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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第16話 君は、王女と同じ過ちを犯す

 君は、王女と同じ過ちを犯す。


 ヴァルター・グレイスの声が、夜間未受理窓口に落ちた瞬間、壁の時計が止まった。


 針は、夜と朝の境目のような曖昧な時刻を指したまま動かない。


 受付室にいた誰もが、息を止めていた。


 マルタはリーナを抱き寄せ、エルザはテオとミナを自分の背中に隠した。

 テオだけが、隠されるのを嫌がるように少し身を乗り出していたが、エルザに肩を掴まれて動けずにいる。


 ノアは、カウンターの内側でヴァルターを見ていた。


 いつもの静かな顔ではない。

 表情は大きく変わっていないのに、空気だけが違う。


 まるで、十年前に閉じたはずの扉が、目の前で再び開いたようだった。


「ヴァルター・グレイス」


 ノアが低く言った。


「ここに入る資格は、あなたにはありません」


「資格か」


 ヴァルターは受付室を見回した。


 黒い上着には雨の跡も、朝露の跡もない。

 王都庁舎の局長室から、そのまま歩いてきたように整っている。


 銀縁の眼鏡の奥の目は、冷たい。

 だが、冷たいだけではなかった。


 リディアは、それに気づいた。


 この人は、懐かしそうにこの場所を見ている。


「懐かしい場所だ」


 ヴァルターは言った。


「まだ残っていたとは思わなかった」


 ノアの指が、カウンターの縁をわずかに掴む。


「残したのは、あなたたちが受け取らなかった願いです」


「詩的な言い方をするようになったな、ノア」


「事実です」


「事実は、扱い方を間違えると人を殺す」


 その言葉に、受付室の空気がさらに冷えた。


 リディアは、カウンターの上に置かれた解雇通知を見た。


 彼女は、告発者である。


 紙の奥に残っていた本当の一文。


 彼女はその書類を受理できた。

 自分の名誉を回復するために、先に進めることもできた。


 けれど、孤児院の子どもたちの移送を止めるため、後回しにした。


 その選択を、ヴァルターは「王女と同じ過ち」と言った。


「アレリア王女も、同じことをしたのですか」


 リディアは尋ねた。


 声は、思ったより静かに出た。


 ヴァルターの視線が、彼女へ移る。


「知りたいか」


「はい」


「知れば、戻れなくなる」


「もう戻れていません」


 リディアはそう答えた。


 扉の向こうの朝。

 職員名簿の空白。

 自分を知らないと言った門番。


 すでに、彼女は昨日までいた場所から剥がされ始めている。


 ヴァルターは、少しだけ目を細めた。


「では教えよう。アレリア王女は、民の嘆願をすべて読もうとした」


 ノアが黙る。


 リディアは、カウンターの上の王女救済願が入った木箱を見た。


 白紙の申請書。

 ミリア王女の声。

 アレリア王女のかすかな一文。


 これは、終わった書類ではありません。


「王族として、民の声に耳を傾ける。聞こえはいい」


 ヴァルターは、受付室をゆっくり歩いた。


 彼の靴音が、木の床に硬く響く。


「だが、嘆願は美しい願いだけではない。土地争い。相続争い。婚約破棄。奉公契約。借金。告発。恨み。嫉妬。復讐。嘆願の紙には、人間の醜さも同じだけ乗っている」


「だから、読まない方がいいと?」


 リディアが問う。


「違う」


 ヴァルターは即座に否定した。


「読む者を選ばなければならない、ということだ」


 彼は、孤児院から持ち帰った分類外処理台帳を見下ろした。


「すべての願いを受け取れば、国は回らない。貴族の不正が暴かれれば、領地は揺れる。商会の契約が崩れれば、雇用が失われる。王家の過失が明るみに出れば、民は怒り、隣国は付け入る」


