


 そこに立っていたのは、痩せた中年の女性だった。


 黒い修道服に似た服。

 胸には聖ユレーネ孤児院の白い紋章。

 髪はきっちり結い上げられ、目は細く冷たい。


 院長だ。


「何をしているのです」


 その声は、穏やかだった。


 だが、氷のようだった。


 テオが一歩後ずさる。


 リディアは彼の前に立った。


「こちらこそ、お尋ねします」


 リディアは分類外処理台帳を抱えたまま言った。


「この台帳は何ですか」


 院長の視線が、リディアからノアへ、そしてテオへ移る。


「テオ。勝手に戻ったのですね」


 テオの体がびくりと震えた。


「あなたは今日、反省室で過ごしてもらいます」


「その必要はありません」


 リディアは言った。


 院長の目がリディアに戻る。


「あなたは?」


「夜間未受理窓口、臨時受理官リディア・クラウスです」


 院長は、ほんの一瞬だけ表情を変えた。


 知っている。


 未受理窓口を。


「そのような部署は存在しません」


「ええ」


 リディアは静かに答えた。


「存在しないことにされた部署です」


 院長の目が細くなる。


「不法侵入です。今すぐ書類を置いて出ていきなさい」


「この書類は、すでに未受理案件として仮受付します」


「できません」


「なぜですか」


「それらは孤児院の管理文書です」


「子どもたちの養子縁組願、面会希望届、奉公解除願を、孤児院の都合だけで管理文書として扱うことはできません」


 リディアの声は震えていなかった。


 自分でも不思議だった。


 怒っている。

 怖くもある。


 だが、目の前の台帳を見てしまった以上、引くという選択肢は消えていた。


 院長は薄く笑った。


「子どもたちを守るためです」


 その言葉に、リディアの胸が冷える。


「守る?」


「孤児は不安定です。外部の者と安易に接触させれば、混乱します。養子縁組も、面会も、奉公先も、専門機関である当院が慎重に判断しなければなりません」


 整った言葉だった。


 書類に書けば、もっともらしく見える言葉。


「その結果、テオさんの養子縁組願は未受理になりました」


「彼には、より適切な進路がありました」


「バルツァー家への奉公ですか」


 院長の表情が、わずかに硬くなった。


「貴族家で働けることは、孤児にとって名誉です」


 テオが小さく笑った。


 乾いた笑いだった。


「名誉って、朝から晩まで働かされること?」


「テオ」


 院長の声が鋭くなる。


 リディアは、すぐに言った。


「テオさんは、エルザ・ミント様の養子縁組願を受ける意思を示しました。すでに夜間未受理窓口で受理済みです」


「そのような受理は無効です」


「少なくとも、未受理のまま隠されていた事実は残ります」


 院長は、一歩前へ出た。


「それを持ち出して、何が変わるというのです」


 リディアは、分類外処理台帳を抱え直した。


「まず、隠されていたことが分かります」


「それだけです」


「いいえ」


 リディアは、院長を見た。


「隠されていたと分かれば、次に調べられます。調べられれば、他の子の書類も見つけられる。見つかれば、本人に確認できる」


 院長の顔から、少しずつ余裕が消えていく。


「あなたがたは、未受理を制度として使っていた。子どもを守るためではなく、出資者にとって都合のいい進路へ流すために」


「証拠は」


 院長は言った。


「その台帳だけでは、あなたの解釈にすぎません」


 その時、保管庫の奥から、かすかな音がした。


 リディアが振り返る。


 棚の下に、小さな扉があった。


 内側から、こつ、と叩く音。


 テオが目を見開く。


「反省室……」


 院長が鋭く言った。


「そこへ近づいてはいけません」


 リディアは、すでに動いていた。


 ノアが鍵束を投げる。

 テオがすばやく黒い鍵を選ぶ。


