第15話 解雇通知に残っていた本当の一文
では、あなた自身の案件を始めましょう。
ノアがそう言って、受理印の木箱をリディアの前に置いた。
夜間未受理窓口の受付室には、いつもより多くの人がいた。
マルタとリーナ。
エルザとテオ。
ミナ。
そして、孤児院から持ち帰った大量の未受理書類。
カウンターの上には、分類外処理台帳、進路調整簿、養子縁組願、面会希望届、奉公解除願が積み上げられている。
紙の束なのに、そこには声がある。
ここから出たい。
迎えに来たよ。信じて。
この子を家族にしたいのです。
私を、忘れないで。
その声の中に、リディア自身の解雇通知が置かれていた。
雨に濡れ、角がふやけた一枚の紙。
昼間、彼女を王都庁舎から追い出した紙。
表向きの文面は、今も変わらない。
決裁文書の不適切な修正、および保管記録の改ざん疑い。
正式な調査終了まで、王都庁舎への立ち入りを禁ずる。
けれど、その下には、すでに見えている。
分類外:EX-04
リディアは、息を吸った。
これまで、他人の書類を読んできた。
エマの恋文。
セシリアの婚約破棄届。
ユリスの謝罪文。
マルタの絶縁届。
テオの養子縁組願。
誰かの空白に触れ、そこに残された本当の一文を読んできた。
けれど、これは違う。
これは、自分自身の書類だ。
自分の名前が書かれ、自分の罪とされたものが記され、自分の人生をねじ曲げた紙。
リディアは、指先が冷えていくのを感じた。
「怖いですか」
ノアが尋ねた。
リディアは、正直に頷いた。
「怖いです」
声はかすれていた。
「他の人の書類を読む時より、ずっと」
「当然です」
ノアは静かに言った。
「自分の未受理は、最も深く刺さります。自分が何を奪われたのか、どんな言葉を消されたのか、それを読むことになりますから」
リディアは、解雇通知を見つめた。
自分が何を奪われたのか。
職。
名誉。
庁舎で働いてきた時間。
同僚たちの記憶。
告発者として保護されるはずだった立場。
そして、名前。
朝の職員名簿には、もうリディア・クラウスの名前はなかった。
名簿に残っていたのは、不自然な空白だけだった。
リディアは、そっと紙に触れた。
ノアが処理痕写しを重ねる。
透明な紙が淡く光り、昼の庁舎で行われた手続きの跡が浮かび上がった。
原処理:内部告発受付準備
告発対象:婚約関連文書不正処理
告発者保護申請:作成中
リディアの胸が、強く痛んだ。
やはり、そうだった。
自分は処分されるべき者ではなかった。
本来なら、告発者として保護されるべきだった。
処理痕写しの文字が、次の行で黒く歪む。
告発者保護申請:削除
分類外:EX-04へ移管
処分通知作成
さらに下。
黒く塗りつぶされた承認者欄。
リディアが目を凝らすと、一瞬だけ文字が浮かぶ。
記録監査局長 ヴァルター・グレイス
今度は消えなかった。
はっきりと、そこに残った。
リディアは、唇を噛んだ。
「やはり、あの人が」
ノアは頷いた。
「承認者は、ヴァルター・グレイスで間違いありません」
マルタが、思わず口元を押さえた。
「庁舎の偉い方が……」
エルザが低く唸る。
「偉いから、そんなことができるんだろうよ」
テオは、難しい顔で処理痕を見ていた。
「じゃあ、リディア姉ちゃんは悪くないってこと?」
リディアは、少しだけ驚いた。
姉ちゃん、と呼ばれるとは思わなかった。
テオ自身も、言ってから気まずそうに目を逸らした。
「別に、変な意味じゃないし」
リディアは小さく笑いそうになったが、すぐに表情を引き締めた。
「少なくとも、この書類の奥にはそう残っています」
「じゃあ、早く受理しなよ」
テオは言った。
「受理したら、戻れるんだろ。悪くないって分かるんだろ」
戻れる。
その言葉が、リディアの胸に響いた。