「だから、子どもたちの養子縁組願を消してもいいと?」


 リディアの声が低くなる。


「孤児院の子どもを奉公先へ流す書類を、未受理で隠してもいいと?」


「私は、その個別案件を正当化しているわけではない」


「でも、仕組みはあなたたちが作った」


「仕組みがなければ、もっと多くの血が流れた」


 ヴァルターの声は、揺れなかった。


 それが、リディアには恐ろしかった。


 この人は、自分が悪事をしているとは思っていない。

 少なくとも、ただ私腹を肥やすために動いているわけではない。


 国を守るために必要だった。

 そう本気で信じている。


「書類は」


 ヴァルターは続けた。


「人を救うためだけにあるのではない。国を壊さないためにもある」


 ノアが静かに言った。


「そのために、ミリア殿下の救済願を未受理にしたのですか」


 ヴァルターの足が止まる。


 受付室の空気が、いっそう張りつめた。


 リディアはノアを見た。


 その横顔は硬い。


 十年前、幼いミリア王女が差し出した救済願。

 若いノアが受け取れなかった書類。


 その場に、ヴァルターもいた。


「ミリア殿下は、混乱していた」


 ヴァルターは言った。


「幼い王女が、姉を殺さないでと叫びながら書類を持ってきた。あれを正式に受理すれば、何が起きたと思う」


「調査が始まったはずです」


 リディアは答えた。


「その前に王宮が割れる。第一王女暗殺疑惑。王族による告発。貴族院の関与。民の嘆願隠蔽。どれ一つ取っても、国を揺るがす火種だった」


「だから握りつぶした」


「火を消した」


「違います」


 リディアは言った。


「火元を塞いだだけです。中で燃え続けているのに、煙が出ないようにしただけです」


 ヴァルターが、リディアを見た。


 その目に、初めてわずかな鋭さが宿る。


「君は、庁舎で何を学んだ」


「書類は、正しく扱うべきだと学びました」


「幼い」


「そうかもしれません」


 リディアは認めた。


「でも、見ました。未受理にされた書類が、何をしていたのか」


 彼女は、カウンターに積まれた書類へ手を向けた。


「エマさんは、亡くなった婚約者の手紙の空白に三年間縛られていました。セシリア様は、自分で婚約破棄を望んだ事実を消され、捨てられた令嬢にされました。ユリスさんは、父親に謝れなかったまま、自分の言葉を閉じ込めていました」


 言葉が、自然に出てくる。


「マルタさんは娘を守るための絶縁届を未受理にされ、リーナさんは屋敷に留められました。テオさんは養子縁組願を消され、自分は捨てられたのだと思い込まされました。ミナさんは、叔母さんが迎えに来たことを隠され、自分が悪い子だから来てもらえなかったのだと思わされました」


 テオが、拳を握る。


 ミナはエルザの後ろで、唇を噛んでいる。


 リディアは、ヴァルターから目を逸らさなかった。


「未受理にされた願いは、消えません。見えない場所で腐って、人の時間を止めます。関係を歪めます。自分が悪いのだと思い込ませます」


 ヴァルターは黙っていた。


「受け取らなかった願いは、いつか国そのものを内側から壊します」


 その言葉に、硝子灯の光がわずかに強くなった。


 ノアが、リディアを見る。


 だが、何も言わない。


 ヴァルターは、ゆっくりと息を吐いた。


「アレリア王女も、同じことを言った」


 リディアの胸が鳴る。


「王女様が?」


「あの方は、民の嘆願を読んでいた。最初は慈善だった。困窮した民への援助、奉公人の救済、孤児の保護。美しい話だ」


 ヴァルターの声に、かすかな苦味が混じる。


「だが、読めば読むほど、嘆願は王宮へ向かった。庁舎では受け付けられない。領主は取り合わない。貴族は握りつぶす。だから王女なら読んでくれる、と」


「実際に、読んでくださったんですね」


「読んだ。そして、気づいた」


「EX-04に」


 ヴァルターは否定しなかった。


「アレリア殿下は、未受理案件を第三者が再審査する制度を作ろうとした。貴族や庁舎が勝手に嘆願を潰せない仕組みを」


「それは、正しいことではないですか」


「正しいだけでは国は動かない」


 ヴァルターの声が、少し強くなる。


「その制度ができれば、これまで押さえ込んできた不正が一斉に表へ出る。貴族院は割れ、領地は騒ぎ、王家は責任を問われる。民は救われるかもしれない。だが同時に、多くの血も流れる」