「これ!」


 鍵を差し込み、回す。


 扉が開いた。


 中は、物置のように狭い部屋だった。


 そこに、小さな女の子がいた。


 八歳くらい。

 膝を抱え、暗い部屋の中で震えている。


 テオが叫んだ。


「ミナ!」


 少女は顔を上げた。


「テオ……?」


 その手には、くしゃくしゃになった紙が握られていた。


 リディアは膝をつく。


「大丈夫ですか」


 ミナは怯えた目でリディアを見る。


「私、悪い子じゃないよ」


 その一言で、リディアは息を詰めた。


「叔母さんが来たって言ったら、嘘をつくなって。面会はなかったって。私が悪い子だから、叔母さんは来なかったって」


 ミナの手の中の紙。


 リディアは、そっと尋ねた。


「見せてもらってもいいですか」


 ミナは、泣きながら頷いた。


 それは、面会希望届の控えだった。


 申請者は、ミナの叔母。

 右下には、未受理印。


 しかし、紙の裏には震える字でこう書かれていた。


 迎えに来たよ。信じて。

 リディアの視界が、熱く滲んだ。


 これ以上、何を証拠と呼べばいいのだろう。


 リディアは立ち上がった。


 院長は後ずさる。


「その子は、虚言癖が」


「黙ってください」


 自分でも驚くほど、低い声だった。


 受付室で、カウンター越しに依頼人の声を聞いていた時とは違う。


 今、目の前には、閉じ込められた子どもがいる。


 書類の中だけではなく、現実の部屋に。


「未受理は、不備のある書類を退けるためのものです」


 リディアは言った。


「でも、あなたたちは違う。子どもに届くはずだった願いを隠し、迎えに来た人を追い返し、本人には捨てられたと思い込ませた」


 院長は唇を引き結ぶ。


「それは、子どもたちのために」


「違います」


 リディアは、分類外処理台帳を掲げた。


「これは事故ではない。人の願いを捨てるための、仕組みだった」


 その瞬間、保管庫の書類が一斉に揺れた。


 棚から、何枚もの紙が滑り落ちる。


 養子縁組願。

 面会希望届。

 奉公解除願。

 医療援助申請。


 紙の上に、次々と一文が浮かぶ。


 会いに来たことだけでも伝えてください。


 この子を家族にしたいのです。


 痛いと言っても信じてもらえません。


 ここから出たい。


 私を、忘れないで。


 リディアは、そのすべてを抱えきれなかった。


 けれど、見なかったことにはできなかった。


 ノアがカウンターもない保管庫の中で、台帳を開いた。


 夜間未受理窓口の台帳が、彼の手の中に現れている。


「関連未受理案件、仮受付します」


 ノアの声が響いた。


「聖ユレーネ孤児院保管庫内未受理書類群。分類、EX-04。現状、隠匿保管」


 リディアは、受理印ではなく仮受付印を取り出した。


 すべてを今ここで完全受理することはできない。

 一人ひとりの意思確認が必要だ。

 申請者にも、対象者にも、話を聞かなければならない。


 だが、少なくとも。


 ここにあったことを、なかったことにはさせない。


 リディアは、分類外処理台帳の表紙に仮受付印を押した。


 淡い朱色の印が、黒い表紙に沈む。


 その瞬間、保管庫の空気が変わった。


 閉じ込められていた書類の束が、淡く光を帯びる。


 ミナは泣きながら、テオの袖を握った。


 院長は青ざめた顔で後ずさる。


「あなたたちは、自分が何をしているのか分かっていない」


「分かっています」


 リディアは答えた。


「未受理だったものを、記録に戻しています」


「孤児院は混乱します」


「混乱するでしょう」


「子どもたちが不安定になります」


「もう十分、不安定にされています」


 院長は何も言えなくなった。


 その時、遠くで鐘が鳴った。


 朝の祈りの終わりを告げる鐘。


 ノアが言う。


「人が戻ってきます。退避を」