王都庁舎へ戻れるかもしれない。
自分は改ざん者ではなく、告発者だった。
その記録が戻れば、処分は取り消されるかもしれない。
職員名簿に名前が戻るかもしれない。
昨日までの日常には戻れなくても、少なくとも自分の名前を取り戻せる。
その誘惑は、あまりにも強かった。
ノアが静かに言う。
「リディア様。この解雇通知を受理し直せば、あなたの処分記録は修正される可能性があります」
「可能性」
「完全な復職までは保証できません。ですが、少なくとも『改ざん疑いによる解雇』ではなく、『内部告発者に対する不当処分』として再審査に回すことはできます」
リディアは、解雇通知に触れたまま動けなかった。
再審査。
その言葉だけで、胸の奥に火が灯る。
悔しかった。
自分は間違っていない。
書類の不正を見つけ、正しい手順で報告した。
それなのに、罪を着せられ、名簿から消されかけている。
それを正せるなら、今すぐそうしたい。
リディアは、紙の奥に意識を沈めた。
視界が揺れる。
王都庁舎の保管庫。
整えられた台帳。
番号の飛んだ婚約関連書類。
印影のずれた処理欄。
リディアが報告書を書いている。
机の上で、羽ペンが走る。
彼女は何も特別なことをしていない。
正しい手順に従っているだけだ。
書類の不備を見つけた。
確認した。
上司へ報告した。
記録監査局へ回した。
その時、報告書の余白に、本来書かれるはずだった一文が浮かび上がる。
リディアは、息を止めた。
それは、短い一文だった。
けれど、彼女の失われた立場をすべて言い表していた。
彼女は、告発者である。
リディアの指先が震えた。
紙の奥に、その一文がはっきりと浮かんでいる。
彼女は、告発者である。
改ざん者ではない。
違反者ではない。
処分対象ではない。
告発者。
守られるべき側だった。
リディアは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ようやく、自分の名前を呼び直されたような感覚だった。
「読めました」
彼女は言った。
ノアが静かに頷く。
「読み上げてください」
リディアは、解雇通知を両手で持った。
声が震えそうになる。
だが、逃げなかった。
「この解雇通知に残されていた本当の一文は」
息を吸う。
「彼女は、告発者である。」
その瞬間、解雇通知の表面に赤く書かれていた「改ざん疑い」の文字が揺れた。
消えはしない。
だが、その下から別の文面が浮かび上がる。
内部告発受付準備中
告発者保護申請未完了
処分通知、不当作成の疑い
リディアは、目を閉じた。
自分は、間違っていなかった。
その事実だけで、膝から力が抜けそうになる。
テオが小さく言った。
「よかったじゃん」
リーナも、涙ぐんだ顔で頷く。
「リディアさん、戻れるんですね」
マルタが手を握りしめる。
「よかった……」
その言葉が、リディアの胸に刺さった。
よかった。
本当に、よかったのだろうか。
カウンターの上には、まだ孤児院の書類が積み上がっている。
完全受理されていない子どもたちの願い。
面会希望届。
養子縁組願。
奉公解除願。
ミナの叔母は、まだミナに会えていない。
孤児院には、まだ多くの子どもが残っている。
保管庫の書類を持ち出したことが知られれば、院長は証拠を消すだろう。
そして、バルツァー家も動く。
ノアが台帳を確認していた手を止めた。
その表情が硬くなる。
「リディア様」
「どうしました」
「孤児院関連の未受理書類が、変動しています」
「変動?」
ノアが台帳をリディアの前に向けた。
ページの上で、複数の文字が赤く点滅している。
聖ユレーネ孤児院 関連書類群
緊急処理開始
焼却予定記録、移動中
対象児童、移送予定
リディアの胸が冷えた。
「移送予定……」