「血が流れるから、何もしない?」


「血を流さないために、選別する」


「誰が選別するんですか」


 リディアは問う。


「あなたですか。記録監査局ですか。貴族院ですか。バルツァー家ですか」


 ヴァルターの口元が、わずかに引き結ばれた。


「少なくとも、感情だけで受理印を押す者ではない」


 その言葉は、リディアへ向けられていた。


 リディアは痛みを感じた。


 たしかに、彼女は今、怒っている。

 孤児院の書類を見て、子どもたちの声を聞いて、冷静でいるのは難しい。


 それでも。


「私は、願いをすべて叶えると言っているのではありません」


 リディアは言った。


「受理は、願いを叶えることではないと学びました」


 ノアが、わずかに目を伏せる。


「受理するとは、その願いが存在したと認めることです。叶えられるか、正しいか、誰が責任を負うかは、その後に考えるべきことです」


「遅い」


 ヴァルターは言った。


「表に出た願いは、もう戻せない。民は知れば怒る。怒りは理屈では止まらない」


「隠された怒りも、理屈では消えません」


 リディアは答えた。


 受付室の床に、かすかに文字が浮かびかける。


 未受理の書類たちが、彼女の言葉に反応しているようだった。


 ヴァルターは、リディアをじっと見た。


「君は、自分の解雇通知を後回しにした」


「はい」


「告発者として復帰する道を、今は選ばなかった」


「後回しにしただけです」


「そう言っているうちに、名前は消える」


 リディアの胸が、ぎゅっと縮む。


「それも、分かっています」


「分かっていない」


 ヴァルターの声は静かだった。


「職員名簿から消えるだけではない。君の報告を受け取った者の記憶からも、君の声は薄れる。今日ここにいる者たちも、いずれ君を曖昧に思い出すかもしれない」


 テオが反射的に叫んだ。


「忘れない!」


 受付室が静まる。


 テオは、少し怯んだが、すぐに顔を上げた。


「俺は忘れない。リディア姉ちゃんが俺の書類を受理したことも、エルザさんが迎えに来てくれたことも、絶対忘れない」


 エルザが、テオの肩を抱いた。


「私も忘れないよ」


 マルタが言う。


「娘を抱きしめ直せたことを、忘れるわけがありません」


 リーナも頷く。


 ミナは小さく震えながら、言った。


「私、悪い子じゃないって言ってくれたの、忘れない」


 リディアの胸が熱くなった。


 ヴァルターは、その様子を見ていた。


 冷ややかに、ではない。


 どこか、痛ましいものを見るように。


「今はそう言える」


 彼は言った。


「だが、記録は人より強い。記録から剥がれた名は、記憶の中でも居場所を失う」


 ノアが低く言う。


「だから、記録から消してよいと?」


「消さなければ、守れないものもある」


「何を守ったのです」


 ノアの声が、かすかに震えた。


「十年前、あなたは何を守ったのですか」


 ヴァルターは、ノアを見た。


 二人の間に、リディアの知らない十年が横たわっている。


「国だ」


 ヴァルターは答えた。


「王家の継続。貴族院の均衡。民の暴動を防ぐこと。隣国の介入を避けること」


「アレリア殿下の命ではなく」


 ノアの言葉が、静かに落ちる。


 ヴァルターの表情は変わらなかった。


「救える段階ではなかった」


 リディアは息を呑んだ。


「つまり、アレリア王女は病死ではなかったんですね」


 ヴァルターは、直接は答えなかった。


 だが、沈黙が答えだった。


「王女様は、殺されたのですか」


「言葉を選びなさい」


「では、何と言えばいいんですか」


 リディアの声が強くなる。


「急病と記録された死の前に、妹君が救済願を出した。王宮では改革案と嘆願記録が回収された。臨時受付では未受理印が押された。それで、病死ですか?」


 ヴァルターは、静かに眼鏡を押し上げた。


「君は、まだ断片しか見ていない」


「だから、全部読みます」


「読めば、人が裁かれる」


「裁かれるべき人がいるなら」


「死者だけではない」


 ヴァルターの声が、低くなった。


「生者が裁かれる。今も王宮の中で息をしている者。十年間、沈黙と罪悪感の中で生きている者。自分を責め続けてきた者」


 リディアの胸が揺れた。


 ミリア王女。


 幼い頃、姉を助けようと救済願を出した少女。

 今は病弱のため公務を退いているとされる王女。


 公式には、まだ生きている。


「あの方は、もう十分罰を受けている」


 ヴァルターは言った。