 リディアは台帳と書類束を抱えた。


 テオはミナの手を取る。


「ミナも連れてく」


 ノアが頷く。


「面会希望届と保護確認が仮受付されています。少なくとも、今すぐ反省室へ戻す理由はありません」


 ミナは泣きながら立ち上がった。


「叔母さん、来たの?」


 リディアは、ミナの手の紙を見た。


「来ていました」


 ミナの顔がくしゃりと崩れる。


「私、悪い子じゃなかった?」


「はい」


 リディアは、はっきりと言った。


「あなたが悪い子だから来なかったのではありません。来たことを、隠されていたんです」


 ミナは声を上げて泣いた。


 テオが困った顔で、でもしっかり手を握る。


 ノアが扉を開く。


 夜間未受理窓口へ通じる細い光が現れる。


 リディアたちは、その中へ駆け込んだ。


 受付室に戻ると、エルザが待っていた。


 マルタとリーナもいる。


 ミナを見て、リーナが息を呑んだ。


「ミナ……!」


 ミナは驚いた顔をしたが、すぐに泣きながらリーナにしがみついた。


 受付室は、急に子どもたちの泣き声と大人たちの息遣いで満たされた。


 夜間未受理窓口は、もう静かな受付室ではなくなっていた。


 けれど、リディアはその騒がしさを、少しだけ良いものだと思った。


 声がある。


 泣き声でも、震える声でも、ここでは消されずに響いている。


 ノアはカウンターの上に、孤児院から持ち帰った書類を並べた。


 分類外処理台帳。

 進路調整簿。

 養子縁組願の束。

 面会希望届。

 奉公解除願。

 医療援助申請。


 すべてに、仮受付印が押されている。


 リディアはその量を見て、改めて息を呑んだ。


 一晩で受け取れる数ではない。


 これは、長い時間をかけて積み上げられた未受理だ。


 ノアが静かに言った。


「アレリア王女も、十年前に同じ結論へたどり着いたのでしょう」


 リディアは顔を上げた。


「同じ結論?」


「未受理は、制度として悪用されている」


 その言葉に、白紙の王女救済願が収められた木箱が淡く光った。


 リディアは、ゆっくりと木箱へ手を伸ばした。


 開くと、白紙申請書の中央に薄い文字が浮かんでいる。


 読まれなかった願いを、集めてください。


 リディアの胸が強く鳴った。


 アレリア王女の声なのか。

 ミリア王女の願いなのか。

 それとも、孤児院や屋敷や庁舎に沈んでいた無数の声なのか。


 今はまだ分からない。


 ただ、進むべき方向だけは見えた。


 個別の案件を一つずつ受理するだけでは足りない。

 この仕組みそのものを見つけなければならない。


 その時、リディアの胸元が熱くなった。


 解雇通知だ。


 彼女は急いで取り出した。


 雨に濡れ、折り目のついた紙。

 処理分類EX-04。

 告発者保護申請が削除された痕。


 その中央に、今まで読めなかった一文が、少しだけ浮かび始めていた。


 まだ完全ではない。


 だが、最初の数文字だけが読めた。


 彼女は、告――


 そこで文字は途切れた。


 リディアは息を止めた。


 ノアもその紙を見る。


「次に読むべき書類が、決まりましたね」


 リディアは頷いた。


 自分自身の未受理。


 消されかけた名前。

 奪われた立場。

 書き換えられた処分通知。


 孤児院から持ち帰った無数の未受理を見た今、リディアはようやく理解した。


 自分の解雇通知も、ただの個人的な不幸ではない。


 制度として悪用されている未受理の、一部なのだ。


 彼女は解雇通知を両手で持った。


 紙の奥で、まだ見えない一文が震えている。


 リディアは静かに言った。


「読みます」


 ノアは、受理印の木箱を彼女の前に置いた。


「では、あなた自身の案件を始めましょう」


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