テオの顔が真っ青になる。
「誰が?」
ノアがページを追う。
「ミナ様以外の未成年奉公候補者、五名。今朝中に、バルツァー家系列の奉公先へ移される予定です」
リーナが震えた。
「そんな……」
ミナが、エルザの後ろで小さく泣きそうな顔になる。
リディアは、孤児院から持ち帰った進路調整簿を開いた。
そこには、名前が並んでいる。
ミナ。
ラウル。
セナ。
オット。
フィオ。
ニコ。
年齢は八歳から十四歳。
その横に、移送先候補。
バルツァー家使用人見習い。
提携商会住み込み。
貴族院関係者宅雑役。
そして、処理分類。
EX-04
リディアは、指先が冷えていくのを感じた。
今、目の前に二つの書類がある。
一つは、自分の解雇通知。
受理すれば、彼女の名前を取り戻せるかもしれない書類。
もう一つは、孤児院の子どもたちの救済願。
今すぐ仮受付から緊急受理へ移さなければ、子どもたちが移送されるかもしれない書類。
ノアは言った。
「窓口の力には限界があります」
リディアは、彼を見る。
「限界?」
「今、昼の庁舎からの干渉が続いています。王女救済願を仮受付した影響で、この窓口の処理力は不安定です」
「つまり?」
「今すぐ正式処理へ回せるのは、一件です」
受付室が静まり返った。
ノアの声は、冷静だった。
「リディア様の解雇通知を受理し直せば、あなたの告発者保護申請が再起動します。職員記録の消失も、一時的に止められる可能性があります」
リディアは黙って聞いていた。
「一方、孤児院関連書類群を緊急受理すれば、移送予定の子どもたちについて、本人確認が完了するまで保留措置をかけられる可能性があります」
テオが、何かを言おうとして口を閉じた。
リーナも、マルタも、エルザも、誰もリディアに「子どもたちを先に」とは言わなかった。
言えないのだ。
なぜなら、リディア自身の書類も、間違いなく救われるべきものだから。
彼女の名誉。
彼女の名前。
彼女が告発者であった事実。
それもまた、未受理にされている。
リディアは、自分の解雇通知を見た。
彼女は、告発者である。
その一文は、まだ光っている。
受理してほしいと、言っているようだった。
自分の声だ。
消された自分自身の声。
リディアは、胸が痛んだ。
救われたい。
そう思った。
はっきりと。
自分は救われたい。
改ざん者ではないと認められたい。
名簿の空白を、自分の名前で埋めたい。
けれど。
彼女は、孤児院の進路調整簿を見た。
まだ会っていない子どもたちの名前がある。
ラウル。
セナ。
オット。
フィオ。
ニコ。
この子たちは今、移送されようとしている。
リディアが迷っている間にも。
「リディア様」
ノアが言った。
「これは、あなたが選ぶべきことです」
責めない声だった。
誘導しない声だった。
ただ、選択の重さをそのまま置く声。
リディアは目を閉じた。
自分の解雇通知を受理すれば、今後もっと大きく動けるかもしれない。
告発者としての立場を取り戻せば、孤児院の件も正式に訴えられるかもしれない。
そう考えることもできる。
だが、「今朝中に移送」と台帳は告げている。
その朝は、もう始まっている。
リディアは目を開けた。
「私の解雇通知は、保留します」
テオが息を呑んだ。
「でも」
「読めました」
リディアは、解雇通知を丁寧に畳んだ。
「本当の一文は、読めました。今はそれで十分です」
「十分じゃないだろ」
テオが思わず言った。
「だって、名前消えちゃうかもしれないんだろ」
「そうですね」
「じゃあ、なんで」
リディアは、テオを見る。
そして、小さく笑った。
「私が救われたい夜にも、誰かはもっと暗い場所で助けを待っているからです」
テオは、言葉を失った。
リディアは、孤児院関連書類群をカウンターの中央へ移した。