「王女救済願を掘り返すことは、ミリア殿下を再びあの夜へ引き戻すことだ」


 リディアは、言葉に詰まった。


 それは、今までとは違う刃だった。


 権力者を守るため。

 国を守るため。

 そんな理屈なら、反論できる。


 だが、ミリア王女を傷つけることになると言われると、胸が揺れる。


 リディアが読もうとしている書類は、幼いミリアが出したものだ。


 本人が今、もう読みたくないと思っていたら。

 姉を救えなかった夜を、思い出したくないと思っていたら。


 それでも、読むことは正しいのか。


 ノアが静かに言った。


「ヴァルター。あなたは、ミリア殿下を守っているのですか」


「少なくとも、君よりは」


 鋭い言葉だった。


 ノアの顔が、わずかに痛みに歪む。


「君は、あの夜、殿下の願いを受け取れなかった」


 ヴァルターは続ける。


「今になって受け取ることで、自分の後悔を軽くしたいだけではないのか」


 受付室が静まり返った。


 ノアは何も言わなかった。


 その沈黙が、リディアには苦しかった。


 ヴァルターの言葉は、酷い。

 だが、完全な的外れではないのかもしれない。


 ノアは、十年前の自分を悔いている。

 その後悔を終わらせたい気持ちが、どこかにあるのではないか。


 そしてリディア自身も。


 自分の名前を消されかけた怒りを、王女救済願に重ねているのではないか。


 迷いが、胸に広がる。


 ノアが言った。


「その可能性は、あります」


 リディアは彼を見た。


 ノアは、ヴァルターから目を逸らさない。


「私は、自分の後悔を終わらせたいのかもしれません。十年前に受け取れなかった願いを、今度こそ受け取りたいだけなのかもしれない」


 彼は一度、目を伏せた。


「ですが、それでも」


 声が、少しだけ強くなる。


「未受理のまま残してよい理由にはなりません」


 ヴァルターの表情は変わらない。


 リディアは、ノアの横顔を見つめた。


 彼も迷っている。

 自分の動機が正しいかどうか、分からないままここに立っている。


 それでも、受け取らなかったことの罪から逃げずにいる。


 リディアは、胸の中の迷いを抱えたまま、ヴァルターに向き直った。


「私は、ミリア王女を傷つけたいわけではありません」


「結果として傷つける」


「そうかもしれません」


 リディアは認めた。


「でも、願いをなかったことにされ続けることも、傷です」


 ヴァルターの目が細くなる。


「あの方がもう何も望んでいないと、どうして言い切れるんですか」


「……」


「望むことを禁じられた人は、何も望んでいないように見えるだけかもしれません」


 その言葉に、受付室の奥にある木箱が淡く光った。


 白紙申請書が、中から反応している。


 リディアは続けた。


「私は、王女救済願を勝手に完全受理するつもりはありません。ミリア王女の声を聞く必要があります」


「会えると思うのか」


「方法を探します」


「王宮の奥にいる殿下に、追放された元書記官が?」


「はい」


 ヴァルターは、ほんのわずかに笑った。


「君のその愚かさは、懐かしいほどだ」


「アレリア王女も、愚かだったのですか」


「賢すぎた。そして、優しすぎた」


 その答えは、意外だった。


 ヴァルターの声には、初めて明確な感情があった。


 悔しさか。

 敬意か。

 それとも、喪失か。


「アレリア殿下は、国を紙の上から変えられると信じていた」


「あなたは、信じなかった」


「私は、紙の上の変更が現実にどれほどの血を流すかを知っていた」


「それでも、変えなければならないことはあります」


「変えようとして、死んだ」


 リディアは黙った。


 ヴァルターの言葉は、刃のように短かった。


「王女は死んだ。ミリア殿下は壊れた。ノアは記録から消えた。関わった者は散り、嘆願記録は燃やされ、国だけが残った」


「それを、守ったと言うのですか」


「そうだ」


 ヴァルターは答えた。


「国は残った。十年、戦乱も暴動もなく残った。それを、誰が否定できる」


 リディアは、孤児院の子どもたちの書類を見た。


「その十年の間に、いくつ願いが消されましたか」


 ヴァルターは答えない。


「いくつの婚約破棄届が握りつぶされ、いくつの養子縁組願が消され、いくつの面会希望届が隠されましたか」


 リディアは、一歩前に出た。


「国は残ったかもしれません。でも、その中で声を消された人たちは、どこに残ったんですか」


 ヴァルターの目が、ほんの少し揺れた。


 リディアは、受理印に手を置いた。


「私は、すべての願いを叶えられるとは思いません。すべての願いが正しいとも思いません。受け取った後の方が、苦しいこともあると思います」


 ヴァルターが、静かに見ている。


「でも、読まれないまま捨てていい願いはないと思います」


 受付室に、深い沈黙が落ちた。


 それを破ったのは、ヴァルターだった。


「では、選びなさい」


「選ぶ?」


「今ならまだ、君は戻れる」


 ヴァルターは、カウンターの上の解雇通知を指さした。


「その解雇通知を受理し直しなさい。君は告発者として再登録される。職員記録の消失も止められる。孤児院の件についても、正式な監査を一部認めよう」


 テオが顔を上げる。


 リーナも息を呑んだ。


 リディアの胸が揺れた。


「ただし」


 ヴァルターの声が低くなる。


「王女救済願からは手を引く。白紙申請書、救済願控え、王宮嘆願処理記録をすべて私に渡す。夜間未受理窓口のことも、今後一切探らない」


 受付室が凍った。


 これは取引だ。


 リディアの名誉回復。

 孤児院の一部監査。


 その代わりに、王女救済願を差し出す。


 ノアは何も言わなかった。


 テオが叫びそうになり、エルザに止められる。


 マルタも、リーナも、ミナも、息を殺している。


 全員が、リディアを見ていた。


 リディアは解雇通知を見た。


 彼女は、告発者である。


 この一文を受理すれば、自分の名前は戻るかもしれない。


 孤児院の子どもたちも、少なくとも一部は助かるかもしれない。


 現実的には、それが最も賢い選択なのかもしれない。


 王女救済願は危険だ。

 ミリア王女を傷つけるかもしれない。

 国を揺るがすかもしれない。


 ヴァルターの理屈には、重さがある。


 リディアは、深く息を吸った。


「お断りします」


 声は震えなかった。


 ヴァルターの表情は変わらない。


「理由を聞こう」


「私が戻りたいのは、あの庁舎ではありません」


 リディアは、受理印を手に取った。


「誰かの声が握りつぶされない場所です」


 ノアが、ほんのわずかに目を見開いた。


 テオが、口を閉じたまま拳を握る。


 リディアは続けた。


「孤児院の監査を条件に、王女救済願を渡すことはできません。子どもたちの願いも、王女様の願いも、取引の札ではありません」


 ヴァルターの目が、冷たくなる。


「理想論だ」


「そうかもしれません」


「理想で国は守れない」


「だから、書類にします」


 リディアは言った。


「願いを感情のまま叫ぶだけではなく、記録として残します。誰が出したのか、何が消されたのか、なぜ受理されなかったのか。全部、読んで、残します」


 ヴァルターは、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに言う。


「君は、やはり王女と同じだ」


「なら、その続きを読みます」


「続きはない」


「あります」


 リディアは、木箱の中の白紙申請書を見る。


「この書類は、まだ終わっていません」


 その瞬間、白紙申請書が淡く光った。


 箱のふたがひとりでに開く。


 白紙の中央に、文字が浮かぶ。


 まだ、聞いていない声があります。


 リディアは息を呑んだ。


 ノアも、その文字を見ている。


 ヴァルターの表情が、初めて明確に揺れた。


「……まだ反応するのか」


 その呟きには、驚きと恐れが混じっていた。


 リディアは、白紙申請書に触れた。


 紙の奥から、幼い声と、もう一つ別の静かな声が重なって聞こえる。


 まだ完全には読めない。


 でも、そこにいる。


 ミリア王女だけではない。

 アレリア王女だけでもない。


 無数の未受理の声が、白紙の奥で息をしている。


 ヴァルターは、ゆっくりと背を向けた。


「よかろう」


 その声は、再び冷静になっていた。


「君は選んだ。ならば、私も手続きを進める」


「何をするつもりですか」


「君の職員記録を、完全に削除する」


 リディアの胸が冷えた。


「そして、夜間未受理窓口に関わった記録も、可能な限り封鎖する。孤児院の件については、君が緊急受理したため、即時移送は止まった。だが、それ以上は保証しない」


 テオが歯を食いしばる。


 ヴァルターは、扉へ向かう。


 そして、去り際に振り返った。


「最後に一つ、教えておこう」


 リディアは、受理印を握りしめた。


「君が追っている王女救済願は、まだ終わっていない。あれを受理すれば、死者より先に、生者が裁かれる」