解雇通知は、その横に置く。
完全にしまうことはしなかった。
自分の未受理を、なかったことにはしない。
ただ、順番を譲る。
「ノアさん」
「はい」
「孤児院の子どもたちの移送保留を、緊急受理します」
「承知しました」
ノアは台帳を開く。
ページが激しくめくれ、孤児院関連の書類名が次々と浮かび上がる。
養子縁組願
面会希望届
奉公解除願
医療援助申請
保護確認願
リディアは受理印を手に取った。
重い。
これまでで一番重い。
なぜなら、その手のすぐ横に、自分の解雇通知があるからだ。
自分を先に救うこともできた。
それを選ばなかった重さが、受理印に加わっている。
ノアが読み上げる。
「聖ユレーネ孤児院関連未受理書類群。分類、EX-04。対象児童複数。現状、移送予定。本人確認および申請者確認未完了のため、移送保留を申請」
リディアは、書類群の上に受理印を押した。
赤い印が、一枚ではなく、積み上げられた紙束全体へ沈んでいく。
その瞬間、受付室の灯りが大きく揺れた。
遠くで鐘が鳴るような音がする。
リディアの視界に、孤児院の光景が一瞬だけ浮かんだ。
門の前で、馬車が止まっている。
子どもたちが荷物を持たされている。
院長が書類を手にしている。
そこへ、別の書類が割り込む。
赤い受理印。
移送保留。本人確認未完了。
院長の顔が歪む。
馬車の扉が閉まらない。
子どもたちは、まだ動かされない。
リディアは、息を吐いた。
膝が少し震える。
ノアが台帳を確認する。
「緊急受理、成立しました。移送手続きは一時停止されます」
エルザが深く息を吐いた。
マルタがリーナを抱きしめる。
テオは、何も言わなかった。
ただ、リディアの解雇通知を見ていた。
「リディア姉ちゃん」
「はい」
「それ、後で絶対受理しろよ」
リディアは少し驚いて、それから頷いた。
「はい。約束します」
「約束だからな」
「はい」
その時だった。
夜間未受理窓口の扉が、低く叩かれた。
こん、ではない。
どん、と。
今までの依頼人とは違う音。
扉の向こうにいるのは、助けを求める人ではない。
ノアが表情を硬くした。
受付室の灯りが、再び弱まる。
扉の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「君は、王女と同じ選択をした」
ヴァルター・グレイス。
リディアは、受理印を握りしめた。
扉の隙間から、冷たい朝の光が細く差し込む。
ヴァルターの声は、静かだった。
「自分の救済を後回しにして、他人の未受理を受け取る。アレリア王女も、そうだった」
ノアが低く言う。
「扉から離れてください」
リディアは動かなかった。
扉の向こうで、ヴァルターは続ける。
「リディア・クラウス。これで君は、戻る道を一つ失った」
リディアは、解雇通知を見る。
そこにはまだ、本当の一文が残っている。
彼女は、告発者である。
消えてはいない。
まだ、ここにある。
リディアは顔を上げた。
「失っていません」
扉の向こうへ、はっきりと言う。
「後回しにしただけです」
わずかな沈黙。
やがて、ヴァルターが低く笑った。
それは楽しそうな笑いではなかった。
遠い過去を、もう一度見せられた人のような声だった。
「ならば、君に会って話す必要がある」
扉の鍵が、内側からかかったままなのに、かちりと鳴った。
ノアの顔色が変わる。
「まさか」
扉が、ゆっくり開いた。
黒い上着。
銀縁の眼鏡。
整えられた姿勢。
記録監査局長ヴァルター・グレイスが、夜間未受理窓口の入口に立っていた。
彼は受付室を見回し、孤児院の書類、リディアの解雇通知、受理印、そしてノアを順に見た。
最後に、リディアへ視線を戻す。
「君は、王女と同じ過ちを犯す」
その言葉で、受付室の時計が止まった。