「生者……」


「ミリア殿下に会いたいと言ったな」


 ヴァルターの眼鏡に、硝子灯の光が反射する。


「あの方に会うということは、十年前、助けを求めた少女にこう告げることだ。あなたの願いは、姉を救えなかった、と」


 リディアは言葉を失った。


「それでも進むなら、覚えておきなさい」


 ヴァルターは言った。


「願いを受理された者が、必ずしも救われるわけではない」


 扉が開く。


 冷たい朝の光が差し込む。


 ヴァルター・グレイスは、夜間未受理窓口を出ていった。


 扉が閉じると、止まっていた時計が動き出した。


 かちり。


 かちり。


 誰も、すぐには話せなかった。


 リディアは、白紙申請書を見つめていた。


 まだ、聞いていない声があります。


 その文字は、ゆっくりと薄れていく。


 ノアが、静かに言った。


「リディア様」


「はい」


「今なら、まだ引き返せます」


 リディアは、少しだけ笑った。


 疲れた笑みだった。


「ノアさんまで、それを言うんですか」


「言います」


「どうして」


「私は、あの方の言葉がすべて間違っているとは思えないからです」


 リディアは黙った。


 ノアは続ける。


「ミリア殿下は、今も生きています。王女救済願を読むことは、あの方の傷に触れることでもあります」


「分かっています」


「分かっていても、実際に触れれば、違います」


 ノアの声は低い。


「私は、十年前に触れられませんでした」


 リディアは、ノアを見た。


 その言葉の中には、深い後悔があった。


「だからこそ」


 リディアは言った。


「今度は、誰か一人で触れなくていいようにしたいんです」


 ノアの目が、わずかに揺れる。


「ミリア王女の声を、勝手に読むのではなく、聞きに行きます。王女救済願を完全受理するのは、それからです」


「会う方法は簡単ではありません」


「探します」


「王宮の奥です」


「書類なら、入口を作れます」


 自分で言ってから、リディアは胸元の解雇通知を見た。


 自分を追い出した紙。

 自分を告発者として認めるはずだった紙。

 まだ完全受理されていない、自分自身の未受理。


 それが、いつか王宮へ入る入口になるかもしれない。


 ノアは、リディアの視線を追った。


「あなた自身の解雇通知を使うつもりですか」


「まだ分かりません。でも、これは私を消すための書類であると同時に、私が告発者だった証でもあります」


 リディアは、解雇通知をそっと畳んだ。


「消された書類は、使い方を変えれば扉になるかもしれません」


 ノアは、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに頷いた。


「では、次に読むべきものがあります」


「何ですか」


「アレリア王女が何を読んでいたのか」


 ノアは、焦げた王宮嘆願処理記録をカウンターに置いた。


「そして、なぜ改革案を作ろうとしたのか」


 リディアは、その台帳を見た。


 焦げた表紙。

 半分失われたページ。

 そこに残る、かすかな文字。


 王宮嘆願制度改正案――草案添付


 まだ、アレリア王女自身の声をほとんど聞いていない。


 病死したとされる王女。

 民の嘆願を読んでいた王女。

 EX-04に気づき、制度を変えようとした王女。


 彼女が、何を見て、何を守ろうとしたのか。


 それを読まなければ、ミリア王女の救済願にも辿り着けない。


 リディアは、受理印を木箱に戻した。


 指から重さが離れる。


 けれど、その重さはもう、胸の中に残っていた。


「読みます」


 彼女は言った。


「アレリア王女が読んでいたものを」


 その瞬間、焦げた台帳のページがひとりでに開いた。


 焼け残った紙の上に、淡い金色の文字が浮かび上がる。


 読まれないと分かっている願いを、それでも書いた人がいるのです。


 リディアは息を止めた。


 それは、これまでの未受理書類とは違う声だった。


 やわらかく、気高く、けれど芯の強い声。


 ノアが、かすれるように呟いた。


「アレリア殿下……」


 ページの奥で、白い王宮の廊下が揺らめいた。


 若い王女が、山のような嘆願書を前に座っている。

 一枚ずつ、丁寧に目を通している。


 リディアの目の前で、十年前の王宮が、ゆっくりと開き始めた。


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